日本盲人マラソン協会(JBMA)
ロードレースに参加して
 


 私は2011年11月13日に第29回JBMAの神宮外苑ロードレースに参加した。
当日は11月というのに、夏を思わせるような暑い日だったが、私なりに楽しい1日を過ごしたので、ここに述べてみたい。

 今回のレースの種目は神宮外苑を4周する10キロランニングと、5キロのウォーキングレースがあり、午後にはキッズレースもあったようだ。その他、小出監督のランニング ワンポイント アドバイス、伴走教室などもあった。招待者は小出監督、川崎 真由美、絹川 愛(きぬがわめぐみ)選手だった。

 参加者は視覚障害者がおよそ150人で健常者が約1000人だった。第1レースは9時40分に、小出監督のピストルを合図にスタートした。監督はスターターの経験がそれほどないらしく緊張していたように見えたとか。私はこのレ

ースに参加したが、最初のころは思うように足が上がらず、どんどん抜かれてずっと後方を走っていた。グランドを1周してここを出る所に、幸いにもあの小出監督が応援してくれていた。これはチャンスと思いそばに行って握手を求めたら「頑張ってください。」と両手を握ってくれた。彼は日焼けしたしっかりした体格だったとか、私は両手のぬくもりを大切にして走り出した。太陽はますます輝き出し熱くなって来た。3周目は汗びっしょりになったので、時々訪れる木陰と風がとても良い気持だった。タイムは77分で速い人には2周りも抜かれたようだったが、怪我もなく完走できたので感謝である。伴走者のKさんによると、銀杏並木は今年は開会日が早かったのか、あまり美しく色ずいていなかったとのこと。外苑には野球などの試合もなく、フリーマーケットだけが、にぎわっていたようだ。スタートとゴールは国立競技場だったので、更衣室やシャワーの設備なども完備されていたし、千駄ヶ谷駅からも近かったので参加者には利用しやすかった。

 私はこの大会には割合に早いころから参加していたので、OBでも古い方に属すると思う。それで大会役員や参加者は新しい人が多く、なじみの人達が少なくなった。点字の名簿を見ても、かつて一緒に走った仲間があまり見当たらず、時の移り変わりをつぶさに感じ、さびしかった。レース後は伴走者と一緒に近くの食堂に入った。そして、その日のレースを振り返り、ビールで乾杯し完走を祝った。レースの後のビールは本当にうまいものであり、これがまた大会参加の楽しみの一つである。

 ここでJBMAについて少し書いてみたい。これは小田原市のSさんという中途失明者が29年前に創立したものである。彼は60歳ごろと思うが、ランニングに興味をもち、自分で楽しむだけでなく、協会を設立して全国に盲人のマラソンを広めた。1メートルのロープを輪にして結び、これを伴走者との絆にして走る方法を広めたのも彼だといわれる。当時は一般のマラソン大会には視覚障害者は、危険だからといって参加が認められていなかった。それで自由に視覚障害者が走れる大会を開いたのである。彼が会長を退任されてからは、大会は東京で開催されるようになったが、それ以前は小田原の陸上競技場でよく行われた。前夜祭も競輪選手の宿舎を宿として行われ、全国のマラソンについての情報交換などをしたものだ。レースが目的だったがここでの交流会もまた楽しみの一つだった。その頃は北は北海道から南は九州までの選手が約200名は集まった。個人競技の他に9か所に分けたブロック別の対抗リレーのレースがあり、優勝したブロックにはカップと表彰状を授与した。北関東ブロックも1度優勝したことがあり、半年ずつカップと表彰状を茨城と栃木で交換して、地元に飾った思い出がある。また、協会で参加者を募集してホノルル、沖縄、宮崎、出雲、霞ヶ浦、塩原などの大会に団体で参加もした。本当に懐かしい思い出である。

 今は視覚に障害があるといって断る大会はないと思う。そればかりでなく、パラリンピックにも視覚障害者のマラソンが、正式の種目として認められているのである。そんな時代になったのだが、スポーツの多様化のためか視覚障害者のマラソン愛好者はあまり増えていないように思える。健康の維持には、ウォーキングやランニングが全身運動として、一番良いのではないかと思う。東京マラソンの人気は年ごとにすごいものであり、一般のマラソン熱はしばらく続くのではないかと思われる。私達も努力してウォーキング、ランニングで気持ちのよい汗を流そうではありませんか!!

 帰りの列車の中で、居眠りをしながら歌を作ったので紹介してみたい。

 10キロを 青空のもと 走り出す ピストル打つは 小出監督

 ヘルパーと 神宮外苑 走り切る 完走祝い ビールで乾杯

 
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