極東サハリンの旅 



 私はサハリン(旧樺太)についてはあまり情報もなく、ほとんど知らなかったし長い間興味もわかなかった。そういえば、戦前の地図を見た子供の時代に、北海道の西北にあった細長い島で半分が赤く染められていたことを、おぼろげながら思い出す。最近、サハリンという名前をニュースなどで聞くようになり、機会があれば一度行って見たいと思っていた。今回幸いにもその願いが叶ったのだ。ワイフの父も若いころ働いていたので、ぜひお供したいということで一緒に行くことになった。2012年9月27日から8日間のツアーだった。
 ここでロシアのサハリン州(旧樺太)について簡単に述べて見る。樺太は北緯45度から55度以内で北海道とは宗谷海峡を、ユーラシア大陸とは間宮海峡を隔てて位置する、南北に細長い島である。長さは約900キロメートルで面積は北海道よりやや小さい。1905年日露戦争で勝利した時から1945年第2次世界大戦の終戦まで、40年間、日本が南樺太を支配していた。沢山の人が住み、一時は40万人の人々が島の開発に尽力していたという。農業、林業、パルプ製造や製紙工場などが盛んであり、石炭、石油、天然ガスなど地下資源も豊富な処だった。終戦後は、全領土がロシア国の支配となり現在に至っている。北緯50度以南を南サハリン、以北を北サハリンという。時差は日本より2時間早い。成田から飛行機で2時間40分である。通貨はルーブルで1ルーブルは約3円だった。
 州都はユジノサハリンスク(豊原)であり、人口は18万人でその他にホルムスク(真岡)、コルサコフ(大泊)、ドリンスク(落合)が主な街であり、私達はこれらの街を訪れた。どの町にも拓殖銀行跡、王子製紙工場跡、神社や寺、学校や郵便局などの跡があり、かつて日本が栄耀栄華を極めた痕跡があった。古い建物の一部は温水を供給する工場や事務所として使われたり、住宅として役立っているようだった。しかし、神社やお寺はでこぼこの石段と鳥居の土台石、狛犬さんの台座などを触れただけで、他に体験できるものは残っていなかった。その他に観光したものは、ガガーリン公園、レーニン広場、戦勝記念碑、戦死者の墓地、ロシア聖教の教会、郷土博物館、展望台、自由市場なだった。この旅行で特に印象に残ったものを次に書いて見よう。
 まず、夕食をロシアの家庭を訪問して奥さんの手作り料理を御馳走になったことである。ここには30代のご夫婦に3人の子供さんがいた。家庭菜園はきれいに整理されておりパーティー用の部屋に12人が通された。スープ料理のボルシチやサラダ、ピロシキ、手作りケーキ、ウォッカー、野菜と鶏肉の料理などを食べさせてくれ、とてもおいしかった。野菜はほとんど菜園からのものだったという。ご主人がウォッカーを進めてくれたので、私は小さなコップで2杯ほどいただいてしまった。とても飲みやすかった。そのうちにほろ酔い加減のいい気持になったものだ。庭では犬が興奮したのか、喜んでいたのか元気に吠えていた。また、4歳の坊やが、プレゼントされたボクシングのグラブをはめてはしゃいでいたとか、実にほほえましい家庭だった。
 ドリンスクに行く時にサハリン鉄道に乗った。きれいな列車が3台で、貨車は数10台連結された長いもので珍しかった。ただ、駅にはプラットホームがないので、車内に乗る時には取り付けられた梯子状の階段を上らなければならなかった。発展途上国にはよくみられるものであるが、整った日本のホームを本当に有難く思った。
 レーニン広場はあちこちにあったがそこにはよくレーニンの像があった。一番大きなものは15メートルもあったとか、その大きさにはびっくりした。
 道は幹線道路だけは舗装されていたが、他はでこぼこで、車に乗るとよく揺れたし、歩きにくかった。雪は2メートルぐらい積もるとか、障害者の冬の歩行はさぞかし大変だろうなと思った。
 次にロシア聖教の教会であるが、これは屋根は玉ねぎ形の美しい建物で、礼拝堂は机や椅子が一つもない大広間だった。入っていくと、声量のあるアカペラのきれいな聖歌のコーラスが聞こえていた。ロシア聖教の教会では、オルガンやピアノなど楽器を使わないことと、立って礼拝をすることが特徴だとガイドがいっていた。
 次にサハリンから飛行機で40分くらいのウラジオストック訪問について書く。ここの人口は60万人、日本海に面し漁業貿易、軍事面で重要な所で、シベリア鉄道の出発点である。ここでは中央広場、ニコライ凱旋門、鷲ノ巣展望台、C56潜水艦、要塞博物館などを見学した。びっくりしたのはこの潜水艦の大きかったことだ。長さは50メートル以上はあったろうか、スクリューや大砲、魚雷などを触ったが、みな大きかった。船室内にも入り、珍しい機械に触れた。今までの旅行で潜水艦を触ったのは初めてだった。
 ここでも家庭を訪問してランチを御馳走になった。ここは75歳の老夫婦だったが家庭菜園もきれいに栽培しており広い家に住んでいた。手作りのスープやじゃがいもの煮ものなど私はお代りをしたくらいおいしかった。後期高齢者の夫婦が外国の視覚障害者の団体の訪問を受け入れる心の広さに私は感動した。日本では考えられないことだ。
 ここからシベリア鉄道でハバロフスクに向かった。約10時間の旅だった。私達は2等車に乗った。2段ベッドの1部屋4人だった。トイレは各車両の端についていた。私は上段のベッドに寝たのだが、これはこちらの背の高い人に合わせてあったのか、私にとっては高く感じられた。だから、トイレに行く時は、はしごを伝っての乗り降りはとても大変だった。また、夜行列車だったためか、アナウンスは全然なかったのでちょっと不安だった。モスクワまでは1週間もかかるとか、途中駅での停車時間は長く、10分以上は停車していたように感じられた。やはり乗り降りの際はホームはなく、取り付けられた階段を使用しての下車だった。
 次にハバロフスクについて書く。ここはアムール川とウスリー川の合流点にあり極東の経済、文化の中心地であり、人口は40万人である。ここでは展望台、教会、郷土史博物館、日本人墓地などを見学し、アムール川の遊覧船にも乗った。川は濁っていたが、ガイドの言うには、この水が栄養豊富なので、そのお陰でプランクトンや魚がよく育つのだとのことである。博物館では今では絶滅したマンモスや恐竜を触ったが、その大きさにはびっくりした。トナカイなどいろいろの動物の剥製などもあり、一部触れるものもあった。
 今回の旅行で、樺太の学校跡で珍しいものを触って見ることができた。それは奉安殿であった。戦時中は、日本のどこの学校にもあり、厳重に管理されていた。この前を通る時は、誰でも最敬礼をして通らなければならなかったものだ。日本では今は決して見ることはない。この中には天皇の写真や教育勅語が入っていた。
 極東ロシアは日本よりはさぞ寒かろうと覚悟してきたのだが、サハリン、ウラジオストック、ハバロフスクも日中は暑く28度にもなる日があり、持ってきたコートやセーターの出番はなかった。しかし、朝晩は涼しく、めっきり秋を思わせるような気候だった。やはり、ここでも地球の温暖化が影響しているのだろうか?
 お土産品だが、熊や鳥の彫り物、鮭の皮で作った手芸品などアイヌの民芸品のようなものが多かった。また海産物もいろいろとあった。珍しかったのは昆布のチョコレートや昆布の缶詰があったことだ。物価は日本よりやや安いかなと思うぐらいだった。
 車だが以前は日本の中古車がほとんど走っていたそうである。ガイドの言うには、車を解体して部品で輸入し、組み立てて販売するそうである。現在は監視が厳しいが、それでも日本車がだいぶ走っていたようだ。
 子どもたちの夏休みのことだが6、7、8月と3か月あるそうだ。私は冬が長いから日本の寒冷地のように、冬休みが多くて夏休みは少ないのではと思っていたら反対だった。こちらでは輝く太陽の夏を大いに楽しみ、体を鍛えるため夏休みが長いようだ。授業時数が足りないのではと聞いたら、土曜日も授業があるのでそれは確保されているとのこと。冬は部屋で勉強したり体育館で運動したりして過ごすようだ。日本とは休みの考え方が違っているように思えた。所変われば生活や考え方が変わって当然のこと、己を知ることも難しいが、他人、他国を理解することは、さらに難しいものだと考えさせられる旅だった。
 ホテルのことだが、約20年前にモスクワを訪問した時には、トイレにはロールペーパーはなく、あってもひどい紙だったし、食事もお粗末だったように記憶している。今度の場合はどこのホテルでも部屋は広く、飲料水は毎日用意してくれ、食事もとてもおいしかった。部屋も広く、お湯の出もよく、ほとんど欧米のそれと変わりなかったように思う。
 飛行機はアエロフロートだったが、機内食も良かったし飲み物も無料だった。ただ、ゲイトから飛行機に搭乗するまでが違っていた。今回は飛行機に乗る時はバスで近くまで行き、取りつけられたタラップを昇ったのだ。視覚障害者の私にはちょっと苦手だった。最近は大きな空港では雨でも濡れないような移動ブリッジが、ゲイトから飛行機まで取り付けられており、スロープの廊下を歩くような感じで搭乗できるのが普通だ。
 ガイドから視覚障害者についての話を聞く機会はなかったのでよく分からないが、少なくとも点字ブロックや音響式信号機などには遭遇することはなかった。察するに国土も広いためか、これら福祉の問題はこれからのような気がした。8日間の長い旅を終えて、全員が無事に帰国できたことを感謝して筆を置く。

 

 
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