アラスカ旅行記



 私は久しぶりの海外旅行として、2011年10月6日に8日間のアラスカ旅行に参加した。今までにあちこちと外国を訪れたが、オーロラの見えるエスキモーのいる国は初めてだったので、旅行前からわくわくした気分になり、それとなくなにかを期待していた。

 アラスカについて簡単に説明すると、これは北アメリカ大陸の北西端にあるアメリカで最大の州であり、州都はジュノーである。最大の街はアンカレッジであり、人口は 27万ぐらいである。人種はモンゴロイド系の海岸エスキモー、内陸エスキモー、アラスカインディアン、ヨーロッパ系の白人の4種である。もとはロシアの領土だったが 146年前に720万ドルでアメリカが買収した。面積は日本の約4倍で、人口は70万ぐらいである

 このツアーのコースは成田から8時間半の飛行でシアトルに行き、約3時間の飛行でフェアバンクスに着いたのである。帰りは偏西風の影響のためかアンカレッジから成田まで11時間の飛行だった。いろいろと珍しいことに遭遇したので思いつくままに書いてみよう。

 まずオーロラの観測であるが、夜10時ごろホテルからバスで観測所に出かけた。誰も寒さを予想してかスキー場に行く時のような完全防備の服装で出かけた。まだ10月の始めだったので、寒さは日本の冬ぐらいの感じでそれほどでもなかった。バスを降りて展望台のような所に上った。休憩室のような部屋は暖房されていたので温かかった。ベランダのような広場に出て上空を見上げていたら、ガイドさんが「オーロラが現れました、あれですよ。」と叫んだ。見える人は一斉に北の空を見上げていた。最初はぼんやりしていたようだが、だんだんはっきりして来て輝き出したとのこと。形は白蛇のようなものだったらしい。5分ぐらいしてまた薄くなり消えていった。そんなオーロラが1時間のうちに数回現れるのである。色や形、濃淡などは全部違っており、コロナ状、膜状で白、赤、緑などである。その後にはベールのような膜状のものも見えたとか。ガイドの言うには「皆さんはラッキーです。こんなによく現れるの
は1か月に1度か2度ですよ。」と言っていた。われわれは寒くなったら部屋に戻ってコーヒーなどを飲み、また現れたら出て行って眺めていた。見えないのが残念だったが雰囲気を味わうことができた。話によれば、空が真っ赤になるような血の海のオーロラや白い柱が何本も現れる骸骨オーロラがまれに現れるそうである。これらは戦争や災害などの起こる前ぶれとしてエスキモーの間では恐れられていたそうである。オーロラについて述べると、これは北極や南極の上空約100キロに現れるもので、太陽からの帯電微粒子が、電離層中の空気の原子や分子に衝突して起こる発光現象であり極光とも言われている。

 次にアラスカ縦断原油パイプラインについて述べる。ここのパイプラインは直径が1.5メートルもあり、低い土手の上で5メートルぐらいの高さの架橋の上に設置されており、パイプラインの橋のように見えた。その見本が置かれてあったので、これをみんなで触って見たのだが、その太さにはびっくりした。子供ならその中を立って歩けるくらいだったからだ。これは北極海の油田の原油を南の港まで輸送するもので長さは、1280キロで、約40年前に完成したものである。ここでは道路の整備は難しく北極海は冬は凍るのでアラスカにとってこの建設は必須のものだったに違いない。ガイドの説明によると、この輸送管は日本製であるとのこと、設置に際しては日本の技術が高く評価されていたのである。

 次はビーバー村の訪問について書く。フェアバンクスからは6人乗りのセスナ機で行ったのだが、行きは北緯66度33分の北極圏まで飛び旋回して、北緯64度のビーバー村に着陸した。窓から見える北極圏地帯は見渡す限り全面が雪で覆われていたとか。帰りはビーバー村からフェアバンクスまで直行した。往復で約2時間の飛行だった。日本ならタクシーに乗って訪問したような感じだった。ここはかつて、日本人の安田恭介氏(フランクやすだともいう)が、北極海のポイントバローに住むエスキモーを移住させた所である。エスキモーは生来鯨やアザラシを取りその生肉を食べて生活していたが、白人たちの捕鯨の乱獲により、生活が困難となって来た。それで彼はこの地に移住させ、ゴールドラッシュの時に、仕事を与え、理想的な村を建設した所である。今でも当時のままの小学校や郵便局などが残っており50人ぐらいが住んでいるとのこと。われわれは安田夫妻の墓参をし、また、小学校では元気な子供たちのボール遊びなどを見学し、村を1周したのである。説明によれば、この学校は安田氏の出身地(石巻市)の学校と姉妹関係にあり、今でも交流をもっているそうである。ここで案内してくれた方はこの村に住むクリフ・アダムスさんという50歳ぐらいのエスキモーの男性だった。最後に彼はわれわれ一行を自宅に案内し、コーヒー、鮭やカリブー(トナカイ)の薫製を御馳走し、狼やビーバー、ミンクなどの毛皮を触らせてくれた。これらはいずれも柔らかくすばらしいものだった。クリフさんは自宅は自分で建てたそうで薄型テレビや電気器具、自動車などもあり、ここに住んでも都会と同じ文化的な生活をしているように見えた。帰りには航空会社から北極圏到達証明書を記念にいただいて来た。

 ここでフランク安田恭介について述べて見よう。彼は1868年に医者の家に生まれ、20代に船員となり、アラスカに渡った。その後北極海のポイントバローに住み、エスキモーの女性と結婚し、ビーバー村のリーダーとして、生涯を捧げた。彼はジャパニーズモーゼとも言われ、村ではサンタクロースとして子供たちにも慕われていた。第2次世界大戦の時には、日本人ということだけで強制収容されてしまったので、村は荒廃していったという。終戦後、彼はまた村に帰り、エスキモーのために尽力し1958年90歳で亡くなった。この間故郷には一度も帰らなかったという。年老いた彼がユーコン川の岸辺に立つ時、遥かなる故郷の北上川を思い出し、郷愁にかられていたのではなかろうか?

 次に犬ゾリについて書こう。ここは冬は氷点下30度にもなる所だから、川も道路もすべて凍りつく。それで輸送手段としては犬ゾリを使用する。われわれが訪れた犬舎には84頭の犬が飼われていた。われわれが近づくと歓迎のためか珍しいのか、犬達は一斉に吠え始めにぎやかだった。早速、犬ゾリを体験することになった。今は道は凍っていないのでソリでなくカートが用意された。1台のカートにわれわれが5人とスタッフが乗った。カートの左右の綱には犬が6頭ずつで12頭が繋がれた。スタッフの号令で犬達は勢いよく走りだし、この施設の周囲を1キロぐらい回った。道が

舗装されていなかったのでカートは上下左右に揺れに揺れた。しっかり捕まっていないと振り落とされるようで、お世辞にも心地よいとは言えなかった。犬は大型のハスキー犬が多かったが競走用の品種もいた。

 次にチナ温泉について述べる。フェアバンクスの郊外にチナホットスプリング リゾートがある。ここには世界で2番目に大きな露天風呂があった。直径が43メートルで源泉の温度は70度の高温だった。この所有者は、ゴールドラッシュの時に金鉱でなく温泉を掘り当てたそうで、それがずっと続いているとのこと。露天風呂には男女とも水着を着て入るのでプールのような感じだった。私はしばらく温まっていたが、人のいないところを選んでゆっくりと泳いでもみた。温水プールで泳ぐことはあるが、42度ぐらいの温泉プールで泳いだのは初めてである。まだ行ったことはないが世界一大きい露天風呂はアイスランドにあるそうである。

 アラスカといえば氷河も有名である。われわれが観光したのはマタヌスカ氷河で長さが43キロ、幅が3.2キロの広大なものだった。しかし、地球の温暖化現象のためか、最近では1年に3メートルぐらいずつ溶けて後退しているそうである。バスで入口まで行ったがなかなか入らない。どうしたのかと聞いてみると、ゲイトがあかないとのこと、不思議なこともあるものだとさらに質問して見ると、ガイドの言うに

は「氷河は国立公園で国のものだが、その周囲の土地は個人のものなので、地主の許可がないと入れないのです。」とのこと。しばらく待たされてからやっと入ることができたのである。日本では考えられないことだ。バスを降りてから少し凍ったようなでこぼこ道を歩いて行くのだが視覚障害者には難所でもあった。アイゼンを使用してさらに奥の氷上散策をした団体もあった。また、結婚式をここで挙げている人達にも出会った。残念ながら広大な氷河は見えなかったが溶けて流れている小川のせせらぎは聞くことができた。

 フェアバンクスからアンカレッジまではアラスカ縦断鉄道に乗った。5両編成で、客車の他に食堂車と貨物車がついていた。長時間の乗車なので車内を歩いて見たが乗客は少なかったように思う。トイレはゆったりとしていてきれいだった。所要時間は12時間で、1週間に2往復するだけで、駅以外でも希望があれば途中で乗ることもできるとか、のんびりしたものである。速度はゆっくりしたもので、並行して走っている車にはどんどん抜かれていたようだ。また、どの駅にも乗降のためのプラットホームはなく、短いはしご段が取りつけられ、ここから乗り降りしていた。これも珍しいことだった。車内放送はしばしばあったが、英語だったのでよく分からなかった。この鉄道の歴史や観光の説明をしていたらしい。昼食は食堂車で食べたのだが、メニューは大きなハンバーグのサンドイッチだった。車窓の風景はだんだん南に近づくにつれて緑の森が目立ってきた。アンカレッジに近づいたころ、幸運にも天気が良かったので、アラスカ最高峰の美しい山「マッキンリー」が見えたそうである。

 次に水上飛行機について述べる。アラスカは山脈とツンドラ地帯が多いので、道路や鉄道など交通機関の整備は遅れているようだ。むしろ他国に比べて軽飛行機の利用が盛んのように思われる。フッド湖、スピナード湖など大きな湖を観光した時だが、沢山の軽飛行機が湖面に並んでおり、爆音をとどろかせ次から次へと飛び立っていた。聞くところによると、個人でも飛行機を持っており自家用車のように使用しているとか。湖面を発着に利用する時はブイを付けて水上飛行機になり飛び立つそうである。日本では体験できない爆音だった。

 次にビックゲームという動物保護センターを訪れた。ここは何らかの原因で、親から離れてしまった子供の動物を保護する所である。熊やカリブー、ムース(へら鹿)などアラスカの動物が沢山いたようだが、みなおとなしく鳴き声や足音など聞くことができなかったので、私にはよく分からなかった。熊はそろそろ冬眠に入りそうだったとか。

 また珍しいサンタクロースの家にも寄った。ここにはサンタクロースやクリスマスのグッズが沢山集められ販売されていた。いつでもここから世界中に、クリスマスカードやプレゼントを送ることができるとのこと、日本ではあまり見られないお店だった。いろいろな鈴の音などは聞こえたがその他の美しい商品はよく分からなかった。

 次にお土産品や食べ物について述べてみたい。食べ物で特においしかったものは、キングサーモンと大きなたらばがにだった。カリブーのソーセージも食べたがそれほどおいしいと思わなかった。珍しいお土産としては白樺のシロップがあった。これは白樺の幹に傷を付けてそこから汁を取り、これを煮詰めて作るものでカナダのメープルシロップのようなものである。その他、ラズベリー、クランベリー、ブラックベリーなどのエキスを使用した菓子類、エスキモーが作った民芸品や毛皮が沢山あった

 アラスカでガイドや車の運転をしてくれた人達は日本人が多かった。鹿児島県出身のガイドのMさん、稚内出身の運転手のKさん、ガイドのYさんやNさんなど、われわれにとても親切に接してくれた。「住めば都」とかで、皆さんアラスカを愛していた。氷点下50度にもなる日もたまにあるそうだが、こんな時は川も湖も道路もすべて凍ってしまい、もっぱら移動や輸送にはソリを利用するそうである。真冬は吐く息も凍り、外はどこも自然の冷凍庫になる。しかし、暖房は完備しており、ホテルや住宅などどこの建物に入っても温かかった。国が広いのに人口は少ないから個人でも広い屋敷を持つことができ、ゆったりと住むことができる。オーロラが見られ、おいしい食べ物があり、豊かな自然に囲まれた生活は、慣れるとすばらしいものなのかも知れない。そして、季節や場所によっては、ムース、バッファロー(水牛)、カリブーなどの大移動、ビーバーの珍しい生態、サーモンや各種の魚などアラスカ大自然の魅力は、多くの人々の心を引き付けずにはおかないのだろう。

 最後に参考までにアラスカ旅行に興味のある人のために書くが、旅行費用は一人当たり43万3000円でこれに飛行機の燃料費が加算される。また参考読み物としては新田次郎の「アラスカ物語」(点字)、星野道夫の「イヌニックアラスカの原野を旅する」(デイジー)がある。視覚障害者はインターネットでサピエ図書館にアクセスすると、いつでも読書できるのでお勧めしたい。

   

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