一日一生(2月号)
「歌は我が喜び」



 皆様お元気でいらっしゃいますか?今年はインフルエンザが大流行!200万人を突破したと聞いています。私たちが子供の頃は、小中学校では、ほぼ全員、予防接種をしていました。ところが、何人かの子供が、ショック死をしたために、裁判ざたになり、インフルエンザを学校でしなくなりました。それ以来、学校、幼稚園では大流行となりました。子供が感染し、家に持ち込み、高齢者にうつるのです。最近では、高齢者が予防接種を自主的にするようになりました。
 日頃、私がこの季節になると思うのですが、厚労省は、希望する子供たちに、何故学校や幼稚園で予防接種をしないのか?それをするだけで、医療費がどれほど節約されるだろうか?と、思うのですが、皆様この提案は如何でしょうか?
 さて、今回は歌謡曲を中心に、私の人生を振り返りたいと思います。
 幼い頃、我が家にはラジオしかありませんでした。1960年代は、朝から晩まで歌謡曲がラジオから流れていました。私は、その歌を聞きながら成長しました。
 58年、栃木県立盲学校小学1年に入学した時、担任の小牧先生が、「阿久津君、大好きな歌は何?歌ってごらんなさい?」とおっしゃいました。私は待ってました!とばかりに、三橋美智也の、「夕焼け空がまっかっか、とんびがくるりと輪を描いた」と歌い始めました。驚いたのは、小牧先生!「あのね、学校では流行歌は歌わないの!」と言われて「咲いた 咲いた チューリップの花が 並んだ 並んだ 赤白黄色 どの花見ても 綺麗だな」その他に「蝶々 蝶々」や、「ブンブンブン 蜂が飛ぶ」などを歌った記憶があります。
 しかし、私の頭の中は、三波春夫、三橋美智也、春日八郎などのヒット曲で詰まっていました。
 そんな折、昨年の年末から年始にかけて、人間の記録シリーズの中から、古賀政男、遠藤實、船村徹、美空ひばりなどの自伝を読んで、私の心は懐かしさで溢れました。
 小学校時代は、御三家と言われた、橋幸夫、船木一夫、西郷輝彦の黄金時代でした。私は橋幸夫に夢中になり、意味も分からずに、「潮来の伊太郎 ちょっと見なれ場…」などと良い気持ちで歌っていました。女生徒の多くは、船木一夫、西郷輝彦に夢中でした。
 64年、東京オリンピックが開催されました。新幹線が走り、3Cといわれ、カラーテレビ、クーラーカー(車)の時代となりましたが、クーラーが我が家に入ったのは、それから20年も先のことでした。その前に洗濯機でしたね。
 私の中学・高校時代は、先輩たちの影響もあって、洋楽へと移って行きました。ビートルズ、ビーチボーイズ、ローリングストーンズ、クリフ・リチャード、コニー・フランシスetcです。ビルボードヒットチャートの番組に、私たちは一喜一憂しました。何も意味も分からずに耳から入る音で、英語の歌を覚えたのです。
 私には8歳年上の兄がおり、5年生の時兄は18歳で就職し、ステレオとレコードを買いました。そして、兄は、自分のために、ビートルズのPlease Please meなどを買ってきて、私に得意になって聞かせました。父親には、村田英雄のLp板をプレゼントしました。父は、王将、人生劇場などを喜んで毎晩聞きました。そんな分けで、我が家のステレオからは、一節太郎の「浪曲子守歌」のような、和洋折衷の歌がながれました。
 ここで、船村徹さんの自伝、私の履歴書から一部を紹介します。 
 船村徹さん
 1932年、栃木県塩谷郡船生町に生まれる。今市高校2年で中退し、東京にある、東洋音楽学校に17歳で入学する。栃木弁でコンプレックスを持っていた時、高野公男と、劇的な出会いをする。 授業中、思わず「ちく こけいうな」(うそ、ばかり言うな)と叫んだのがきっかけとなり、茨城県笠間市から来ていた高野と親友になる。その頃、黒柳徹子さんが、1年先輩で、船村さんがピアノを引いて伴奏をすると、「あんた、ちゃんと弾きなさいよ!」と例の高い声で叱咤された。
 流しや様々なアルバイトをする。学校で、茨城県出身の高野公男と出会い、高野が作詞、船村が作曲として、6年間、生みの苦しみを経験する。
 1954年、船村22歳、二人の合作、三橋美智也が歌うご機嫌さん、達者かなでヒット曲をだす。
 55年、春日八郎のヒット曲、別れの一本杉が大ヒットする。これは、高野公男の自らの体験から生み出されたものである。映画にもなるが、その途中で、高野は、結核のために、26歳でこの世を去る。
 1961年、船村29歳、村田英雄の王将が未曾有のヒットとなる。ロカビリーの流行の中、船村徹さんは、王将で日本の歌で勝負をかける。宇都宮の競輪の最終ドラを聞いて、王将の中に、ドラの音をいれようという、インスピレーションを受ける。
 無二の親友・高野公男さんは55年に、結核で26歳で亡くなる。船村さん、これまでに作曲したのは、4千曲以上になる。しかし、私の知る限りでは、その中でもヒットしたのは30曲程度ではないかと思う。世の中は厳しいものであることを実感した。歌が良くてもヒットするとは限らないものだ。
 遠藤実は、貧しさのどん底から這い上がった作曲家である。流しを経験する。3曲で100円であったという。やがて、作曲家として、コロンビアに入る。自分は高校に行けなかった憧れから、舟木一夫さんのために、高校3年生、学園広場、修学旅行、仲間たちを作曲する。さらに、森昌子のために、中3シリーズ、先生をはじめ、数曲を作曲する。島倉千代子のために、からたち日記を作曲して、スランプを脱する。ヒット曲を出して1500万円を手にした時。それを枕の下において、寝たと言う涙ながらの話があった。それまでは、長屋暮らし、時には、雪が降るような長屋にも寝泊りしたという。
 話が前後しますが、私の最もお気に入りは青春時代の、65年から75年までの10年間と思います。GS、グループサウンド時代の歌、ワイルドワンズ、タイガーズ、ブルーコメッツなど若者たちは熱狂したがそれも数年で消えて行きました。
 72年に大学に入ると、4畳半の下宿で、コーヒーを飲みながら、FMラジオを聞いました。78年のかぐや姫の神田川は、私に大きな刺激を与えました。作詞は、喜多条忠ですが、年齢は私とほぼ同年代です。若い男女が3畳4畳半で同棲するとは信じられなかったが、大学紛争に荒れ狂う彼らにとっては、異性を求める気持ちから同棲が日常的になり、神田川、赤ちょうちん、22歳の別れなどがヒットしたのだろうと思います。下宿住まいの私の心にも、その気持ちはビビッと響いてきました。
 やがて、80年代、90年代となり、キャンディーズ、ピンクレディーの大ヒット。続いてスピードなどの沖縄の歌手たちの全盛期となりました。その頃になると、私は、盲学校の高校生の話題についていくのが、やっとといったところでした。
 90年代に入ると、我が家の息子と娘が、カラオケに行くと、安室奈美恵、浜崎あゆみの歌を歌いだしました。最初は良く分からなかったけれども、良く聞くことても良い歌であることが分かりました。そして、モーメンツ、ボヤージュなど3曲がレコード大賞になり、私も浜崎あゆみのファンになりました。
 最近のAKB48のグループにはついていけません。昭和の歌が私にはあっているようです。歌は世につれ、世は歌につれと言いますが、時代の流れをものの見事に反映していると思います。
 今は、大学時代のフォークソング、かぐや姫、吉田拓郎、グループサウンズ、南沙織などの歌を5時間にまとめて、毎晩子守唄にして聞きながら眠るのです。かつては、カセットテープでしたが、デジタルの時代になりました。5時間続けて聞くこともできます。しかし、90分のタイマーをセットして、いつの間にか夢の中に入るのです。
 心に疲れを覚えのある時は、モーツアルトの局やイージーリスニングで、コーヒーブレイクも楽しいものです。歌は喜び心の癒しになります。
 最近は、二月に一度、増田君に、音楽愛好グループのリーダーになってもらって、かつての懐メロから数曲を選び、1年に一度の音楽発表会を目標に、ギター、ウクレレ、3人の女性歌手たち、そして、私のピアニカで演奏を楽しんでいます。その後の2時間のカラオケは、ストレス解消です。
 以上、今回は、音楽と共にある私の生活を書かせていただきました。皆さんにも、人生の転機になる局が沢山あることと思いますが、幸せなことと思わずにはいられません。
 船村さんも、本の中で書いていました。最近の歌は、聞く歌というより、見る歌になり、歌詞の意味は、じっくり聞く暇がない。心を込めて歌を作ってものだと。
 昨年、解散したsmapの世界に一つだけの花が、みんなから愛されているのは、作詞をした、槇原敬之さんが、どん底の中で、花屋さんの前を通って心に響いたことから生まれた作詞であるので、私たちの心にも響く、メッセージソングかと思います。
 次回は、弥生、3月の予定です。
 (一部、敬称略)
追伸、船村徹さんが、2月16日にご逝去されました。心からご冥福をお祈りいたします。


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