第4回 私の読書ノート(1)




 皆様こんにちは。22日・23日は、鍼灸マッサージ師の国家試験です。日ごろの学習の成果が出ますように応援しております。3月に入ると学校では卒業式の季節です。
 さて、今回は最近の読書から本の紹介をさせていただきます。
1 渡辺和子さんのエッセイ集と本の紹介をいたします。渡辺和子さんのエッセイ、出版社はすべてPHPです。「愛をこめて生きる」、「愛がなければ」、「愛をつかむ」、「美しい人に」、「愛することは許されること」、「目に見えないけれど大切なもの」、「置かれた場所で咲きなさい」と「面倒だから、しよう」(この2冊は、幻冬舎です)。
 今回は、そのエッセイ集の中からと、私が聞いた渡辺和子さんの講演をもとに、シスターの人生をまとめてみました。
 渡辺和子さんは、現在もノートルダム清心学園理事長をしていらっしゃいます。和子さんは、1927年の生まれですから、今年87歳になります。9歳の時に、陸軍で、教育総監であった父・渡辺錠太郎を「二・二六事件」で亡くしました(彼女の前で銃殺されたと聞いております)。二・二六事件とは、1936年2月26日、陸軍の将校を中心に、1400人を超える人たちが起こしたクーデターでした。和子さんは、軍人の妻である母親に厳しく育てられました。母親は、口にしていた言葉がありました。「世の中は思う通りにならないことが沢山あります。思いが叶ったら感謝しなさい。」
 彼女は、今でいう小学校6年までしか出ていませんでしたが、とても賢い人でした。戦後、「これからは英語が大切ですから、英語の勉強をしっかりしなさい。」と言っていました。和子さんは、すでに現在の聖心女子大学の国文科を卒業していましたが、1948年に同大学の英文科に、21歳の時に入学しなおしました。母親に反抗をしたのは、17歳の時でした。戦争が終わる1年前のことでした。母は常に、努力しなさい、我慢しなさい、不自由しなさい、そして1番になりなさい、と言い続けました。友人からは「和子さんは鬼みたい」と友達から言われました。そんな時、自分の性格が嫌いでたまりませんでした。双葉女子高のシスターに「私はもっと優しい人になりたいです。」と言いました。するとシスターは待っていましたとばかりに、「和子さん今の自分が嫌ならば洗礼を受けなさい。洗礼を受けると新しい人になれるのよ。」と言われました。そのようなことが動機となり、1945年の4月2日の復活祭の後に、双葉の教会で洗礼を受けました。しかし、それを聞いた母は大変立腹しました。「うちは浄土真宗なのよ。なぜ、敵国の宗教に入るのか!私たちのご先祖様たちにあなたはどんな気持ちなの!」、そして、三日間一言も口を聞いてもらえませんでした。洗礼を受けたからといっても、和子さんの性格は変わりませんでした。母親は、そんな彼女に、「それでもあなたはクリスチャンなの。あなたは私の大反対をおしきって許可もなく、洗礼を受けた。少しは、ましな人間になるのかと思っていたけど、ちっとも変わってないじゃないの。」。その言葉は彼女の胸には、とても痛い言葉でした。心のどこかで洗礼はマジックだと思っていたのだと思います。自分勝手に思い違いをしていたのでした。「信仰とはもつものではなくて、生きるものだということ」を知りました。そして、こんにちの「座右の銘」となっています。
 30歳になって、修道院に入る決心をしましたが、日本ではどこも受入れてもらえませんでした。そこで、アメリカ・ボストンの修道院に修練のために1年間行くことにしました。行ってみて、シスターがやることといえば、皿洗い、皿をふくこと、草取り、お手洗い掃除などを1週間交替でやることでした。100人いる修練生の中で、日本人は彼女1人でした。それは8月の暑い日でした。当時は冷房などありませんでした。汗を流しながら、お皿、コップ、フォーク、スプーンなどを並べていました。すると修練長から、「あなたは何を考えながら仕事をしていますか?」と聞かれました。シスターは、「別に何も考えておりません」と答えました。すると、修練長は厳しい顔になって、You are waisting time と言われました。「あなたは時間を無駄に過ごしている」と言うのです。不機嫌そうな顔をしていると、修練長は、微笑をして「あなたが分けているお皿を配りながら、夕食を食べる人のためにお祈りをしながら、配ってはどうですか?」といわれました。それまではつまらない、つまらない…、どうして私が、どうして私がと思っていました。それがお幸せに、お幸せにと祈りながら置く。この経験から、仕事をする時に、することではなくて、する時の気持ちが大切なのだということに気が付きました。憎しみの時間を過ごせば、それが人生に残ります。愛をもっての人生を過ごせば、愛の人生が残るのです。やがて、シスターは、アメリカから帰国して岡山へ行きました。しかし、慣れない生活で、慣れない言葉もあって、置かれた所で困った経験を沢山することに直面しました。
 その翌年2代目の学長が急逝し、渡辺和子さんが3代目の学長となることになりました。まだシスターは36歳でした。修道院でも、学校でも慣れない人、慣れないことばかり…。そういうことがありまして、シスターは、「くれない族」になってしまいました。お辞儀をしてくれない、誉めてもくれない、お礼もいってくれない、挨拶をしてくれない、職員がミスをしたのにお詫びをしてくれない、くれない、くれない、シスターは修道院を出る決心をしました。行き詰まったシスターは、ある時、神父(しんぷ)様に、不平不満をおもいっきり、ぶつけました。神父様は、私の話しを聞いてから、「あなたが変わらなければ何をしても、どこへ行っても同じだよ」とおっしゃったのです。その言葉に、目から鱗がとれたような気持ちになりました。
 つまり、私が変わること、私が環境の主人公になることだというのでした。そんな時、ベルギーの神父さんから、小さな詩をいただきました。「神様がお植えになった所で咲きなさい」でした。咲くということは、しかたがないと諦めることではありません。咲くということは、あなたが幸せになって、周りの人たちを幸せにして、神様があなたをそこに植えたことが間違いでないことを知るのが「咲く」ということなのです。重要なことは、自分が自由になるために人を許すことができるようになることです。人を許すことは、相手の支配下から自分が自由になることです。相手が成功するか、失敗するか、そんなことを考えているというのは、自分がその人に支配されているということだと感じるのです。思いがけない失敗などをした時には、このことから、神様は私に何を教えていらっしゃるのだろうと、考えると良いと思います。シスターは、50歳の時に、2年間ストレスから、うつ病になりました。そのことを通して、同じ病気になる学生の気持ちが分かるようになりました。「もしかしたら、神様が私をうつ病にしてくださったのかも知れません」と書いています。
 最近、感じることは老いるということです。皆さん今日より若い日はないのです。発想の転換が必要なのです。明日はまた1日年をとる。どちらをとるか?今日が私にとって一番若い日なのです。「ヤンゲスト デイ」と考えれば、どっこいしょの数も減っていきます。年をとるとふがいない、人様の世話になります。でも、その自分を受入れる。自己受容が大切なのです。以上が、本のあらましと、講演で聞いた概略です。幾度となく聞いた話もありますが、シスターの体験からのメッセージには説得力が感じられ、生きる力が与えられます。
2 木塚泰弘著、「目が見えなくなって見えてきたこと」(小学館スクウェア、点字書・デイジー版は大阪ライトハウス)
 木塚先生は、1935年に大学の教授をしている父親の子として誕生しました。この本は、17歳の時に、結核性眼底出血のために失明をしてから、60年の自伝的エッセイ集です。入院中の時の2人との出会いによって価値観が変えられました。見えないことに留まらず、チャレンジと努力で生きていこうと決断をした木塚先生。筑波大学附属盲学校の理療科に進み、専攻科に入学しながら早稲田大学の2部の社会学を専攻しました。3年生からは大学生活に専念し、すばらしい卒論を書き、卒業の時は、首席で卒業しました。62年から71年まで、東京都立久我山盲学校英語の教師となりました。72年に国立特殊教育総合研究所に入り、研究員、研究室長、研究部長を歴任、99年から2013年まで、日本ライトハウスの理事長を勤めました。その他、多方面でもご活躍中です。昨年、出版されたばかりの出来たてホヤホヤの本ですが、私も感動をもって読ませていただきました。盲学校の教職員の皆様には是非ご一読いただきたいと思いますし、視覚障害者を理解するのには大変すばらしい本です。
 私が木塚先生にお会いしたのは、1980年頃から92年頃までの12年間に、文部省認定の教科書を、点訳するための委員として、3年に1回の会議でしたが、1年に6回程お世話になりました。また、98年の全日本盲学校研究大会でも、英語科部会で、島根県でご一緒させていただき、さらに「視覚障害」という機関誌にも原稿を推薦していただきました。木塚先生は中途失明の方ですが、もともとのシャープなセンスで、一人歩きは言うまでもなく、論理的に思考することに大変優れていらっしゃいます。教科書の点訳に関してですが、私は、先天的な視覚障害者の立場から点訳について意見を述べさせていただきましたが、先生は、私には見えないが故に理解できないことを、いとも簡単に理解して、こんなふうに点訳をすれば良いとのアドバイスをしてくださいました(私には見えないことが、木塚先生には見えていたのだと思います)。また、最も驚いたことは、先生は、一度聞いたことや過去の出来事を全て記憶し、論理的・体系的に記憶し、講演も、原稿なしでお話をしていらっしゃいました。
 この「目が見えなくなって見えてきたこと」とは、何か?多くの人たちは、「それは心の目でしょう」と思われると思います。しかし、私は先生が強調されたのは、視覚が奪われた時、残された聴覚・嗅覚・触覚・味覚等のあらゆる感覚を利用して、環境を的確に把握し、状況判断ができることでした。チャレンジとアイディアをフルに生かしての60年の人生でした。管理職となってからは、全国にいる人たちを的確に理解し、適材適所の判断をして、私にもチャンスを与えていただきました。盲学校の教育の変遷、教育界の問題点、福祉の在り方など、大変示唆に富んでいる、自伝と思います。「古きを尋ねて新きを知る」という言葉がありますが、皆様にも是非ご一読いただきたいと願っています。ここでは書くことのできない程の豊富な体験と実践研究の内容が、大変わかりやすく書いてあります。今後、盲学校では、読書必須の本と思います。
 今月も間もなく終わりますが、今年は数十年に一度の大雪が降りました。電車、バス、タクシーも2月15日から16日にかけて、動きませんでした。今年は、雪の日がまだ多く続くかも知れません。宇都宮は積雪32センチ、前橋は70センチ…。私が幼い頃は、このような時には雪を茶碗に入れて砂糖をかけて食べたこともありました。今は、放射能が入っていますから、とても食べられませんね。ソチオリンピックでは、葛西選手の銀メダルが心を撃ちました。41歳にしてメダルを獲った葛西さん、どんなに嬉しかったことか!そして、ジャンプをサポートする会社を見つけて、仲間と共に助け合ったスキージャンプ!多くのことを教えられました。98年の長野オリンピックでは、清水宏保さんが、500メートルのスピードスケートで金メダルを獲った時のコメントに、「これからも絶えず意識のレベルを高くして生きていきたい」と言っていましたが、私もあの時から自分に言い聞かせております。若さとは年齢ではなくて、理想をもち続けることなのですね。
 次回は3月8日の予定です。



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