第6回 私の読書ノート(2)
「流星ひとつ」




 こんにちは、3月も下旬を迎えました。先日、ほぼ2年ぶりに、栃木県立盲学校を訪問し、心の故郷に帰ったような気持ちでいっぱいになりました。特に、図書館では、私のライフワークのひとつであった点字図書に関するボランティアの皆さんとの思い出が、次々とよみがえりました。生徒、教員として、盲学校では50年間、お世話になったところです。最もお世話になったのが、図書館から借りた点字や録音図書、そしてボランティアの皆さんとの交流でした。今回は、2年前に完成した我が人生旅日記を、盲学校の図書館に寄贈することができました。兵庫県にある高砂六星会の橋本様に点訳をしていただき、私にとりましては、本当に嬉しい記念となりました。
 さて、今回は、つい最近読みました本です。沢木耕太郎著「流星ひとつ」(新潮社)について感想を書きながら、私の思い出も書きたいと思います。この本は、昨年8月22日に、13階のマンションから飛び降りて、自死した藤圭子さんについてのインタビューを取材した本です。しかも、彼女が芸能界を引退した1979年の時のものです。藤圭子さんは、79年に28歳で歌手としての生活を引退しました。その後、アメリカに移って生活し、宇多田さんと結婚して、ヒカルさんが誕生しました。今回の本は、先にも書いたように、生まれてから引退するまでの28年間について、圭子さんのありのままの生活を告白してあります。私の知らなかったことが沢山ありました。皆様にも是非ご一読いただけると嬉しいです。私なりに、その本の中から心を打ったことを、いくつか取り上げて書きます。
 圭子さんは、1951年7月5日に、岩手県一関に生まれました。私も同年に生まれましたので、読んでいて話の内容や思い出話は、ビ、ビ、ビと伝わって来ました。60歳以上の方ならば、みんな経験したことのある幼小期の思い出が語られています。圭子さんは、兄弟の3番目に生まれました。そして、彼女が気がついた頃には、お母さんは失明をしていました。圭子さんは、それからずっとお母さんと一緒に生きました。両親は、浪曲家として日本中を巡業して周りました。北海道旭川町で、小学、中学を過ごしました。幼い時から、圭子さんの声は、何故かガラガラ声で、歌がうまいというわけではなくて、「どうして、この子はこんな声をしているのかね?」と、みんなから言われていました。しかし、両親と巡業をする中で、圭子さんも場をもたせるため、変化をつけるために、歌謡曲を1曲、2曲と歌うようになりました。主に神社や寺の境内が多かったといいます。その中で、家族は貧困のどん底にありました。1950年代は、まだ、浪曲は町や村では人気がありましたが、テレビの普及、64年の東京オリンピックを境に、浪曲はラジオからも次第に放送されなくなりました。圭子さんが中学3年生の頃ですから、66年と思います。彼女の歌を聞いた作曲家の石坂まさをさんが、渋い声を聞いて、これはおもしろい、個性的な歌手になれるのではないかとスカウトをしました。生活に困窮していた圭子さんの家族では、石坂さんに圭子さんの面倒をみてもらうことになり、中学校の卒業式を待たずに、東京へ行くために津軽海峡を渡りました。
 東京では、先生の家に住まわせてもらいながら、家の手伝いをして、レッスンを受けました。そして、68年17歳の時に、新宿の夜でデビューをして、ヒット曲をだしました。翌年、18歳「圭子の夢は夜開く」で、昭和の歌姫として大ヒットしました。18週間連続、ヒットチャート第1位をキープしました。そんな中、71年19歳で、クールファイブの一人、前川清さんと結婚をしましたが、1年後、離婚となりました。自分でも「あの頃は未成熟でした」と、語っています。前川さんのことは、今でも好きですし、歌がダントツにうまいと言っています。結婚も、愛し合う2人というよりも、兄弟のような関係だったといいます。そして、2人とも超人気歌手であり、すれちがいも多く、若い圭子さんにとっては、結婚生活が精神的負担になったことと思われます。人気絶頂の中、圭子さんは、74年に23歳の時に、喉にポリープがあるからということで、手術を受けました。しかし、それから5年後、28歳で引退を決心したのでした。
 「流星ひとつ」の中で、圭子さんは、苦しそうな声、歌と人はいうけれど、私にとっては、あのガラガラの声で歌った時が私の本当の姿でした。苦しそうな声、それをグッと押し出すときに、何とも言えない良い気持ちで歌えていたの。それがポリープを摘出したら、声は良くなったけど、かつての私ではなくなってしまったようなの……と、言っていました。他の人は「綺麗な声で、スッキリしていて、とても良い歌ですよ。」というけれど、圭子さんにとっては、納得がいかなかったのでしだ。そんな自分が我慢できずに、引退を決断したというのです。これが、この本の概略です。
 
 この度、私も本を読んでから、you tubeで、「圭子の夢は夜ひらく」と、手術後に歌った「面影平野」という歌を聞き比べてみました。すると、圭子さんが言っていた気持ちが、私にも響いてきました。音楽やカラオケに興味のある方、是非聞いてみてください。音楽とは実にデリケートなことが良く分かります。
 藤圭子さんは、デビューしての5年間、無我夢中で歌い続けました。そして手術をした後に、自分が持っていたものを失っていたことに気づいたのでした。ポリープは摘出しないで、安静にしていれば良かった…との後悔が、それからずっと残りました。沢木さんは、35年前に取材をしましたが、色々な人たちに差し障りがあるので、本の発行をしませんでした。そして、昨年の圭子さんの訃報を聞いて、この「流星ひとつ」の発行を決断したのでした。本の出版については、その当時から、当人から了解を受けていたのでした。引退後、圭子さんは、アメリカに渡り、英語の勉強をしたり、音楽の勉強もしたと思います。そして、そこで宇多田さんとの出会いがあり、ヒカルさんが誕生しました。
 では、どうして圭子さんが、62歳で自死したのか?はっきりとは私にも分かりませんが、「流星ひとつ」の中にも書いてありましたが、寂しがり屋の圭子さん、ついついアルコールに依存してしまいました。そして、被害妄想などの心の病で長年苦しみました。生きることに疲れを覚え、希望を失って、自ら命をたったのではないかと思います。
 10年間の歌謡界における見事な歌手生活、その後の悲喜こもごもな人生、人の幸せとは何か?この本を読んで改めて深く考えさせられました。隆盛を極めた10年間に、レコーディングは108曲、売り上げは百億を超えました。圭子さんが、歌手の時には10人を雇うだけの収入がありました。お母さんと、お手伝いさんの3人で暮らした人生でもありました。父親の暴力に耐えかねた圭子さんは、母親に離婚を勧め、その後は、彼女が母親の生活の面倒をみるばかりではなくて、父親の生活までみたとあります。「お父さんは、戦争に行ってから心の病気になって、気にいらないと、誰彼なく家族に暴力をふるったの。私には耐えられなかった。」(中略)。そんな幼い頃からの体験が、圭子さんの心には、不安定な精神、絶えずおびえている気持ちに支配されていたのではないかと思います。
 現代社会でも、子どもへの虐待が増加の一途をたどっています。平和と言われるこの日本社会、しかし、格差社会が広がり、貧困層が増えているこの社会で、家族とは何か?幸せとは何か?圭子さんの華やかな芸能生活からも、警鐘が鳴らされていると、私は教えられました。
 この本に関して、私が付け加えたいことは、芸能界での金銭感覚が麻痺してしまうということです。貧しい家庭に育った圭子さん、ヒット曲を出してから、総売り上げは何百億円になりました。その10パーセントとしても、30億円はくだりませんでした。そこへ、圭子さんに近づいてとりいる人たちが、「お金を貸して欲しい」とやってきました。彼女は、ある人には10万円、ある人には30万円と貸しました。最高は3百万円でしたが、返しに来た人は、100人中1人でした。15万円を借りに来て、しばらくして返しにきたそうです。こちらから催促したら、逆切れをされたといいます。当時、夜の飲み会も、人気歌手の圭子さんが出すのが当然と思われていました。この芸能界の体質は今でも変わらないことかと思います。ですから、時には詐欺にあったり、だまされたりする歌手が後をたたないのですね。
 もう一つは、圭子さんは、目の見えないお母さんをこよなく愛したことが、切々と書かれていました。今となっては遅いことですが、そんな藤圭子さんに会ってみたかった!せめてコンサートに行きたかったとつくづく感じました。正直いって、私の青年期は、演歌ではなくて、GS(グループサウンズ)とビートルズなどのポピュラーに夢中になっており、藤圭子さんが、これほどヒットしていたことは、認識していませんでした。宇多田ヒカルさんのお母さん、そして、そのお母さんが中途失明者で、浪曲をやっていたことは、圭子さんが25歳の頃に、日本点字図書館でのお母さんへのインタビューで知りました。私たちと同年齢の圭子さんの人生の歩みと苦労を知りました。そして、人と人との心の繋がり、絆が幸せを共有することのポイントであることをもう一度、痛感した1冊の本でした。
 今月も間もなく終わりですね。21日から春の選抜高校野球が始まります。栃木県からは2校のチームが出場します。春の本格的到来です。これから野球を楽しめる季節となりました。夜はプロ野球の放送も4月になると始まります。大リーグの試合も気になりますが、まずは日本のプロ野球の開幕です!期待をして楽しみたいと想います。次回は、4月12日の予定です。



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