第21回 私の読書ノート(4)
原爆投下は予告されていた
(国民を見殺しにした、陸海空軍の犯罪)




 皆様、こんにちは。月日は巡り、11月になりました。朝夕はめっきり寒くなりました。そろそろインフルエンザの予防接種をしたいと思っております。こう書いているうちに、11月4日から6日まで風邪を引いてしまいました。幸いにも、4日に、定期通院の予定がありましたのて、助かりました。今週は安静をするように言われました。皆様もご留意ください。
 今回は、古川愛哲著「原爆投下は予告されていた」についての概略と私の感想を書きます。
 この本は、2011年に発行されましたが、視覚障害者が音訳として聴くことができたのは、今年の夏頃からでした。友人の紹介によって、この度聴くことができました。実に衝撃的な本です。メディアでの紹介はほとんどなされていないようですが、これも、時代の流れ、右傾化する政府の影響を受けているからでしょうか。多くの人たちに知っていただきたいと痛感しております。
 本の内容は、ずばり題名通りです。広島・長崎に原子爆弾が投下されたことを、実は当時の陸軍・海軍・空軍の上層幹部たちは知っていたというのです。そして、そのことが単なる推測ではなくて、様々な資料、特にアメリカやイギリス、オーストラリアの資料や、体験者による告発もありますので、真実性は極めて高いものがあると思います。
1 広島に投下された原爆について
 広島に投下された原子爆弾の開発は、アメリカ独自ではなくて、米英共同による開発であることを知りました。1942年の頃には、すでに開発されていたということです。日本軍がハワイに宣戦布告しないで、いきなり攻撃したことから、日米開戦が始まりました。当初は、日本軍はシンガポール・マレーシア・インドネシア・フィリピン等、勝ち進んで行きました。しかし、軍隊がアジアの奥へ奥へと進軍していくうちに、アメリカ軍によって、食料、燃料の補給路が断たれてしまいました。太平洋上での戦い、トラック島、サイパン島、伊王島での激戦によって玉砕しました。それを境に日本軍は敗退し続けました。日本が負けることは、45年に入ると、海軍の方では、概ね分かっていたようです。何とか終戦にもちこみたいとの考えが強くなりました。しかし、陸軍は頑強に交戦を主張し続けたのです。
 決定的なのは、1945年7月26日のポツダム宣言でした。無条件降伏を、日本に向けて発信されました。しかし、陸軍はガンとして拒否し続けました。先に書いた、太平洋の島々での敗退を知り、沖縄が6月に玉砕したのですから、ポツダム宣言を受諾すれば、原子爆弾によって、数十万人の命が、一瞬にして奪われることはなかったのです。そればかりか、被爆した人たちの後遺症は、戦後70年になろうとする今日でも、苦しんでいる人たちが数多くおります。
 アメリカ・イギリスは、日本軍に対して、ポツダム宣言を受諾するように、何度も外交努力をしましたが、頑強な陸軍は拒否し続けました。アメリカは、日本軍が無条件降伏をするためには、原子爆弾の投下は止むを得ないとの判断に傾きました。しかし、イギリスは否定的でした。どれだけ甚大な被害がおよぶか、想定できません。それに、連合軍の兵士の中にも、かなりの捕虜が日本にいたからです。その人たちの居場所は、現在と異なり、彼らにも分かりませんでした。しかし、アメリカは戦争を1日も早く終わらせることが、日本国民にも有益である。多少の犠牲は止むを得ない、それに、アメリカ兵も数多く死んでいるという論理がありました。一例を挙げますと、伊王島の戦いでは、日本兵が2万1千名が亡くなったのに対して、アメリカ兵も7千人が亡くなったといいます。
 さて、原爆の投下については、先に書いた理由の他に、はたしてどれだけ原爆の威力があるか、開発したアメリカにとっても、大きな関心事でもありました。それには巨額の資金が投入されていたからです。そして、ソ連が、日ソ不可侵条約を撤回して日本に宣戦布告をすることも、見抜いており、アメリカの力をソ連にも思い知らせてやりたいとの意図もあったかと思われます。
 では、どうして広島を選んだかといいますと、広島は、海軍の中心地であり、日本一の軍港都市でもありました。まずは、そこを叩いて、日本軍に大打撃を与えようとの判断がなされました。8月6日のことについては、サイパン島からのラジオによって、原子爆弾が投下されることは、短波放送と中波による、日本向けラジオ放送で、3回予告されていたというのです。一般国民は、敵国の放送ですから聴くことはできませんでした。しかし、日本には、敵性放送を受信して相手の出方を聴取するという方法をとっておりました。広島には、40人の2世の女性が24時間体制で、アメリカからのラジオ放送を聴き、毎日日本語に翻訳して、特定機密情報として、軍部や政府に情報が随時提出されていました。その量は、1日200ページと言われています。ですから、原子爆弾が投下されることは、陸軍を中心に上層部の人たちは知っていましたが、早く和睦をすべきだと主張する軍部の人たちには知らされていませんでした。その良い証として、原爆が投下された時、広島にいた、軍部のトップ指導者は、広島の中心地から遥か遠くにいましたし、前日東京に帰っていた人もいるというのです。また、広島には、B29を打ち落とすだけの大砲が備えてありました。どうして、打ち落とさなかったのか?その答えは、B29が、主に偵察目的のために使われていたので、軍隊はもちろん、国民の多くが、偵察機だと信じるようになっていたというのです。
 8月6日の原爆投下について、軍部は原子爆弾と知っていました。しかし、新聞、ラジオでは、新型爆弾という言葉ですり込みました。何も知る由もない、国民は「ピカドン」という言葉で、恐ろしい爆弾がアメリカにはあるということになったのです。広島には少なくとも、12人のアメリカ兵の捕虜がいたといいます。しかし、そのことは、アメリカ国内でも機密事項になっているとのことです。おそらく捕虜のほとんどが亡くなったことでしょう。かろうじて助かった人たちの体験談が語られたり、証言されていると思います。
2 長崎に原爆が投下されたことについて
 こちらは、広島よりも多くの証言があります。8月9日の原爆を積み込んだ飛行機には、イギリス人も乗っていました。その時には、原爆投下のあとをフィルムに撮影するという目的もありました。当初、アメリカは福岡県の小倉に原爆を投下する予定でした。昨年、NHKテレビの放送によると、その日の午前中は天気が曇っていて、視界が悪くて投下できなかったと報道されていました。しかし、今回の古川氏の本によると、これは間違いだそうです。福岡県には、炭鉱が沢山あり、原爆が投下されたら大変だと軍部が考えたかどうかは明らかではありませんが、工場からモクモクと煙が立ち上り、その他にも煙幕が張られており、飛行機から小倉の町を見ることができなかったというのです。小倉には、外国からの捕虜が5千人おり、日本軍は、その人たちを盾代わりにしたのかも知れません。燃料がつきてきた、アメリカ機は、第2候補の長崎に向かって投下しました。その悲惨さは言葉にはなりません。この本によると、アメリカの捕虜を含めて、イギリス、カナダ、オランダ、オーストラリアなどの捕虜が百人以上いたといいます。捕虜たちも、命からがら山へと向かいました。食べ物もなく、畑から芋や野菜を生のままかじりました。日本軍は、捕虜たちが復讐をするのではないかと恐れたそうですが、彼らも被爆者です。日本軍の人たちが弁当を食べていても、捕虜たちには、ガラスの入った食べ物を与えました。賢い人がそこにいて、水を足せばガラスが沈むから、浮かんでいる飯を食べようということになったというのです。さらに、外国の捕虜たちは、日本の人たちにとても優しく助けてくれたと言っています。それに対して、日本の兵士たちは、一般市民に、実に厳しく、冷たかったと書いてありました。
 これが全てではないかと思いますが、陸軍の幹部たちは、自分の命令は天皇陛下の命令だと悪用していました。最も酷い例としては、現在のミャンマー、当時はビルマと言いましたが、死ぬための行軍と言われていた、ビルマでの戦いで、300人におよぶ傷病兵を、天皇陛下の命令だと称して、穴を掘り、生きたまま、彼らを埋めてしまったと書いてありました。従軍した看護師たちには、他言あいならぬとの命令が出されていたのです。8月9日の夜には、アメリカの船が、密かに長崎に、捕虜を救い出すために、闇に乗じて寄港したとありました。そのことから、長崎では、アメリカ軍が攻めてくるとの噂が流されたそうです。
 戦後、栄養失調のために、子どもたちが、疫病や赤痢のために沢山亡くなりました。実は、その間、水道には塩素が全く使われていなかったというのです。塩素は、軍隊が毒ガスを作るために使い果たしていたという、実に悲しい話もありました。つまり、軍部の上層部の人たちは、戦争の状況を、短波放送や日本向けのラジオ放送で、しっかりと聴いていました。しかし、国民には敵性語として全く知らせていなかったのです。これは、3年8ヶ月前の、福島原発の時も同じでした。古川氏によると、菅総理は、スピードという、放射能測定器によって、安全を確認して、福島に行ったといわれていますし、その頃、名古屋市・大阪方面では、ホテルの空き室が予約で一杯になっていたというのです。国会議員の多くが脱出した、または、脱出しようとしていたと思われます。
 今回、私が最も痛感したことです。それは、2011年3月12日のことです。アメリカの放送では、福島に住んでいる、アメリカ人の皆様は、原発地から50マイル(80キロ以上)の距離に移動してくださいと、何度も放送していました。他方、枝野官房長官は、「ただいま調査をしています。原発の近くの皆様は家の中にいてください。健康には問題がありません。」と、13日頃まで報道していました。私は、英語の聞き違いかと何度も思いました。どうして、日本とアメリカの報道がこんなに違うのだろうか?……。それからしばらくして、5キロ以内、10キロ以内の人たちの避難が始まりました。アメリカの人たちには分かっており、当事者には知らされていなかったのです。それは、今日も同様です。真実は、10年後か20年後に分かるのではないでしょうか?甲状腺癌にかかる子どもが増えている、大人が増えているといえば、虚偽であると政府は否定します。また、現地でも放射能は語ることさえタブーになっている、生活がなりたたないからといいます。
 オリンピックのために英語の勉強も必要かもしれませんが、今回読んだ「原爆投下は予告されていた」を読んで、英語を勉強して自ら、英語を通して、日本のマスメディアよりも、外国からの放送の方が信頼できることを確信しました。メディアが政府の御用聞きになってしまうことは情けないことです。実に恐ろしい恐怖の社会です。この本を書いた古川氏に敬意を表したいと思います。一人でも多くの方に、この本を読んでいただき、私たち自ら平和を作り出す者になりたいと真に願います。
 10月27日から11月9日までが読書週間です。今年の標語は、「めくる、めぐる本の世界」です。次回は、11月22日です。お元気で!




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