第25回 出会いとチャレンジ
「百万人の福音」




 これは、95年、月刊誌「百万人の福音」で、ペンライト賞をいただいた原稿を、ほぼ同じまま紹介します。
 1951年の5月、私は、栃木県宇都宮市の小さな町に9人兄弟の7番目として生まれました。本来ならば、ラッキーセブンということで大変幸運のはずなのに、その兄弟のうちで、私だけが生来の盲人として、この世に出てきたのですから、両親はどんなに悲嘆に暮れたことでしょうか。
 ところが、我が家の中でもさらにアンラッキーとしか言えない兄弟がいたのでした。というのは、その9人兄弟のうち、4人が幼くして、栄養障害や病気のために死んでしまいました。ですから、私が小学校に入る時に、気がついた時には、5人兄弟の4番目ということになっていました。1番上が姉で、それから4人が男ということで、私はその5人兄弟の4番めということでした。しかし、生き残った5人兄弟の中で、目が見えないというのは、私一人だけということには、なんの変化もありませんでした。
 7歳になると、家を離れ、県立盲学校に入学するために寮で生活をするようになりました。そこでの生活は、私のように目の見えない人たちが沢山おり、家を離れての寂しさが全くない訳ではありませんでしたが、むしろ、けっこう楽しい生活でした。
 小学生の頃は、自分の目が見えないことに対してさほど悩みも感じませんでしたが、中学3年になってから、はっきりとした原因がわかりませんでしたが、頭の上から抑えつけられるような圧迫感を感じるようになりました。その最も大きなきっかけは、私の将来への希望がないということに、ある日、突如として気がつきました。そうして、私の心の中には「どうして、どうして」という言葉が朝から晩まで繰返し響いていました。「どうして自分だけが家族の中で目が見えないのだろう」、「どうして自分の身長が伸びないのだろう」、「どうして目が見えないからといって、職業の自由がないのだろう」などなど。そして、こんなことなら、自分は生まれてこなかった方が良かったのではないだろうかと思うようになりました。
 そんな時、寮にいるある先輩が、入浴中にふと、こんなことを言いました。「阿久津、聖書の話を聞きにいかないか?」、「聖書ってなんですか?」、「うん。ほら、阿久津の教わっている英語の鈴木先生が、毎週土曜日の午後に、自分の家でバイブルクラスをしているんだ。希望すれば英語の聖書も教えてくれるし、それよりも魅力的なのは、聖書の話を聞いたあとにお茶とお菓子がでるんだよ。」 私は当初、その話を聞いた時、ドキリとしました。というのは、英語を教えている鈴木先生は、とても怖く近付きがたい先生のように思われてしかたがありませんでした。英語には興味をもっていましたが、鈴木先生と聞いて二の足を踏んでしまいました。しかし、先輩の最後の言葉「お茶とお菓子が魅力的だ」という言葉に引かれてしまい、土曜日の午後は、寮にいても退屈なので、先輩の後ろから恐る恐るついて行きました。
 鈴木先生の家は、私たちが生活をしている所からは、歩いて2・3分の所にありました。玄関を入ると、7・8人の寮の先輩たちが来ていました。やがて、その一人が、皆に点字の讃美歌を配り始め、何やら番号を言ったかと思うと、一斉に歌い始めました。私も教えられたままにページを開いてみると、その歌は小学生の音楽の時間に習ったことのあるメロディーでした。『いつくしみ深き友なるイエスは』という有名な312番でした。
 鈴木先生は、それから聖書を開き、普段盲学校の授業の先生とは全く別人のように私には感じられました。先生は、自分が大学を出てから東芝に就職し、バスケットボールの試合中に選手と激突し眼底出血をおこし、それが元で、27歳の時に、両眼を完全失明してしまったこと、絶望の中で何度自殺を考えたかわからなかったが、看病をしている母の悲しむ顔を思いうかべるとどうしてもできなかったこと、さらに従兄弟の導きによって、イエス様を信じることにより人生が変えられたこと等を話してくださいました。そして、ヨハネによる福音書9章3節を引用され「私たちの目が見えないのは、神様の御計画によるものであるから、神様を信じることによって、それぞれが人生の本当の目的と希望があたえられるんだよ」と熱っぽく話ました。
 その話を聞いて、私の心も、何か熱いものがフツフツとわいてくるのを抑えることができませんでした。自分は「どうして目が見えなく生まれてきたのだろう」という、心からの叫びに先生は答えてくれた!しかも、今までに幾度となく聞かされた「信心が足りないから、目が見えなくなったんだよ。」とか、「先祖の供養がたりないんだよ」というような言葉とは全く違っていました。自分には目が見えなく生まれてきたことが最大の不幸であり、不運だと自分の運命を呪っていました。しかし、鈴木先生は、イエス様を信じれば、生きる希望と目的が与えられるというのです。「そうだ!自分にはこれしかないのだ。神様がいるかいないかは分からないが、信じれば人生の目的と希望があるというのだから、イエス様を信じてみよう!」私は、その時から毎週土曜の午後は必ず鈴木先生のバイブルクラスに出席するようになりました。
 中学部を卒業すると、引き続き同じ所にある高等部に進学し、技術を身に付けようと思い、按摩、マッサージ、はり等の勉強をしました。高校2年生のある時、鈴木先生の家でのバイブルクラスのおりに、私は、先生に思い切って聞いてみました。「先生、僕、大学へ行きたいのですが無理でしょうか。」 先生はしばらく黙っていましたが、「阿久津、君は、大学を卒業したらどうするつもりでいるんだ?」 「分かりませんが、英語をもっと勉強したいんです。」 「勉強してどうするんだ。」 私は、その問いに答えるべき解答をもちあわせていませんでした。すると先生は次のように言いました。「大学へ行って英語の勉強をするのも良いだろう。しかし、君は大事なことを忘れていないか。それは、自分の人生を神様のために使うこと、そして君の仲間である同じ盲人のために生きるということを忘れてはなんにもならないぞ!まずはイエス様を自分の救い主として信じ従う時に道が開かれるんだ。大学に行くというのは一つの手段であって目的じゃないんだよ。自分のエゴという罪を悔い改めてイエス様を信じることから全てが始まるんだ。」と諭してくださいました。
 それから私は、バイブルクラスと共に日曜日には、鈴木先生の行っていた日本キリスト教団四条町教会に出席するようになりました。そして、1971年(昭和46年)12月19日に野本牧師より洗礼を受けさせていただきました。私を受洗へと導いた御言葉は、前にも書いたように、ヨハネによる福音書9章3節、イエスは答えられた「本人が罪をおかしたのでもなく、またその両親がおかしたのでもない。ただ神の御業が彼の上に現れるためである」という御言葉でした。その翌年の1972年、念願がかない、私は東京町田市にある、桜美林大学の英米文学科に入学することができました。
 7歳から14年間というもの、盲学校という同じ目に障害をもつ仲間との生活を離れた私にとって、全てが新しい体験であり、驚きでした。まず住居を探さなければなりませんでしたが、幸いにも大学から歩いて数分の所に食事付きの親切な下宿が与えられました。大学生活での最大の苦労は、大学で使う教科書をどのようにして点字にするかということと友人関係の二つでした。
 今から24年前のことでしたから、現在のようにボランティアが沢山おりませんでしたので、教科書の大半を独力で準備しなければなりませんでした。そのために、まず普通字(または活字とも言う)の教科書をいち早く手に入れ、それを友達に読んでもらい、1字1字を、私が点字にしなければなりませんでした。大学での授業が終わると下宿にまいもどり、友達に次の日に使う教科書を点字に書きました。夕食を除いて1日に7時間も点訳に費やした時もありました。友人関係を円滑に保つために、限られた仕送りの中から1時間につき何がしかの謝礼を支払いました。この教科書作りは果てしなく続きました。私のために協力をおしまなかった友人には、今でも感謝しております。もしその協力がなかったら、私の学生生活は中断せざるをえなかったことでしょう。そのクラスメイトのお陰で、教科書も7月を迎える頃には、ようやく見通しがつくようになってきました。
 ところが、もう一つの問題は友人関係でした。大学に行っても隣に座ってくれる人がいません。男子学生は、教室の後ろの方に固まっているし、女子学生も進んで私の隣に座ってくれる人はいません。毎日、私の両脇はいつも空席でした。そして私が行く所では、どこでも遠巻きにしてじっと見ているような感じがしてなりませんでした。そうなると、精神が不安定になり、自分はとんでもない思い違いをして大学に来たのではないだろうか、大学に入ること事態間違っていたのだと思うようになりました。そんな中でも、私は毎朝聖書を読み、一人祈っておりました。そしてコリント人への第2の手紙5章15節を読んだ時、神様の臨在を感じました。「そして彼(イエスキリスト)が全ての人のために死んだのは、生きているものがもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるのである」そうだ!自分のことのみに忙殺され、イエス様がどんな時でも私と共にいてくださるのだ!私が孤独で大学のキャンパスにいる時も主は共にいてくださるのだと分かった時、不思議なように平安が与えられました。翌日の朝から私は授業の始まる10分前には教室に入るようにしました。そしてドアが開いてだれかが教室に入ってくると、その人の方に顔を向けて、できるだけ明るい声で「おはよう!」と挨拶をしました。すると、相手からも「おはよう」という声が帰ってくるではありませんか。その声を聞いて、私にはクラスメイトのだれであるかが分かり、話の糸口をつかむことができるようになりました。そして、それからというもの、私には一人また一人と友人が増えてきました。やがていつしか、気が付いてみると、隣の席にも男女の別なく座ってくれるようになり、1年生の終り頃には、先生が黒板に書いた字を小さな声で読んでくれたり、授業中難解な所を説明してくれる学生も現れてきました。また、こんなこともありました。一人の学生が、私に「阿久津君の教科書の点訳を手伝いたいから、英語の点字を教えて?」という人が与えられました。その人は熱心に点字を習得してくれ、授業中配付されたプリントを、翌日には点字にして、私の手元に届けてくれました。
 いよいよ4年生になりました。私は地元の教育委員会に手紙を出し、点字で教員採用試験を受けさせて欲しいということを書きました。すると、折り返し返事がきて、これまでにも前例もあり・、点字受験が可能であるとの嬉しい回答がきました。ひとくちに教師になるといっても、視覚障害者が英語の教師になるということは奇跡に近いものがあります。私の場合も、正に「神様のなさった御業」としか思えませんでした。というのは、私が大学を卒業するのと、恩師である鈴木先生が退職するのが同じ年でありました。というよりも、さらに正確に言うならば、鈴木先生は、私が卒業するまで、県の教育委員会の退職勧告(いわゆる肩叩き)を拒否して待っていてくださったのでした。どうして先生が私のためにそのような愛の業をしてくださったのか。それは、ひとえに、私がイエス様を救い主と信じ神様のために福音伝道したいという願いを聞いての愛と信仰による決断からでありました。
 かくして、1976年4月、私は4年ぶりに栃木県立盲学校にもどり、主のくすしき御計画により、教師として働くことになりました。
 今年で盲学校に勤めて20年になろうとしています。過ぎし20年間に四つの大きなできごとがありました。
 第1は、妻との出会いでした。1978年の10月9日から10日にかけて、ここ宇都宮において、全国の視覚障害者のクリスチャン青年の特別集会があり、私はその事務局を担当していました。その時、私は、洗礼を受けてから初めて証をしました。というのは、それまでの私は証というとどことなく恥ずかしく、過去の触れたくない部分を語らなければならないといったような誤解をしていました。しかし、その集会の前に、祈っておりましたら、神様から「証をせずしてどうして福音伝道ができるのか?」という導きをいただき、これまでの自分の歩みについて話をさせていただきました。ちょうどその時、一人のボランティアとして参加していた彼女が、その証を聞いて、私との結婚を神様から示されました。後になって分かったことですが、以前から、彼女も体に障害のある人との結婚について祈っていたというのですから、神様は実に不思議なことをなさる方だと思わずにはいられません。私たちは、翌年の79年3月に結婚へと導かれました。
 第2のできごとは、私の信仰の導き手であり、恩師である鈴木先生の突然の召天でした。私が就職して5年目の1980年の12月23日、突然襲ってきた心筋梗塞のために、あっというまに神様の御元に召されて行ってしまいました。先生が盲学校に勤めていた時に、先生を通して神様を信じて教会へ導かれた生徒は40人にもおよびました。その中の二人が献身して牧師となりました。私にとりましては、信仰と仕事とを受け継いだものとしてのショックと悲しみは筆舌につくせないものがありました。しかし、私たち教え子たちは、主にあって堅くたち、愛と信仰による「愛信会」というグループを組織し、先生の生前から伝道活動を積極的に行なってきました。
 第3は、私たちの家庭に起こった神様の業でした。今から15年前の1981年は、「国際障害者年」でしたが、この年、宇都宮にボブ・デヴォルトさんという方がきました。この人は、自分たち夫婦の間に子どもがいましたが、驚いたことに6人の子どもたち(しかも彼らは体に重い障害をもつ子どもたち)をベトナムやカンボジアから養子・養女として家庭に受け入れていました。デヴォルトさんは、私にこんなことを言いました。「日本では、自分たちに子どもがないと養子を迎えるようですが、これは大きな間違いです。自分たちに子どもがいないからもらうのではなくて、日本にも外国にも家庭を求めている子どもたち、幼いがゆえに両親を求めている子どもたちが沢山いるのです。どうしてそれらの子どもたちの叫びに耳を傾けないのでしょうか。」 私と妻とは、そのデヴォルトさんの言葉に強く心を揺り動かされました。そしてその時、デヴォルトさんに同行していた大阪にある、家庭養護促進協会のIさんのアドバイスを受けて、さっそく栃木県に里親としての登録を申請しました。この時にも、私たち夫婦は、真剣に祈りました。私の目が見えないために許可されないかもしれないと思ったからです。しかし、その不安もやがて喜びへと変えられ、半年後、県知事から許可の連絡がきました。1982年(昭和57年)の3月24日、妻と私は大阪へ向かう新幹線に飛び乗りました。そして翌日、Iさんのお世話で、とある乳児院を訪れました。そこには、0歳から3歳になる子どもたちが50人程いました。私たちが行くと、バラバラとかけよってきました。その一人を抱き上げると、「私も、僕も」と言わんばかりにそばによってきて離れません。これこそデヴォルトさんの言っていた『声なき声、叫び求める声』だと思いました。できることなら、そこにいる全部の子どもたちを家に連れて帰りたい衝動にかられました。それから2カ月後、私たち二人の間にKという2歳11カ月になる男の子が養子として与えられました。さらに2年後の1984年には、2歳8カ月の女の子も我が家に迎えいれることができました。現在は、もう一人の女の子を里子としてお預かりし、母親と一緒にくらせる時を待ちのぞんでおります。
 第4番目は、今から約5年前のことです。私の体が変調をきたすようになりました。それは、膝から下の筋肉が、極度に細くなり、僅かの段差でもつまづいて転んでしまうようになってしまったのです。入院して検査した結果、シャルコ・マリ・トウス病という難病であることが判明しました。発病してから丸5年、どこかにつかまらないと立っていられませんし、歩くのも通常の人に比べると、遅く1キロ程度しか歩けません。主は、私から光を見ることを取られました。また、自由に歩くことも取られました。しかしそれに優る「福音」という恵みと祝福とを与えてくださいました。
 私は、鈴木先生との出会いを通して主イエス キリスト様に出会うことができました。そして、そのイエス様との出会いから妻との出会いがあり、ボブ・デヴォルトさんとの出会いがあり、3人の子どもたちとの出会いがありました。これこそ福音以外のなにものでもありません。たとえ、私がどこかにつかまらなければ立っていられないとしても、主イエス様につかまっていさえすれば、立つことも歩くこともできるのです。エペソ人への手紙1章11節には、「私たちは御旨の欲するままに、全てのことをなさる方の目的の下に、キリストにあって予め定められ、神の民として選ばれたのである」とあります。
 私は、これからもイエス様の御計画により、多くの人との出会いを経験することでしょう。また、様々なチャレンジを受けるかもしれません。しかし、どんな時にも、鈴木先生から受け継いだ『信仰』という新たな『杖』をもって人生の旅を歩んで生きたいと願っております。主は、かならずやすばらしい御業をお示しくださると信じつつ、先に呼んでいただいたものから、20年が経過しようとしております。難病にかかりながらも3年前に盲学校を退職することができました。職場の皆様の支えによって、36年間が守られたことを心より感謝しております。
 我が家では、33年前に養子として迎えた息子は、2年前の11月18日に、35日間の闘病生活を終えて、天国へと旅立って行きました。22歳から、心の病に苦しみました。自分が元気ならば、バリバリと働いて、家族を助けたいのだけれど、どうして神様は自分にこんな病気を与えたのだろう!と、幾度も問い続けていました。その度に私は「生きることが仕事なのだよ。一緒にいることだけで嬉しいんだよ」とのメッセージを送り続けました。彼は、それでも神様を信じたいと言って、亡くなる2年前に信仰を告白しました。そして、「これで俺もいつ死んでも天国へ行けるんだな」と、嬉しそうに言っていました。息子との最後の会話は、2年前の11月17日・土曜日の午後でした。私は清愛幼稚園の百周年の式典のために、病院から幼稚園に出かける時でした。義理の姉が、息子に寄り添っていてくれました。私「じゃあこれから出かけるからね。」 すると息子、「分かった。親父気をつけて行けよ。」でした。息子との30年間の生活は苦しい時もありましたが、共にいた喜びは限りない宝物となりました。その後、昨年児童相談所からの依頼によって、9人目の子どもを里子として、我が家に迎え入れました。「お兄ちゃんからのプレゼントだよ。」と、高校生に話しております。とても明るく元気な娘です。もう来年は3年生になり、再来年は卒業し、就職となります。これまで、我が家にいた子どもたちとは、今でも何かといえば、「ここは実家だよ」と言いつつやってきます。
 我が人生の旅も、いつまで続くか分かりませんが、「1日1生」(いちにちいっしょう)という、内村鑑三さんの言葉を、座右の銘にして、残された人生をいきたいと思います。
 同窓会のホームページに掲載するために、3年間校正等、ご協力をいただきました、市田様、本当にありがとうございました。そしてつたない文ではありますが、ご一読いただきました皆様にも心より感謝申し上げます。来るべき新年が、実り多い年となりますようにお祈りしつつ「メルシーとちのみ」を閉じさせていただきます。



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