第4回 雪の日の思い出
今日は1月14日、成人の日です。朝から雨が降ったかと思うと、雪になってきました。成人の日に雪が降ることはけっこう多いように思います。かつては、3年続けて雪が降ったこともありました。私のクラスは、かつて成人の日に盲学校時代のクラス会をこの日にしていましたが、寒いのと雪が降るのが多いので、ここ10年は日にちを変えました。97年の1月15日、私が幹事の時に大雪が降り、みんな欠席になったらどうしようと心配しましたが、友情厚きクラスメイトはみんな出席してくれました。
この冬は、12月1日からいきなり雪が降りましたね。そこで、今回は雪の思い出を四つに分けて書きたいと思います。
1回は、1980年でした。当時は、どこの学校でも年度末になると、何人かの教師が順番に、研修のチャンスが与えられました。私の順番は、80年の3月の下旬でした。卒業式も終わり一息をつける時でもありました。私は、友人のいる、山形県立盲学校を希望して認められました。一人で行くのは難しいので、妻と一緒に行くことにしました(もちろん出張費は一人分ですが、安心して旅行ができるのは何よりも安全です)。宇都宮から特急「つばさ」に乗って、約4時間、栃木県・福島県を通って山形県に電車は入りました。妻の説明によると、福島県に電車が入ると、線路の両脇は、山が直ぐ傍まで迫り、怖いような印象を受けました。山または山の間を縫うように特急列車は走り、山形県に入っても風景はほぼ同じでした。電車に乗ること4時間、目的地の上山駅に付きました。ここは、私は知りませんでしたが、とても良い温泉地でした。早速、友人の加藤先生に出迎えていただき、旅館まで案内をしていただき、翌日ゆっくりと校内を案内していただき、夕食を共にするということになりました。駅を出ると、雪道でした。除雪がなされているので、それほど雪が深い訳ではありませんでしたが、3月の下旬というのに、街の中は雪の世界でした。私にとりましては初めての経験でしたのでびっくりでした。上山には二泊三日しましたが、その雪の世界は、驚きと共に、視覚障害者の生活を思うと、さぞかし大変なことだろうと思わずにはいられませんでした。加藤さんに聞くと、慣れるとそれほどでも無いよ、との、あっさりとした答えが帰って来ました。三日間、私は転ばないように、ゴムの長靴をはいての生活でした。そこでの思い出は、山形県立盲学校、隣接してある、点字図書館を見学しました。盲学校の中では、体育館の上にあるギャラリーを使って、金具を持って、体育館を一周走ることができる設備があり、冬の運動不足の解消になるとの説明を聞きましたが、アメリカでも見かけたもので、とても良いアイディアだと思いました。点字図書館では、以前盲学校の校長をなさり、退職後は、点字図書館長をなさっていらっしゃった、鈴木英介先生から1時間程話をうかがう機会が与えられました。鈴木英介先生は、盲教育一筋の先生でしたが、私に、「盲学校教育は、触察教育・経験教育です」とおっしゃいました。太陽や月を触ることはできませんが、触れるものはできるだけ現物に触れること、模型ではイメージは湧いても、理解をすることはできませんね。全盲の生徒たちに、図で説明をしても、非常に難しいので、生徒たちの多くが数学の図形や理科・地理の地図を理解することが困難なのです。」とのお話は、教員になって4年を迎えていた私には、大変勉強になりました。
三日目は、斎藤茂吉記念館と沢庵和尚が住んでいたといわれるお寺を訪れました。雪がしんしんと降っている寒い日でした。沢庵和尚は、大根から漬物を作り出したと言われています。詳細ははっきりしていません。お寺には観光客はほとんどいませんでした。沢庵和尚は、たくあんが嫌いであったとの説もあるのですが、とにかく珍しい経験でした。帰りは山形駅から特急に乗って帰りましたが、山形駅に行く時に乗ったバスが蔵王温泉というバス停の名前を聞いて、スキーで有名な、蔵王が山形駅からこんなに近いとは思ってもみませんでした。上山にしても、山形市にしても、こんなに近いのだから雪が多いことが良く分かりました。一番忘れられないのは、上山の旅館で食べたご飯の美味しかったこと! ご飯だけでも十分、おかずはいらないほどの美味しさ。つまり、ご飯そのものに味があって、とても美味しかったことです。これが「ささにしき」の本場の味でした。さすが東北地方の米は「天下一品」でした。
2回目は、92年の3月下旬のことでした。これも2度目の研修旅行の時でした。当時、佐藤佳美さんが、青森県の大学にいたので、その生活の様子を知ること、また、学習・生活の様子を知りたいと思って、青森県に一泊二日で出かけました。付き添いは、6年生になっていた、息子と思っていたのですが、風邪を引いていたので、4年生の娘と出かけることにしました。
3月の24日の頃だったと思います。宇都宮から新幹線で、盛岡まで行き、特急で青森まで行きました。だいたい6時間かかったかと思いますが、4年生の娘の目を借りて、新幹線から特急への乗り換えは無事成功しました。青森駅には、妻の学生時代の友人・ひとみさんが出迎えてくださいました。私たちは駅前にある、魚市場に案内されました。中心地の駅前に魚市場があるのにはびっくりしましたが、魚市場を見学するのも初めてのこと、とても楽しい思い出となりました。そこから我が家に、ホタテを、氷を入れて発送することができるというので、さっそくお土産を買うことができました。
青森の駅前には、三角系の形をした、珍しい建物がありましたので、娘は大喜びでした。その夜は、ひとみさんの歓待で、美味しい魚をご馳走になりました。ほたてのさしみが絶品でした。翌日は、佐藤さんが活躍している様子を、佐々木先生から教えていただき、彼女が、学生として、またボランティアとして活躍している様子をつぶさに知ることができました。宇都宮でも高校時代からボランティアを積極的にしていましたが、大学でもやはり活発に生活している様子が分かり、私も嬉しくなりました。
青森も3月も終わろうとしていましたが、雪がいたる所にあり、おっかなびっくりで歩きました。佐藤さんの話によると、「真冬は雪の壁のあいだを、川等に落ちないように気をつけて歩くのが大変なのです」と、言っていましたが、4年間立派に生活したのは見ごとだと思いました。タクシーも、青森市内を、ユックリと慎重に走っていました。
3回目の雪国は、2001年の山形県・米沢市への家族旅行でした。
土曜日から月曜日、2月9日から11日でした。山形県のビジネスホテルの予約を探しましたが、2月11日前後のことで、どこも満室でした。私たちは、止むなく、福島市の「サンルート」という、ビジネスホテルを予約しました。2月9日・土曜日、新幹線で福島駅にあっと言う間に着きました。その日は、市内をゆっくり見学しました。
次の日、日曜日、私たちは、米沢市にある、米沢興譲教会という所に行きました。田中信雄牧師という、カウンセリングで有名な牧師のいる協会でした。沢山の人たち、およそ3百人くらいの人たちが礼拝に来ており、中には、毎週東京から新幹線に乗って来るという話を聞いて驚いてしまいました。多くの人たちが長靴を履いて雪の降りしきる中を教会にやってきました。私たちの目的は、この教会での礼拝と、その後の、米沢では有名な美味しいと言われる牛肉のしゃぶしゃぶでした。前もって予約を取らなければだめだと聞いていたので、こちらの方は、事前に予約をとっておきました。外は、雪がチラホラと降るようになって来ました。しかし、座敷の部屋は、暖房が無くて、寒いのです、おそらくマイナスだったと思います。お待ちかねのしゃぶしゃぶはなかなか来ません。30分は優に待ったと思います。ついにしゃぶしゃぶが来ました。一人5千円でした。4人で食べたのですが、テレビで放映していた肉とは大きさが違っていて、随分遠慮をした「シャブシャブ」でした。肉そのものは柔らかくて美味しかったのですが、もっと沢山食べられると思っていた私たち4人はやや落胆でした。その店を出て歩いて道路を渡ろうとしていた時、私の足が滑って道路の真ん中で転んでしまいました。車が来なかったので事無きを得ましたが、米沢で命を落とすところでした。道路の雪はそれほど多くはありません。絶えず水が流れて、雪をとかしているのも初めて知りました。
さて、そのあとどうしようかということになりました。もう一泊するのですが、泊まるところがありません。とりあえず福島駅に戻りました。そしてJTBの観光案内へ行って泊まるところを探しましたが、福島市内はどこも満室でした。実は、その日は、わらじ祭りなるものがあり、福島市内にある有名な神社から何メートルもあるようなわらじを運んで市内を練り歩くというお祭りと出くわしてしまったのでした。私たちは、やっと見つけていただいた、飯坂温泉に行くことにしました。福島駅からローカル線で約30分電車に乗って、飯坂温泉に付きました。旅館のおやじさんが車で迎えに来てくださいました。福島市内には雪が無いのですが、飯坂温泉地は、雪が積もり、坂道が多く、車は時速10キロ位だったかと思いますが、超スローで雪道を登って旅館に辿り付きました。その旅館は大変古く、民宿のようなところでしたが、一晩お世話になるのですからぜいたくは言えません。暖房はこたつだけでした。温泉だけにお風呂はとても良くて、湯上りは体がポカポカと暖かくなりました。私たちは、食事をして、そうそうに布団に潜り込みました。
次の日も、雪道を、旅館の車で送ってもらい、福島駅から新幹線で宇都宮に戻って来ました。福島市内は雪がほとんどありませんでしたが、そのほかは雪国でした。気まぐれの旅も楽しいのですが、やはり、泊まるところは事前予約が必要だと痛感しました。でも、忘れられない楽しい思い出となりました。
さて、4度目の雪の話です。これは、盲学校での話です。
確か、9年前の2004年1月23日・月曜日の朝のことでした。朝起きたら雪が降り始めました。月曜日の朝の雪は最悪の時です。私は、「これは危ない。タクシーが動かないかもしれない!」と思って、7時に我が家から300メートルの所にある、陽西タクシーに電話をしました。案の定、「運転手は誰もいません、ここまで来られないのです」との、残念な返事でした。「とにかく、できるだけ早くお願いします」と、言って受話器を置きました。すると5分して、タクシーがやって来ました。あれ!不思議だな!と、思ってタクシーに乗ると、ドライバーは、タクシー会社の社長さんでした。「運転手は当分来られそうも無いし、普段使ってもらっている、阿久津さんだから、私が運転しますよ」との、暖かいご配慮でした。おかげさまで私は、いつもより50分早い、7時30分に到着することができました。
ところが街の中は大混乱でした。普段、スクールバスは、当時、宇都宮駅を8時に出発なのですが、盲学校からJR宇都宮駅まで到着できません。生徒たちは、宇都宮駅で待つこと・待つこと。人生は待つことなのでしょうね。結局、宇都宮駅をバスが出たのは、普段よりも2時間遅れの10時でした。普通科の生徒たちは、雪の中をひたすら宇都宮駅で待ち続けました。専攻科生の人たちの中には、「もう帰ろうよ」と言って、回れ右をして家に帰宅した人もいましたが、責めることはできないと思います。咄嗟の判断こそ大切です。月曜日の朝のこと、寄宿舎生は、週末帰省していましたから大変です。小学生の家庭では、欠席という連絡の電話がじゃんじゃん鳴り続けました。栃木県茂木町に住む、普通科1年生のI君のお母さんは、車のアクセルを4時間踏み続けて、息子さんを盲学校に送り届けました。後日聞きましたら、足の筋肉痛で大変だったと聞きましたが、その愛の深さに感銘を受けました。図書館の司書をしていた、Kさんは、自分は車の運転に自身が無いからと考えて、10キロの中を、3時間歩いて盲学校に11時に到着しました。仕事への厳しさ、責任感の強さに感服しました。
私の盲学校勤務時代に混乱があったのは、これが最初で最大でした。それからは、もしもの時はの緊急連絡の責任者を決めての対応マニュアルができました。2年前の東日本大震災の時も、先生方は大変でしたが、何のトラブルも無く、生徒たちは帰宅することができました。今日(1月14日)は休みの月曜日ですから、ゆっくりと雪見酒を楽しむ人もいるのではないかと思います。
雪にまつわる事件も思い出されます。
何年前のことか、秋田県の温泉で、露天風呂に入っていた時に、屋根の上から雪の山が滑り落ちて、多くの人の尊い命が一瞬にして奪われました。また、保育園で雪遊びをしていたら、屋根から雪が雪崩となって、子供達と保育師を襲い、多くの人たちの命が奪われました。今年も、冬山で遭難してしまい、春まで捜索ができないとの悲しいニュースがあります。私は、考える第1の視点として、安心・安全、さらに、お金では命を買うことができないことを絶えず心しております。雪国では除雪車による事故も多いとのこと、雪国の視覚障害者のみなさんには、くれぐれもご注意いただきたいと願っております。
子供の頃は、雪が降ると、それを茶碗に入れて砂糖をかけて食べた時もありました。しかし、今は放射能入りの雪ですから、危ない・危ない。放射能を測定してからの雪合戦・雪だるまが必要ではないでしょうか。危険が隣り合わせになっています。
雪は降る、あなたは来ないという歌でも聞きますか。雪の日とかけて受験生と解く。その心は、滑るのに気を付けます。米沢牛とかけて、キャリーパミュパミュと解く、その心は「いい にく」
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