第5回 長すぎる冬将軍




 皆様、冬将軍という言葉をご存知ですか。ここ10年ほど、天気予報で聞かなくなった言葉です。今年の冬は厳しく・長いですね。1月も間もなく終わろうとしていますが、例年に無い寒さ、1984年以来の寒さと言いますから、29年ぶりの寒い冬を過ごしています。その頃は、私は、30歳前半でしたからあまり寒さを感じませんでしたが、還暦を過ぎた今日、寒さが身にしみます。春よ来い、早く来い…と歌いたい気持ちです。
 さて、前置きはここまでにして本論に入ります。冬将軍とは、1812年にフランスの皇帝・ナポレオンがロシアに攻め込んで厳しい寒さと雪に撤退したことをいいます。そこから、かつては、寒い寒波の到来があると、今年の冬将軍は長くいすわっています等という、気象予報士の言葉をしばしば聞いたものですが、試験に合格すれば、誰でも気象士になれるようになり、冬将軍という言葉をあまり聞かれなくなりました。そして各自の独特の楽しい予報となりました。
 今回は、私の経験した寒い寒い冬の体験を書きたいと思います。
 まずは、私の大先輩の気象予報士とも言うべき、小池上様よりのデータを紹介いたします。
 日本で最も寒い所と日にちですが、北海道旭川で−41℃を、明治35年(1902年)、宇都宮の最低気温は−14.8℃で、昭和14年(1939年)のことでした。ちなみに東京は−9.2℃で、明治9年のことだそうです。如何ですか。このデータに比べると、寒いとは言え、この冬の寒さは、宇都宮では、氷点下6度から7度が数日あった程度でした。平年の冬の気温は、朝がマイナス3度、最高気温が7度から10度と聞いています。やはり、温暖化・暖冬に体がなれてしまったので、寒く感じるのでは無いかと思います。
 私が子供の頃は、暖房と言えば、ほとんどの家では、こたつだけでした。寒い夜は、半纏を着たり、セーターやジャンバーを着たりして過ごしました。我が家で石油ストーブを付けるようになったのは、1970年頃からでした。我が家は農家でしたので、両親は寒いなんて言っていたら、真冬の農作業ができないので、手や足の踵に霜焼けやあかぎれを作りながら、ワセリンを塗りこんでいました。母さんは夜なべをして、手袋あんでくれた…の歌も、そのような時に歌われたのだと思います。
 盲学校に入っても、学園では、練炭こたつだけでエアコンはありませんでした。学校でも、石炭ストーブの生活は、1973年の駒生時代までは続きました。現在の福岡町に引っ越しをしてから、スチームが入っていたので、私が76年に盲学校に勤務した時に驚いた記憶があります。
 まず思い出されるのは、71年の春休み、群馬県の伊香保町でのアルバイトでした。前年の夏休みは涼しくて快適でしたが、春休みの10日間のアルバイトはとても寒く感じました。朝はマイナス10度以下だったと思います。午前中は布団の中でしたが、ホテル内での仕事を午前1時頃に切り上げ、軽食をいだだいて、共同浴場に行って出てくると、午前3時頃でした。浴場から私たちの住む貸家までは歩いて数分の所でしたが、体は暖かいのですが、顔は寒さのためにたちまち冷えていきます。家に着く頃には体まで冷え切ってしまいました。雪はそれほど無かったのが救いでしたが、真冬はさぞかし大変なことだろうと思わずにはいられませんでした。
 私が経験している寒い冬は、80年頃からの10年間でした。特に、80・81年の頃は、朝は、マイナス10度・11度の時も何日かありました。水道の凍結を防ぐために、夜中にトイレに起きた時に、蛇口を捻って朝まで水を流していました。朝ごはんの時は、子供の時もそうでしたが、箸を持つ指先がブルブルと震えていました。結婚をしてからファンヒーターを付けるようになって、朝夕の寒さも快適に過ごせるようになって、何とありがたいことかと感謝しました。80年から、第2回で書きましたように、大インフレと石油危機がやって来て、灯油18リットル、一缶が800円から2千円近くまで上がったのには困りました。
 07年・08年もガソリン・灯油が上がり、ガソリンでは、リッター最高180円というのがありましたね。当時、杉山校長先生が、真岡市から盲学校に通勤していらっしゃいましたが「ガソリン代が高くて小遣いが減ってしまいましたよ」と、真面目にお話していらっしゃいました。
 とにかく、90年を境に暖冬のお陰で過ごしやすくなったことは確かです。そして先にも書きましたように、最低マイナス3度、最高7度前後の冬が続きました。ところが、ここ数年、平年よりも寒い日が続いて来ているのです。暖冬の結果、宇都宮の気温は、昔の東京都同じくらいになっているのでは無いかという人もおります。確かにマイナス10度の頃を思えば暖かくなっているのです。宇都宮の寒さは北海道札幌と同じと以前は聞きましたが、今は暖かくなって来ていますし、北海道や東北地方では、最高気温が0度以下の真冬日が当たり前ですから、栃木県から南は最高気温がプラスになるというのはありがたいことだと思います。
 私が経験した寒い時は、1994年頃と思いますが、中学部で、日光高原に、スキー教室に行った時でした。ホテルからスキー場に出ると、雪と風が真正面から吹き付けて来ました。こんなに寒くては中止にしたいものだと思いましたが、予定通りにスキー教室は実施されました。マイナス15度と担当の教師が言いました。スキーをしている生徒や職員は体を動かしていると、ポカポカと暖かくなりますよ、との、おことばでしたが、スキーのできない私を含めての生徒数名は、ソリ遊びでした。足元から寒さが忍び寄り、立っていても、足がガクガクとして来ました。鼻からは水っぱな!手袋をしていても、指先から感覚が無くなりました。足の指先もついに感覚を無くしてしまいました。2時間程雪遊びをして、私たちは、近くにある休憩所に、足を引きずるようにして入りました。その暖かいこと!生き返りました。そこで飲んだコーヒーの美味しかったこと、忘れられません。
 もう1回は、中学部に私がいた96年ころと思いますが、旧今市市にあった森永のアイスクリーム工場を見学した時でした。担当の方の説明によると、マイナス30度と聞きました。前もってその話は聞いていたので、私は、当日、厚着をして、暖房用のジャンパー・毛糸の帽子・手袋・そしてブーツをはいて、アイスクリームを作っている現場に入りました。マイナス30度と聞きましだが、確かに寒いことは間違い無いのですが、そこにいたのが10分程度でしたので、日光高原に比べるとそれほど寒いとは感じませんでした。ただ、低温のせいか、みんなの話し声や歩く音が、壁に跳ね返り、コチコチと凍りついているような気がしました。これって勘違いでしょうか?
 ところで、2年前の東日本大震災に伴っての、福島県原発の水素爆発より、電気代も上がり、盲学校での学習環境も、電気節約で厳しくなりましたが、真冬の寒い教室は何とか暖かくしていただきたいと心より願っています。
 数年前の学校での会話を思い出します。
 ある先生が「盲学校は恵まれているのよ。12月にならないと、普通校では暖房が入らないのに、盲学校では、11月の半ばに暖房が入るのだから…」との、お言葉がありました。それを聞いた私、たまりかねて次のように言いました。「みなさんは、ポケットに手を入れても本を読むことができますが、視覚障害者は寒くては点字を読むことができないのです。私の経験では、プラス15度以下になると、点字を読むのが極度に難しいのです。できれば20度前後が最も良いのですよ」と言わざるを得ませんでした。15度が点字を楽しく読めるかどうかのボーダーラインというのが、私の点字読書限界と思っています。昔の先輩たちは、寒くて困る時は、火鉢に近づき、指先を温めたり、手をこすりながら点字を読みました。これから、そのような時代がやって来るかも知れません。"Back to the Future"にならないことをひたすら願うばかりです。
 ところで、先日ラジオで聞いた話ですが、青森県でも、今年は例年に無い寒さだそうです。雪もこれまた多いとのこと。多くの人たちが知っているように、青森県の人たちは寒い冬の中、短い言葉で会話をしています。
 「どさ、どこへ行くんだい?」、「ゆさ、お湯に行くよ」、「か、食べるか」、「く、食べるよ」、「け、食べなさい」、「さんびいな、寒いから気をつけて行きなよ」等です。
 また、1月26日から27日にかけて、弘前から五所川原まで、2両連結列車を走らせて、太宰治(だざいおさむ)を記念しての車内朗読会があるそうです。彼の作品である「津軽」(つがる)を、リレーで読んで、在りし日の太宰治をしのぶというイベントがあるそうです。また、青森県では、電車の中でストーブをたいての楽しい企画もあります。餅を焼いたり、酒を飲んだり、カラオケをしたりと、行ってみたくなる話です。
 「冬来りなば、春遠からじ」は、イギリスの詩人・シェリーの書いた「西風の歌に寄せて」の一節です。
 来週からいよいよ2月になり、立春も間近です。12月1日から宇都宮では初雪が降りました。冬将軍にもそろそろシベリアの方に撤退をして欲しいと願っております。
★メモ★
 青森県出身の歌手・吉幾三さんのヒット曲「雪國」は、吉さんが、栃木県那須温泉に泊まっていた時に、ふとうかんで作詞・作曲したそうです。




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