第6回 電車での一人旅




 私は、東京町田市にある桜美林大学に入学してから、電車にのって一人で歩くことを、自信をもってできるようになりました。いつまでも親に遠い宇都宮から迎えに来てもらう訳にもいきません。町田から家に帰るまでは、以下のようなルートを通って帰りました。
 下宿から歩いて10分のバスに乗って町田駅に行きます。それから小田急線の急行に乗って約40分、新宿駅につきます。新宿駅は大変分かりにくいので最も利用しやすい南口を使って、9番線の山手線で池袋まで乗ること8分、それから、赤羽線で、赤羽駅に行きます。赤羽駅は、当時他の乗り場よりは1階分高い所にありました。そして東北線が来たら、宇都宮まで電車に乗って、約1時間50分でした。さらに、東野バスに乗って自宅まで10分。下宿から自宅までは4時間程掛かりましたが、若いというのは何とすばらしいことか、一人歩きが好きになりました。加えて、「我が人生旅日記」でも書きましたが、市民会の活動で、月に2・3回は新宿や高田馬場駅を歩き回っていたので、一人歩きが好きになりました。
 今回は、そんなことから、一人歩きをしての忘れられない思い出を書きます。
 まずは、ある夜のこと、学生時代でしたが、夜9時過ぎに新宿駅発の小田急線・鎌倉行に乗っていた時のことでした。車内は鮨詰め状態でした。私は車両の奥のドア付近に立っていた時です。私の好きな英語が耳に入って来ました。こういうことは、それまでにも何度かありましたが、私は彼らの邪魔をしないように話しかけることは差し控えていました。しかし、その時は、かなり大きな声で、アメリカ人の男性が話していました。この沿線の先にはアメリカ軍の基地・座間キャンプがあり、アメリカ人の多くが新宿に行くときには利用していました。このアメリカ兵は、早口の英語で、まくしたてていましたので、私には分からないことも多くありましたが、日本人のことについて、話し始めた時だけは、とぎれとぎれながらも分かることが耳に入ってきました。ひとつはバーか、キャバレーかは、分かりませんが、ホステスの噂をしていました。あの子は可愛いとか……。まあそれは飲んでの楽しみですから、なるほど?と、聞いていました。そのうちに、彼らは日本人の悪口を言い始めました。日本人は、我々に対して感謝の気持ちが足りない、俺たちが守ってやっているのに、とやかく言えるものか。あいつらは、口ばかりで何もしやしないよ。…などと、アルコールの力を借りて、また、英語の分かる人が電車の中には誰もいないと、安心しきっていたのだと思います。私は、近くにいたので、たまりかねて、英語で話しかけました。するとそこにいた二人、ビックリして、日本人の悪口をやめて、今度は、私にどうして英語が分かるのか?と聞いて来ました。私は一通り自己紹介をしたのでした。その経験を通して、日本にいるアメリカ兵の気持ちは今でもそんなに変わってはいないのだと思います。沖縄での事件にしても、日本にある米軍基地にしても、彼らは、日本のために、世界のために命懸けで戦っているのだと確信しています。アメリカには、ドラフト制度があり、籤(くじ)に当たると、軍隊に2年間服務しなければならないのです。その比率が、白人よりも黒人の方が多いという、アフリカ系アメリカ人の声を聞くことがあります。公共乗り物の中では、噂話は気をつけなければということを教えられました。
 また、小田急線の中で、増田君は、新宿から15分の所にある成城学園前という所にいましたが、市民会の行事には、同じ電車に乗って出かけることが時たまありました。そんな時、二人で小田急線沿線に住んでいる視覚障がい者について話をしていました。ところが、私たちと同じ車両・しかも向かい側にその人が座っていたのです!ドッキリしましたが、「やあやあ」ということで、新宿駅まで楽しく話をしたこともありました。
 次に書くことは、盲学校に勤めてからのことかと思います。まだ現在のように、新宿から宇都宮までの直行電車は走っていませんでした。先に書いたように、池袋から赤羽まで乗りました。そこから東北線に乗りました。普通ならば赤羽の次は、浦和駅になることになっていたのですが、車内放送では聞きなれない駅名を車掌さんが言っていました。私はビックリです。「しまった。高崎線に間違えて乗ってしまったのだ。」私は愕然としましたが、とにかく赤羽まで戻らなければと、とっさに思いました。読者の中には、大宮で乗り換えれば良いだろうと思われるかも知れませんが、大宮駅は、私にはなれない駅ですから、全く分かりません。ついでに書くと、上野駅も、広すぎて一人では歩けませんでした。東北線は、その頃、20番線とか、地下の奥の方にあったのでした。
 さて、赤羽駅の次の駅でとりあえず降りました。構内は、静まり返っていました。駅員も近くにはいないようでした。私は耳をすませて、階段を登る足音を聞き取ろうとしました。その時でした。「どこへ行くのですか?」と、女性の優しい声が聞こえてきました。困り果てている時に助け手が与えられました。私は、自分の勘違いで高崎線に乗ってしまったこと、赤羽に戻りたいと説明をしました。するとその女性は、「それでは橋を渡らないと赤羽には戻れないから一緒にそこまで案内します。」との優しい言葉をかけていただきました。彼女の肘を掴ませていただいて、私は簡単に自己紹介をして歩いていました。すると彼女は突然声を出して泣き始めました。驚いたのは私です。何か悪いことを言ったのかな?と思わずにはいられませんでした。冷静になった彼女は次のようなことを話したのです。「私は千葉県の生まれなのです。そして、兄も千葉県にいるのですが、去年突然失明してしまったの。あなたのことを見たら兄のことを思い出して声をかけたの。兄も本当に可愛そうだし、生きることが辛いと言っていたの。でも、あなたのように、一人でも歩いたりできるのだから、生きて行けるのよね。」との話でした。私は、友人が千葉県立盲学校で教師をしていることを話しして、一度、そのお兄さんにも、千葉盲学校に行ってはどうかと勧めました。やがて上野行の電車が来ました。私はその女性にお礼を言って別れを告げました。
 あれからもう30年にもなるでしょうか。宇都宮線に乗る時など、あの時の思い出がよみがえって来ます。中途失明をしたお兄さんはどうしたか?優しい妹はどうしたか?ふとそんなことを思い出すことがあります。あの時、勘違いをして電車に乗りましたが、無駄では無かったのだと知らされました。
 一人で旅行をしての思い出はもうひとつあります。1977年の夏のことかと思いますが、全日本盲学校教育研究大会で、私は石川県に行きました。先生方の中にも、かなり多くの教師が出張をしていましたが、当時26歳の私、一人で旅行した方がユックリ・楽しいね!と、思って出かけることにしましたが、夏休み中のこと、特急券の指定席は全て売り切れていました。さあ困りました。結局、行く時は、大宮まで弟に付き添ってもらいました。確か特急「白山」だったと思います。自由席を求めて長蛇の列でした。弟は、ドアが空くと、素早く私のために、座席を見つけてくれました。そのお陰で、座って金沢まで、約5時間の旅を楽しむことができました。研究大会では、英語部会に参加させていただき多くのことを学ぶことができました。また泊まったホテルては、栃木盲からの先生方とも一緒でしたので大変お世話になり感謝でした。
 さて、今度は帰りです。普通乗車券はありますが、特急券はありません。「何とかなるだろう」と思って駅に向かいました。大会から帰る先生方も多くいたと思いますが、その時、「阿久津さんではありませんか」と声をかけてくださった人がいました。何と、茨城県立盲学校の理療科の関先生でした。私が理療科の先生を知っているのは、大抵の場合クリスチャンの先生ですが、関先生とは、学生時代に盲人野球で試合をして知り合いになったのでした。盲学校に、私が勤めると、関先生は、弱視の先生ですが、茨城盲学校で野球の監督をしていたかと思います。その関先生が、私をガイドしてくださり。上野行の「白山」まで案内をしてくださいました。車内は満席でした。唯一空いていたのは、グリーン席でした。この際、長時間のこと、座れればありがたいと決心してグリーン席に乗ることに決めました。関先生にはお礼を言ってお別れをしました。
 さて、グリーン席の快適なこと!生まれて初めて乗りました。料金も7千円と特別料金ですがそれはやむを得ないことです。しばらく乗っていると、近くで英語が聞こえて来ました。私は、ちょっと失礼、と言って話しかけました。二人の青年で、日本が大好きで、留学中とのこと、アメリカから来ていましたが、ビートルズの話を持ちかけると、「私たちは日本の歌、特に演歌が好きなんです。」と言うのです。思いがけない返事が帰って来ました。どうしてですか?と聞くと、英語の歌は、愛の歌は良いとしても、深みが無いのです。そこへ来ると、演歌には、愛いも、別れにも涙あり、笑いあり、そして、花鳥風月があって、深みがありますよ。でした。日本人は自然を大切にして、それを歌におりこむのが優れていますとも言っていました。日本のことを良く勉強しているのだと感心させられました。高いグリーン券、でも、関先生のお陰でとても良い思い出となりました。
 「一人旅 思い出いっぱい ついて来る」次号は、夜行列車の思い出を書きます。 




 もみじの人生日記  /  トップページへ