第7回 夜行列車の思い出




 いつの頃からだろう、「鉄ちゃん」という言葉が流行し、鉄道マニアは数知れずいることを聞いています。鉄ちゃんといっても、電車をカメラに収める人、全国を電車で旅している人、電車の路線を全て覚えている人、様々の様です。私は電車での旅行は好きですが、その目的のために乗るという愛好家までにはいたりませんが、長い人生の中で、結構、旅行していたことを思い出します。今回は、数少ない経験ですが、夜行列車の思い出を書きます。
 私が夜行列車で旅をしたのは3回でした。本当に少ない方だと思いますが、いずれも思い出深い経験となりました。
 最初の経験は、恩師・鈴木彪平先生と二人で旅した経験です。1972年のこと、私は大学1年生でした。鈴木先生から下宿に電話がありました。「岡山県で、全国の盲学校の生徒達・大学生のクリスチャンが集まっての交流会があるのだけれども、君も参加しないか?」との、お誘いがありました。私は、時間の余裕も取れましたので、即座に「行きます」と返事をしました。先生と私は全盲です。奥様は、仕事の都合でどうしても行けないというのです。私は考えた末、江曽島学園時代に親しくさせていただいた保母先生・臼井先生に電話をして、今でいう、上野駅でのガイドヘルパーをお願いしました。臼井先生は、東京の目白に住んで仕事をしていましたが、私の電話での依頼に快く引き受けていただいて本当に感謝しました。私は、町田から新宿・そして山手線で上野駅へ行きました。鈴木先生は、宇都宮から上野駅へ直行です。だいたい同じ時間に上野駅に着くようにして、臼井先生に迎えに来ていただき、確か、午後6時台の寝台特急「あさかぜ」に乗せていただき、座席まで案内をしていただきました。まだ、岡山までは新幹線が走っていなかったように思います。時間の関係で、夜行列車を使わなければならなかったと思います。
 さて、そこからの寝台夜行列車は、私にとりましては初めての経験でした。2段ベッドだったかと思いますが、夕食は、上野駅で弁当を買って、先生と二人、膝を付き合せての楽しいひと時を過ごしました。確か、寝るまでの5時間、私は、先生の人生日記をタップリと聞かせていただき、合わせて、私のことについても、様々な助言をしていただきました。例えば、人間にとって大切なものは、「知・人・勇」です。どんなに知識があっても、人間的な完成がなくてはリーダーにはなれない、また、ここぞと言う時には、勇気をもって決断しなければならないと言ったようなことでした。その三つの教えを私がどれだけ守れたか、先生には誠に申し訳ないとしか言えない気持ちでいっぱいですが、とにかく、今日まで覚えていることは、それを我が人生の目標にしていたことは確かなことです。そのようにして、11時頃、私はハシゴを登ってベッドに潜り込みました。初めて乗る寝台特急!私は興奮していてなかなか眠れませんでした。アメリカでの夜行バスには乗りましたが、体を横たえての夜行列車、「夜汽車」という歌がありますが、やはりロマンを感じました。
 次の朝、私たちは岡山駅に立ち、岡山県立盲学校の理療科のクリスチャンの先生・江口先生が出迎えに来てくださいました。岡山での集会には、若い視覚障害者が30人程集まっており、聖書の学びと意見交換の楽しい2泊3日の集会でした。詳しいことは覚えておりませんが、72年のこと、時代背景もあり、かなり堅い話をしたと思います。覚えていることの一つに、「真理」についてという話がありました。月が見えるということについても、夜窓から月を見るのも事実、また昼間、井戸の底から見上げると月が見えるそうです。それも事実。曇っていても、雲の上には月が出ているのも事実、これらは真理と言えば真理では無いか。そこから発展して、仏教徒キリスト教でいう、真理にはどういう違いがあるのだろうか。……等と、かなり背伸びをした話し合いだったように思いますが、大学生になったばかりの私、小柄な私ですが精一杯背伸びをしていたのではないかと思います。全国の盲学生クリスチャンの集まりはそれが最初で最後だったかと思います。琵琶湖湖畔での、晴眼者と盲学生の高校生の交流会は、20年近く続きましたが鈴木先生との夜行列車の旅は、本当に忘れられない思い出となりました。帰りは、良く覚えていないのですが、岡山から大阪まで特急で行き、そこから新幹線に乗り、東京駅に、臼井先生が迎えに来てくださったのだと思います。
 さて、第2回目の夜行列車は、97年の夏のことでした。北海道で、日本盲人キリス教伝道協議会の修養会がありました。宇都宮からの参加者は私だけでした。その時、栃木県野木町に住んでいて、小山教会の信徒であり、愛信会の会員でもある北野好子さんと、教会のお友達も参加すると聞きましたので、北斗星でご一緒させていただくことにしました。私は、宇都宮駅より、午後6時頃の北斗星に乗り、北野さんたちと合流しました。弁当と飲み物を持って、これまた楽しい夜行列車の旅行でした。私たちは2段ベッド二つ向かい合わせの4人用の寝台席でした。私が予約したのは上のベッドでしたが、幸運にも、下のベッドには誰も客はいなかったので、私は、トイレに行く都合もあったので、下のベッドに寝ることにしました。北斗星のトイレは何故か、和式のトイレでした。私はトイレから一人で戻れるように、柱にタオルを巻きつけて迷わないようにしました。一人旅の時は、いつもそのようにしていたと思います。さて 最も興奮したのは、青森から北海道へ行く、青函トンネルで、津軽海峡を走ることでした。その時には起きていようと思って、9時には寝ました。青函トンネルを通るのは、午前3時半頃と聞いていました。私は3時頃に目を覚ましました。そして私は思わず、ベッドに耳を押し当てました。今、海の底を電車が走っている。波の音が聞こえないかと、実に愚かな考えでした。もちろん、トンネルですから、そんなことがどう考えてもあるはずが無いのは分かるのですが、それでもそう思うのが、「旅のロマン」というべきことでは無いかと思わずにはいられせん。北斗星は、青函トンネルを、ユックリ、ユックリ寝ている人を起こさないように、時間の調節も含めて走っていました。昼間の電車ですと、海沿いを、電車が1時間程度走るところがあると聞きましたが、私にはこの北斗星で十分でした。海の中を電車が走るとは、不思議でたまりません。また、その技術のレベルの高さに表現できない感激を覚えました。「上野発の夜行列車降りた時から、青森駅は雪の中…、石川さゆりさんの津軽海峡冬景色」の歌も、青函トンネルができる前だから生まれたのですね。
 さて、北斗星は函館、長万部、東室蘭、登別、苫小牧…等、聞いたことのある駅を通過して、9時半頃に、札幌に到着しました。そこへ着くと、小山教会の方が迎えに来てくださり、午前中は、札幌市内の見学をすることができました。札幌駅前通りを歩くと、有名な大通り公園があり、真夏のことですから、とうもろこしを焼く良い匂い、じゃがバタの匂で満ちていました。足を止めて食べたい誘惑を抑えて、私たちは、札幌では有名な時計台に着きました。私たちはしばし待ちました。そして、11時かと思います、私たちを歓迎するかのように、鐘が音高く頭の上で鳴り響きました。NHKラジオの「音の風景」で聞くのも良いのですが、生の音はまた特別でした。北海道では、その他に、羊を飼っている牧場にも行き、美味しいアイスクリームを食べました。濃度の濃い、舌の上でとろけるような、甘いアイスクリームでした。北海道のホテルにはエアコンが無いこと、また、布団を外にほさないこともその時、知りましたし、北海道の人たちは、本土の人たちを「内地の人」と呼んでいたことも初めて聞きました。私のことを前にして、「彼氏はいくつなの?」は、伊香保温泉でアルバイトをしていた時に、北海道から来たお客様から聞きました。おもしろい表現です。
 さて、北海道では、定山渓という、すてきなところで一拍二日の集会に出席し、普段なかなか会うことのできない北海道の皆さんと楽しく過ごすことができました。帰りは、一人で北斗星に乗りました。夕方5時頃だったと思います。ところがこれまた不思議、同じ車両に、木村純子さんという、私より二つ年上のお姉さんと同席でした。寝台列車はガラガラで、4人のベッドも、私たち二人でした。木村さんは全盲の女性ですが、大阪から旅して修養会に参加したとのこと、北海道に来る時には、大阪から「トワイライト」という夜行列車に乗り、帰りは北斗星で上野に出て帰るという、実にチャレンジ精神、旺盛な方でした。私たちは、集会では会うことは良くありましたが、面と向かって話をするのは初めてのことでしたが、5時間程。話をして10時頃にベッドに入りました。その頃、電車は津軽海峡に入ろうとしていました。宇都宮に着いたのは、朝の8時頃だったかと思います。北海道に行ったのは、その1回だけの経験でしたが、本当に忘れられない旅となりました。
 3回目の夜行列車は、翌年98年にありました。全日本盲学校教育研究大会、島根での研究会でした。「我が人生旅日記」でも書きましたが、この時は、私が英語部会で研究発表をするチャンスが与えられた時でした。この夏は、宇都宮で、東日本盲伝の集会があり、私の家の近くの「コンセーレ」で、参加者132人を集めての大変、にぎやかな集会でした。それが終わると、その日に妻と娘と私は東京駅に向かいました。島根大会に出席するために、私たちは寝台特急「サンライズ出雲」に乗ることにしました。
 今回は、一人用の個室の夜行列車でした。内側から鍵をかけると外からは開けられません。北斗星にもそのような豪華な部屋が沢山ありましたが、予算の関係で、個室は利用できませんでした。サンライズの感想は、やはり快適でした。確かテレビもあったのでは無いかと思いますが、私はヘッドフォンで音楽を聞いたり、手元のラジオで夜を楽しく過ごしました。島根についてからですが、同行していた妻と娘は、私の会議中は、松江市内の観光を楽しんでいた様でした。松江城の周りにあるお堀を、船で遊覧をしたり、私も経験したかったものでした。その船は、冬はこたつを入れての船の旅と聞いています。会議が終わり夕方になって、私たち3人は、美味しい鮨を食べようと思って、鮨店に入りました。お任せコースでしたが、確かに美味しかったです。島根でのもうひとつの珍しい食べ物は、「割子蕎麦」(わりこそば)と言って、5段重ねの蕎麦で、とても珍しいものでした。そばの大好きな私、大満足でした。ここでひとつ驚いたのは、真夏というのに、夕方6時になると、本屋さんを始め、店が次々とシャッターをしめているのです。外はまだ太陽がギラギラと暑いのに、もうシャッター通りになるのかなと感じました。バブルがはじけ、松江市のような都市でも、不景気の風が吹き荒れていたのかも知れません。
 次の日は、せっかく島根に来たのだからというので、出雲大社に行き、日御碕にも足を伸ばしました。松江市と出雲大社がこんなに近いとは知りませんでしたが、島根県が、比較的小さい県と思っていましたが、細長い県であることを、実際に行ってみて良く分かりました。灯台に上り、はるかしたに海の音を聞くことができました。島根からの帰りは飛行機で羽田に行って帰りました。
 最近は、新幹線の発達により、夜行列車が少なくなりました。夜行列車の哀愁に満ちた警笛は、私の実家の近くを走る線路からも、子供の頃は悲しそうに真夜中に聞こえました。昭和の歌の中で、三橋美智也さんの「哀愁列車」と春日八郎さんの「赤いランプの終列車」という歌がありますが、正に夜行列車を思わせる歌でした。私が昨年退職する時に、「私もいよいよ赤いランプの終列車に乗ります」と言っても、分かってくれた教師はほとんど誰もいませんでした。「え?それって何ですか…」でした。やはり私は還暦を迎えていることを改めて実感しました。とても良い歌です。you tubeで、一度聞いてみてください。
 今日は、2月6日、朝から雪がシンシンと降っています。宇都宮は、1月14日の成人の日以来の雪となりました。
★メモ★
 青函トンネルは、1988年3月13日に完成しました。全長53,85キロメートルです。世界最長と言われています。最も深い所は、海底240メートルのところを通ります。
 札幌市にある時計台は、1878年(明治11年)に、札幌農学校の演舞場として設置されました。文化財に指定されています。




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