第8回 いじめと体罰




 今年になってから、いじめと体罰のニュースが連日報道されています。そこで今回は、私もこのテーマについて書くことにいたしました。学校教育法では、体罰と懲罰は禁止されております。
 まずは、いじめについてですが、これは永遠のテーマと言うべき事ではないでしょうか。最近のメディアから代表的な二つの意見を紹介します。2月4日の「週刊現代」で、作家・曽野綾子さんは、いじめについて「いじめはなくなりません。いじめをする人とされる人の受けとめ方が違います。そして、学校の中ばかりが攻められるのではなくて、曽野綾子さんによると、いじめの半分は本人の責任、残りの半分のそのまた半分は親の責任、残りの8分の1が学校と社会の責任である」との,見解でした。いじめをするのも悪いけど、いじめられる子どもも、いじめに負けないだけの力をもってほしいというのです。曽野さんは、カトリックの信者ですが、この社会には善と悪があり、それはすべての人の心にあります。良かれと思ってしたことが「いじめ」と、言われてはこれはもう、どうにもなりません。したがって、いじめの基本は自己責任で、自ら強く生きる力を与えることが大切です。と、書いています。
 一方、法政大学教授・教育評論家、尾木先生は、NHKの特別番組に幾度となくゲストとして発言をしています。多くのことを話していますが、私の心に残っているのは、教師が忙し過ぎて、子ども一人ひとりと向かい合う時間が少なすぎること。また、個人の実態に合わせず全員まとめての教育法に問題がある。個人の目標を立てての指導が大切。社会や家庭が複雑になって来ていることもあり、子どもはその影響をまともに受けているから被害者となっている。親も忙し過ぎて、子どもの心の変化に気付かないで、いじめに気付かず、自殺に追い込まれているといったようなことが多く見受けられる。学校も、教師同士の共通理解ができていない、お互いに話し合う時間もなければ、担任に任せることが多く、一部の教師だけで解決されてしまっている。等ということが指摘されました。さらに尾木先生によると、1984年に、当時の文部省では、防止策として、「心のノート」というのを発行して、教師と児童・生徒を教師が理解し合えるようにしたのですが、中学生になると、自分の本当の気持ち、「いじめにあっています。」とは、書かないものです。とも付け加えていましたし、親には心配かけたくないので、一人で悩み苦しみ自殺へと追い込まれていくのです。とも言われました。
 上に紹介した二人の考え方にはかなりの違いがありますが、私は、両方とも正しいのではないかと思います。いじめは良くない、悪いことは、子どもたちも十分に知っています。しかし、ふとしたきっかけから、軽いふざけから始まり、数人の子どもたちが集まるとさらにその度を増して、挑発して、膨張していくのではないかと思います。数年前に起きた宇都宮市内の中学校の「砂風呂事件」も、その一例と思います。
 私が最も強調したいことは二つあります。このいじめのニュースに関しては、過去30年余におよび、学校では、いじめがないというのが定説になっていました。ですから、親が学校、教育委員会、自殺に関して警察に訴えての裁判でも、いじめをした子どもたちとその親も無罪を主張して来ました。山ほどあるニュースの中から私の心に刻まれている事件のひとつは、もう30年前になるでしょうか。山形県の小学校で、体育館にあるマット事件でした。マット運動用のマットが体育館に立てかけられていましたが、一人の子どもがマットから逆さまに落ちて死んでいました。仲間たちは、知らないと言いつづけました。週刊誌では、立てかけられているマットに一人で上るわけがないのだから、マットに包まれて、その子は圧死してしまったのだろう…。親は学校の責任を取るように裁判に持ち込みましたが、無罪になったように記憶しております。
 その他、10年前のことでしょうか。長崎県の小学校で、インターネットで悪口を書かれたからと、言われた女の子が、給食の合間に、女の子を呼び出して殺害するという、痛ましい事件がありました。女の子は逮捕されて、一人用の保護施設で刑を受けていると聞いております。岐阜県の商業高校でも、一人の女の子がいじめにあって自殺をしましたが、裁判では、いじめとは認められなかった事例もありました。
 さて、ここからは我が家の子どもたちから聞いた話ですが、小学校や中学校、はたまた高等学校でも、いじめというか、体罰というか、外には出ない話を聞いています。我が家の息子は、小学校から勉強が苦手でした。すると担任の先生からは「阿久津君のお父さんは学校の先生をしているのだから、しっかり勉強をしなさいよ。」と、言われていたとのことでした。時にはものさしで叩かれたりしました。その話を聞いたのは、彼が成人してからの話でした。中学校では、体育の時間に遅れて行った時、むなぐらを掴まれて殴られて、肋骨にひびが入りました。息子を病院に連れて行って、学校に報告をすると、学校保健から医療費が出るのですが、「本人が怪我をしたからということにしてください。」との話がありました。納得のいかない私は、私と同じ教会に行っている先生に話をしましたら、翌日中学校から、「まだ解決していないのですね。体育の教師、担任、学年主任がお詫びにお伺いします。」との話がありましたが、本人は「いまさらもういいよ。」と言いましたので、その気持ちを伝えて終わりにしました。娘も小学校の時にも、いじめは経験しましたが、他の友達に助けられたと言っていました。高校の体育では、一人でも遅刻すると、全員でスクワットをさせられたそうです。これは正に、軍隊と同じ教育、一人の責任をみんなで負わせるという教育、仲間外れ、いじめを生み出しているのではないかと思います。「あいつが遅刻するから、私たちも責任を取らされるのだ。」との、考えでみんながまとまり、無視、いじめが始まります。この軍隊式教育法は、体育にかかわらず、他の授業でも見受けられました。一人の教師が40人の生徒たちを教えるのには有効というのは理解できますが、一人ひとりにとっては大変な迷惑な教育の方法と思います。
 また、ある生徒が忘れ物をしょっちゅうすると、「○○さんは、忘れ物が多いから、手にマジックで私は忘れ物をしません」と、書いている教師がいると聞いています。これは見せしめ教育になるのではないかと思います。今でも小学校や中学校では時々見られるようですが、忘れ物をする時は、忘れてしまうから忘れるので、「どうして忘れるの?」と言っても無意味なことです。前の日にカバンに入れておくことが前提ですが、小学校の低学年では、家庭のサポートがないとなかなか実現困難です。教育の全ての原点は「自己に気付くこと」ではないかと思います。自分の生きる目的を自分で見つけて生きていく、その手助けをするのが教育ではないかと思います。この「いじめ」についての考え方が改善されたのは、ここ2年前のことと思います。教育委員会から各学校に「いじめの実態調査」というのが来ていましたが、その回答の多くは「我が校では、いじめはありません」でした。なぜでしょうか。いじめはあってはならないことを、教育委員会、文科省も期待していたのです。それが、2年前から、いじめはあって当たり前という視点に変わりました。「いじめはありません」と、回答をすれば、その学校は、無責任な指導をしていると変わって来ているのです。このような対応が、10年前からでも行われていれば、自殺をした子どもたちの命も、何人かは守られていたのではないかと、私は思います。
 体罰にしては、読売ジャイアンツにいた桑田真澄さんが、「体罰での良い思いではひとつとしてなかった」と言っています。小学校・中学校の野球の練習で、けつバットを何回もされて、自転車に乗って帰宅するときの痛みは今でも覚えているというのです。なでしこジャパンの監督は暴言もなければ体罰もありません。また、1964年の東京オリンピックの女子バレーボールの鬼の監督と言われた、大松監督も気合は入れられたけれども暴力を振るわれたことは一度もなかったというのです。それでも金メダルでした。メダル至上主義も原因にあるかと思いますが、私の知る限りでは、体育系では、先輩と後輩の関係が、大学生だけではなくて、教員に就職してからも、一生続くことに起因しているのだと思わざるを得ません。後輩の教員が先輩の教員にもの申すことは、タブーになっているのではないかと感じます。ですから、大阪の高校のバスケットボール、女子柔道のことについても、相互にチェックすることができなかったのだと思います。
 今、最も憂慮しているのは、JOCで調査したところ、他の競技では、暴言や体罰が31団体では全くないということです。相撲界では、かつて、若き力士が、親方と弟子たちの暴力で殺人事件となりました。どこかでとめられなかった、暴走事件となりました。昔も今も、いじめはありました。私もいじめたり、いじめられたりの時もあったかと思いますが、とめにかかる人がいないのが問題ではないでしょうか。1年間で、何百人もの児童・生徒が自殺をしているとはなんとも悲しい現実です。全ての責任を学校に押し付けるのではなくて、家庭でも親と子が向き合う生活が最も基本となると私は確信しています。
 いじめとは少し離れますが、交通事故についての考え方の違いを付け加えますと、日本では、「交通事故はあってはならない、ない方が良い」というのが定説です。しかしアメリカでは、交通事故は車が走るのだから、ない方が良いけれども、起きても当然ですとの考え方です。そう思うと、交通事故が起きたら、ひき逃げが日本でも減少するのではないかと思います。
 ここからは脱線です。最後に私は、歴史的な「いじめ」について考えてみました。戦国時代、織田信長は、明智光秀をかなり激しくいじめましたね。光秀の領地を取り上げて、別な土地に行くように命令をしたり、戦いから帰って来て、疲れきっているところで、豊臣秀吉の所に、軍を率いて行くように命令をしたり、徳川家康の接待では、真実はどこにあるか分かりませんが、剣山でいきなり明智光秀を殴りつけました。浅野内匠は、将軍を迎えるのに、吉良上野介に相談をしましたが、賄賂がなかったせいか、意地悪をされ、恥をかかされた浅野内匠は、「殿中でござる」となり、切腹を命じられ、忠臣蔵となりました。
 いじめには、言葉によるもの、暴力によるもの、インターネットによるもの等があります。ハラスメントも同様ですが、言った人と言われた人との人間関係が良いか悪いかで全く受けとめ方が違うので、なおさら難しいと感じます。昔の歌の一説に「嫌よ嫌よも好きのうち」というのがあります。また、やめたい・やめたいというので本当かと思うと、本音はやめたくないけれども、言うことによって、他の人の様子を見るというのもあります。いやはや人生、人の気持ちを読み取るのは難しいことです。
 数年来問題になっているのは、女子大生、OLの間で「便所めし」と言って、一人でお昼を食べると仲間外れにされるので、一人で食事をするところを見られたくないというので、トイレで食事をする、女子大学生やOLが増えていると聞きました。また、企業では「追い出し部屋」と言って、一人ずつ部屋によんで、退職を迫るそうです。断ると、また次の日、そのまた次の日と果てしなく続くのです。新聞記事に取り上げられてから、政府も調査するといっていますが、電機メーカーで、そのような出来事がおきているとのこと。いじめ、体罰も大人の生き方の縮図ではないかと思います。
 「この俺に 温かいのは便座だけ」・「空気読む、それより俺の気持ち読め」(以上時事川柳より)




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