第10回 盛岡への旅の思い出




 いよいよ2月も終わって、3月「弥生」の月を迎えることになりました。盲学校も最も忙しくなることではないかと思い起こしています。去年までは、現役でしたが、退職してから早1年、遥か昔のように感じられるときもあれば、昨日のように感じることもあります。今年は、3月6日が、栃木県では高校の入試があり、盲学校を含めての特別支援学校の高等部の入試があり、8日か11日に中学校、特別支援学校では、卒業式が行われることになっております。盲学校では、11日に卒業式が行われますが、この11日には、2年前の東日本大震災があってから、私の心には深く刻まれました。このことについては、次回に書きたいと想いますが、3月11日金曜日は、確か、2016年の金曜日になるのではないかと想います。今週から来週にかけて、各学校では、入試や卒業式の準備で、てんやわんやではないかと想いますが。2月24日に行われた国家試験の吉報を願っております。
 さて、前置きが長くなりました。今回は、1985年の3月18日頃から2日間研修旅行をした岩手県森岡での思い出を書きます。その頃は、日本列島はバブルの最盛期でした。国も県も財政は、税金が十分にあり、私たち県職員には、年度末に交代で、研修旅行のチャンスが与えられており、本校にも関西地方から見学者が入れ替わりで来校しておりました。
 85年の頃、理療科の福本先生と私の研修の時が与えられ、相談をした結果、岩手県立盲学校にお邪魔をすることにしました。理由は二つありました。一つは、私の大先輩の桜井政太郎先生にお会いすること、そしてもう一つは、桜井先生が人生をかけて打ち込んだ「桜井博物館」の見学をしたいということでした。桜井先生(以下桜井さんと書かせていただきます)は、栃木県立盲学校の卒業生の一人で、栃木愛信会にも関係がありました。桜井さんは、中学部を卒業してから、現在の筑波大学附属盲学校の理療科へ進学し、教員養成部を卒業して、岩手県立盲学校に赴任されたと聞いております。桜井さんは、鈴木先生と中学生の時に、親しく交わりがあり、先生を深く尊敬していらっしゃいました。そのようなこともあり、桜井先輩から励ましの電話をいただいたりしておりました。そのような経緯もあって、福本先生にお世話になって、盛岡へと新幹線で出かけました。卒業式も終わり、年度末の忙しい時でしたが、ホッとできる一時でもありました。現在よりは、ややゆとりがあったのかと想います。まずは、岩手盲学校に行き、私は、英語科の先生とお会いして、情報交換の時間をいただき、校内の見学をさせていただきました。3月の中旬とはいえ、盛岡は、宇都宮よりもさらに寒かった記憶があります。日中でも、氷点下ですから当然のことです。
 さて、それから桜井さんのご協力をいただいて、「桜井博物館」へ私たちは向かいました。そこは、桜井さんの家と隣接されておりました。正確に書くならば、桜井さんの自宅を、手で触る博物館として1軒の家を提供したということでした。ご本人の言葉によると、「阿久津さん、僕はこのために、命がけで取り組んで来ました。全盲として生まれて来た私、盲学校に勤められたのだから、盲学校の生徒たちのために、何かをしたい!何ができるかを考えて、このことを始めました」と、おっしゃっていました。すべて、桜井さんの財布から出されたお金で、手で触る博物館を若いときから始められました。その動機は、桜井さんが栃木盲学校の中学生の時に、修学旅行で行った時に、どこの記念館や博物館に行っても、目の前にあるものはガラス張りのもの、または手を出して触るものでも、「手で触れないでください」と、書いてありました。桜井少年は、心が痛みました。目の見えない者が触れない。それは何の意味もないではないか!それがすべての動機となりました。
 桜井さんの強い信念、それは「視覚障害者には、百聞は一見にしかずではなくて、私たちには、百聞は一触にしかず」なのです」と、今日まで語り続けていらっしゃいます。この考えの支持者は視覚障害者ならば、みなさん賛成されると想いますが、それを私財をなげうって行動に移られた、桜井さんの人生の生き方に、私たちは激しく心を揺さぶられました。これこそ教育の実践にほかなりません。
 鈴木彪平先生の生徒への愛を、桜井さんは別なアプローチで、私たちに示してくださいました。桜井さんの懇切丁寧な説明を3時間程していただきました。桜井さんは、「阿久津さんたちが時間があれば二日程度ならば、喜んで説明しますよ!」とのありがたいお言葉、そしてその情熱に、私たち二人は、ただただ圧倒されてしまいました。忙しい貴重な時間を、一人でも良いから触りに来て欲しいとの桜井さんの願いは、すさまじいとしか表現できません。その3時間の中で、ひとつひとつ手にとって説明をしていただいたものは数多く、私の心では、数が多くて理解がついていけないことが実際でした。展示物の多くの物は、海の中にあるものでした。特に鮫の歯の鋭いこと、あれに噛まれたら生きてはいられないことが良く分かりました。鯨の毛や歯、骨にも触れることができました。その他、珍しい貝殻や動物の剥製にも触れることができました。鷲や鷹のツメの鋭いこと、釘よりも鋭いのではないかと感じました。桜井さんの情熱は、岩手県の漁業組合をも動かし、人の力では運ぶことのできない大きな魚をトラックで輸送していただいたこともあったとのことでした。「意思あるところに道あり」です。
 そして夕方には、桜井さんが予約してくださった盛岡名物「わんこそば」のご馳走にもあずかりました。これも初めての経験でした。畳の部屋に案内され、汚れないように首からエプロンのようなものを着けて、わんこそばの開始です。福本先生と私の他に、一人の女性が接待をしてくださいました。器は茶碗より少し大きめのものでした。横には海の幸がたくさんありました。刺し身類だったと思います。それをあまり食べるとそばを食べられないので、私は、まずはそばに集中して食べ始めました。わんこそばは、8杯食べると1人分と聞きました。私の目標は80杯くらいは食べたいと思っておりました。しかし、30を越える頃から、腹が次第に膨らんできました。そこを頑張って50杯で、箸が動かなくなり、「ご馳走様」と言って、箸をおきました。聞くところによると、もう食べられませんという時には、茶碗に蓋をすると言われていますが、お店では、そこまでは言われませんでした。ちなみに福本先生は、60杯まで行きました。ニュース等で聞くと、百杯を軽く超える人もいるといいますが、私の経験では驚嘆すべきことです。
 あれから早28年になります。盛岡を新幹線で通ることは何度かありましたが、桜井博物館には残念ながら一度しか行っておりません。桜井さんとは、94年に宇都宮で開かれた日本盲人連合全国大会で再開することができました。当時、桜井さんは岩手県盲人会の会長をなさっていました。私も微力ながら、栃木県視覚障害者福祉協会の理事をしておりました。また、桜井さんは、ここ10年間に2回程、宇都宮視覚障害者福祉協会の講演会で来ていただき、珍しいものを持ってきていただいたり、江戸時代の視覚障害者の生活についての研究をして、その話はとても楽しく興味深いお話でした。桜井博物館は、近年その実績が認められて、点字毎日文化賞を受賞されました。また、桜井さんの願いであった後継者も与えられて、NPO法人として再スタートしたことを聞いております。全国の盲学校の修学旅行の一つにも選ばれて、遠くより、近くより盲学生を始め、地元の小学校、中学校の子どもたちも来館しているとのこと、本校の生徒たちにも是非、行って欲しいと願っております。私たちの大先輩には、このようなすばらしい先生がいらっしゃることを、栃木盲学校の誇りと想います。
 ところで盛岡には、私が大学時代に共に下宿生活をしてお世話になった舟山さんという方が住んでいらっしゃいます。私より2歳年上かと想いますが、長年、高校の教師をしておられ、現在も責任ある立場は譲られての教員生活をしています。舟山さんは、もともと数学が専門ですが、最近は短歌を作る生活を楽しんでいるようです。ご本人の了解をいただいてここに紹介をして、盛岡での旅日記を閉じたいと想います。
 40年にわたる、友人との親しき交わりを感謝いたします。
 以下、舟山さんからのメールの一部です。
 阿久津さんは、現在エッセーを一生懸命書かれていますが、私は数年前から日記の代わりに短歌を詠んでいます。何事も継続が力かと思っています。始めてから、最初の投稿したのが、東海大学で出版している月刊誌「望星」に連動している望星歌壇でした。1年位、入選がありませんでしたが、1年たった頃、一つの歌が入選し、それからやる気が出たような気がします。最初の歌は「山の木の根元を見れば雪穴が空に向かいて春を告げてる」です。
 最近は、地方紙レベルになりました。毎週何処かの新聞に掲載されるようになりました。これからの頑張っていきたいと思っています。
 2月6日(水)の朝日新聞みちのく歌壇に掲載されました。1月1日の作品です。
 「年の瀬の夜空に開いた満月の穴に目寄せて新年覗く」。選者評「年の瀬の夜空に浮かぶ満月を、新年を覗く穴に見立てている。思い切った表現が、粋な世界を作り出した。」
 2月9日(土)の毎日新聞に掲載されました。12月28日の作品です。
 「四歳の孫が拾ひ読むひらがなを連想ゲームのごとく聞きおり」
 2月16日(土)の毎日新聞に掲載されました。10月26日の作品です。
 「増え過ぎし鹿も原因なりといふ聞きて哀れむ熊の出没」
 2月18日(月)の岩手日報に掲載されました。12月23日の作品です。
 「寂しげに遊具も木々も吾を見る小鳥もいない冬の公園」。評「冬の公園の風景がさびしいのは、たしかに遊ぶ子供という主役がいないからだ。直接それをいわず木々や遊具からうたったのがよかった。」
 2月19日(火)の読売新聞に掲載されました。1月4日の作品です。
 「初日浴び光る周囲の山々に心も躍る元朝散歩」
 2月20日(水)の朝日新聞みちのく歌壇に掲載されました。1月14日の作品です。
 「四歳の孫とアイスを買いに行く孫の言葉を口実にして」
 2月23日(土)の毎日新聞に掲載されました。11月24日の作品です。
 「感謝して今朝も新聞読みゐたり奨学生の頃を想ひて」
 2月1日 望星歌壇
 「ネオン無き街の一角眺めれば生まれ故郷が懐かしくなる」(ネオンなきまちのいっかくながめればうまれこきょうがなつかしくなる)
 2月4日 岩手日報
 「夕食後写メール開き初女孫の笑顔眺めて言うこともなし」(ゆうしょくごしゃめーるひらきはつまごのえがおながめていうこともなし)
 2月5日 読売新聞
 「夕べ降る真綿布団のような雪庭の草木の根には優しき」(ゆうべふるまわたふとんのようなゆき、にわのくさきのねにはやさしき)
 盛岡の舟山治男でした。
★メモ★
 盲学校という名前について。最近、障害をもつ児童生徒の学校名が変わって来ております。地名の後に、視覚障害特別支援学校という名前が圧倒的に多くなりました。これは、法律の改正によるものです。栃木県の他に、幾つかの県では、盲学校と聾学校の名前が今でも採用されております。その理由は、確か7年前のことと思いますが、栃木県立聾学校のPTA、同窓会が、どうして聾学校という名前を使ってはいけないのか。私たちは「聾学校という言葉に誇りをもっています」と、県議会に要望をだしました。県議会ではそれを尊重して、当分の間は、聾学校・盲学校という言葉を使っても良いということになりました。




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