第12回 大震災に寄せて




 月日はめぐり、あれから2年、3月11日がやってきます。あのとき、読者の皆様お一人お一人がどのようにされていたか、鮮やかに思い起こすことができるのではないかと思います。今回は、あの日の私について、そして、その後の東日本大震災と原発問題について書きます。
 2011年3月11日、金曜日の午後、私は盲学校の図書館のテープ室に一人でいました。司書室には青木さんがいました。金曜日は、中学生は5時間授業ですが、帰宅するので迎えに来る家族を待っている人もいました。授業を受けていたのは高校生だけでした。前日の10日に卒業式を、終了していたので、春休みになっていたのが何と幸いであったかと思います。
 その日の6時間目、私は空き時間でしたので、テープ室で、翌年使う英語の教材のCDのコピー等をしようと思って作業にとりかかりました。2時46分になりました。突然6畳ばかりの部屋がグラグラと揺れ始めたかと思うと「ドン」という音、その次に、地面からゴーという音が聞こえてきました。私はとっさに長いテーブルの下に潜り込みました。床ごと空中に持ち上げられるのではないかと思うほど前後左右に揺れました。「木の葉の様に揺れる船」という表現がありますが、その時のテープ室は、正にそのように激しく揺れていました。ガラスが割れるのではないかと思うような、バリバリという音、天井からは、ミシミシ・ガリガリという音が聞こえました。そのうちに、テープ室にあったCDプレイヤーの飛び散る音が聞こえて来ました。私は、もしかすると図書館が潰れるのではないかと思いました。しかし、今は動かない方が良いと思って、テーブルの下でうつぶせになって、じっとして地震の治まるのを待っていました。いったいどれだけの時間が続いたろうか?地震がやっと治まりました。司書の青木さんが私を心配して、テープ室に駆けつけてくれました。「外に出ましょう!」とのお誘いがありましたが、私は、筋肉の弱い病気があるので、あまり動かない方が良いと思って、「しばらくはこのままで、様子を見ます」と話しました。「とにかくテープ室は狭くて危ないので移動してください。」との、優しい青木司書のアドバイスに従って、図書室のメインフロアーを1歩、また1歩と手引きをしていただいて歩きました。図書室の中は、本が山のように飛び散っていました。その間を、ソロリ、ソロリと歩いて、図書室の入り口付近の椅子に座って様子を見ました。3時10分頃だったかと思いますが、第2回目の大きな揺れがやって来ました。青木司書と私は、校内放送の指示に従って避難場所である玄関前の広いスペースにみんなで集まり、安否を確認しました。
 そこには高等部の生徒を中心に、小学生高学年と中学生の生徒が何人かいたと思います。宮城県沖大地震であることが分かり、かなり大きな津波が来るという警戒警報がラジオで流れていました。私は、毎日カバンの中に携帯ラジオを持参していましたのて、避難場所にいながら情報を聞いていました。盲学校の外は、晴れてはいましたが、冷たい風がかなり強く吹いていました。高橋校長の指示の下に、私たちはスクールバスに乗って待機することになりました。子どもたちを迎えに来た保護者には、安全に帰るように声をかけ、高等部の生徒は電車が走っていないので、タクシーを呼んで、盲学校のある宇都宮の西のはじから北は那須方面、南は小山・足利へとタクシーに分乗して帰り始めました。私たちスクールバスでの帰宅組みは、5時半頃に盲学校を出発しました。地震が起きてから約3時間、当時は不安の中にいましたので、良く覚えておりませんが、栃木県内の交通状態が心配でした。時折、携帯電話で我が家に連絡をとりましたが、なかなか繋がらず、それでも1時間かけ続けたらやっと繋がり、家族も無事であることが分かりました。私が家に着いたのは、6時半頃になっていたかと思います。道路は寸断されてはいませんでしたが、大渋滞だったと思います。
 あれから今年は2年になります。宮城・岩手・福島を含めて、死者・行方不明者は1万9千人におよぶ大きな被害となりました。現在、32万人の人たちが、家を離れて、仮設住宅で不自由な生活を余儀なくされています。昨年の冬は、大雪のために、家が潰れて亡くなった人も出てしまいました。特に、福島第1原発の水素爆発の結果、原発のある4町村を中心に、6万1千人の人たちが、故郷を離れて、時には、家族がバラバラに生活をしなければならない家庭も数多くあります。宮城県に住むある酪農家は、「津波が来なければ良かったが、もうだめだ!ごめん」と言って、夫が自殺をしました。アメリカから英語を教えに来ていたALTの女性は津波で命を奪われました。私の身内では、宮城県多賀城市に従兄弟の家族が住んでいました。従兄弟はソニーテクノロジーで、部長をしていました。その会社は遥か遠くに川がありましたが、津波が、川を逆流して、会社を飲み込みました。全滅です。それでも、従業員は全員無事でした。従兄弟の連れ合い、3人の子どもたち、そして連れ合いの両晋は、その時に家にいなかったので助かりました。家は波に飲み込まれて全滅でした。隣に住む人は、忘れ物に気づいて、家に戻ったところ、押し寄せる津波に家もろとも飲み込まれてしまったということでした。この話は、横浜に住んでいる私の叔母から聞いて絶句してしまいました。
 現在、従兄弟は栃木県鹿沼市にあるソニーで単身赴任、連れ合いとその家族は、仙台市で、マンション生活をしていると聞いています。子どもたちは、中学生・高校生ですから、これからの家庭生活は、経済的にも大変なことかと思いますが、助け合い、支え合って難局を乗り越えて欲しいと祈っております。正に「九死に一生」の経験をしたと言っています。
 さてあれから2年、復旧・復興と何回聞いたことか、千年に一度の「未曾有」の大震災と言われます。しかし、原発については「絶対安心」の神話とメディアの誘導・合わせて政治の無責任でこのようなことがあった人災と、私は考えております。原発についての警告は何度となく専門家から指摘されていましたが、東電は聞く耳を持ちませんでした。福島原発から放出された放射能は、広島に投下された原発の800万倍と言われています。4号機には、これまでの何倍もの原発の原料が野ざらし状態です。もう一度、震度7が来たらどうするのでしょうか。原発について、書きたいことは沢山ありますが、マスコミでも多く取り上げられているので、最後に現在当面の問題となっている放射能に汚染された瓦礫等の処理について書きます。
 京都大学の小出裕明先生は、著書「原発のうそ」の中で、結論として、福島から流された放射能汚染物質は、もう住むことのできない、東電原発のある所に埋めるしか方法がないと、2年前に書いています。このことについて昨年、栃木県選出衆議院議員・福田あきお氏が同じようなことを言いました。それを聞いた福島県の佐藤知事が間違えて、栃木県の福田知事に怒鳴り込んだというニュースがありました。そして、今では栃木県の矢板市にある国有林に、放射能で汚染された瓦礫等を埋めようという案がでました。しかし全市を挙げて反対運動です。ゴミ処理問題と同じで、自分の所だけには危険な物、汚い物を持ち込むのは反対なのです。それでいて、昨年の選挙では、原発問題への関心は11パーセントでした。マスコミの選挙報道に影響されて、民主党に失望した人たちが、選挙に行かなかったことが、こういう結果を生みました。栃木県の県北では、福島とほぼ同じ量の放射能が現在も流れて来ているのです。これは、日本全体の問題です。もはや日本は原爆の被害者ではなくて、世界では加害者であると私は自戒しています。2年前に仙谷民主党幹事長は、「原発ストップは、ヒステリーになった人の言うことだ!」と言いました。また、野田総理は昨年、「福島の原発は終息した。」と言いました。政権が変わり、安部総理は、終息はしていないと修正しました。これはあまりにも無責任の発言です。総理が変わるだけで、発言が全く変わるのです。原発は何ら変わっていないのに…。
 ドイツ・イタリアでは、原発を停止すると決断しました。原発を経済問題として考え、私たちの命や生活の問題を混同してはいませんか。あなたの街にこれから原発ができると聞いたらどうしますか。国からの補助金140億円のために命を覚悟で容認しますか。日本の原発を核兵器に変えると、核兵器7千発分に匹敵すると聞きました。一月もあれば、日本では核兵器ができるのです。日本は核兵器は作らないとの約束があるだけです。昨年11月4日に、宇都宮の大通りを中心に、落合恵子さんたちの呼びかけに応えて、2万1千人の人たちが、原発再起動反対のデモをしました。私は、たまたまその現場にいたので、一緒にシュプレヒコールに加わりました。
 3月11日を迎えて、私はこれから何をすべきか、どう生きるかを改めて問い直しています。今こそ、八重の桜ではありませんが、「ならぬはならぬ」と思います。チェルノブイリを知れば知るほど、今後の福島原発の問題への回答も出てくるのだと私は思います。「人の命は地球よりも思い」と言ったのは誰か忘れましだが、今や単なる御題目になっています。命の大切さが、軽くなりすぎて、毎日76人が自殺し、1万円そこそこのために殺人事件がおきています。これからの社会、一人ひとりが良く考えて判断する自己責任の問われる時代です。私は毎朝、東日本大震災を忘れないためにしていることがあります。長渕剛さんの「ひとつ」を毎朝聞いて、津波と原発に苦しむ人たちの気持ちを共有しています。特に、2番の歌を聞くと胸が熱くなります。皆様も一度聞いてみてください。




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