第20回 母の日に寄せて




 皆様こんにちは。お元気ですか。GWも終わり、学校、企業も本起動ですね。我が家の娘の高校では、16日から18日にかけて、早くも中間試験だと言っています。盲学校時代のことが懐かしく思い起こされます。5月5日は子どもの日でした。0歳から15歳児の人口が1649万人と聞いてビックリしました。正に少子時代です。65歳以上の人口が3千万人、5年後は4千万人となります。私もその一人ですが、子どもも大人も覚悟を決めて生きていかなければならない時代となりました。
 ところで5月12日は「母の日」ですね。そこで今回は、私の母の思い出を書きたいと思います。母の日についての由来ですが、1905年5月9日に、バージニア州に住んでいたアンナ・ジャービスの母親が亡くなりました。そして、1907年5月10日の教会での礼拝後に、母親の愛していたカーネーションを教会員に配ったことがそもそもの始まりでした。その話が全米に広がり、1914年、アメリカ大統領・ウィルソンが5月第2日曜日を、母の日として決めたのがきっかけとなりました。
 日本では翌年、1915年に、教会でも5月の第2日曜日に母の日として、カーネーションを配るようになりました。やがて、デパート業界がそのことに着目し、「お母さんに、感謝のプレゼントをしましょう」というコマーシャルブームとなり、今日にいたりました。感謝をすることは、いずれにしても大切なことと思います。
 私の母「さく」は、1914年の寅年ですから、健在ならば99歳になりますが、残念ながら5年前の6月17日に天国に旅立っていきました。その年の11月には、10年間同居した義母(妻の母親)も亡くなりました。そして私の姉の姑、弟の義母も同年に亡くなりました。みんな仲良く旅立って行ったのではないかと思います。私の母は、宇都宮の野尻(のじり)という所で生まれました。何人兄弟かは忘れましたが、農家に生まれたので、大正時代に生まれた農家の女の子は、ほとんどが学校教育を受けることができませんでした。義務教育は4年間あったはずですが、母はせいぜい2年生まで学校に行ったかどうかで、兄弟たちの子守をしていたようです。二十歳の頃、従兄弟と結婚をしました。それが私たちの父親なのでした。詳しい話は聞きませんでした。私が、どうして結婚をしたの?と聞くと、「昔のことで忘れたなあ」と答えていました。1960年頃までは、多くの場合、親が娘の結婚を決めたら、それで決まりの様だったようです。ですから、結婚式で初めて顔を合わせることも珍しくなかったと聞いています。都会ではそのようなことはなかったかと思いますが、地方ではごく自然でした。母は、9人の子どもを生みましたが、戦中・戦後のこともあり、4人の子どもを病気や事故で亡くしました。私は7番目として生まれましたが、2歳の頃、目が見えないのではないかと気づき、眼科を訪れましたが、治る望みはありませんでした。
 母の思い出ですが、私は7歳から家を離れ、寮生活でしたので、幼い頃の思い出はあまり記憶にありません。運動会や学芸会には必ず来てもらったことがとても嬉しかったことです。小学生の6年生の時だったかと思いますが、子どもたちと保護者で、江ノ島・鎌倉方面の修学旅行に行ったことが楽しく思い出されます。
 最も母と近く感じるようになったのは、私が専攻科に入学してマッサージの資格を取得してからです。母は大変な社交家でした。ですから、私がマッサージの資格を取ると、近所の人たちにお茶を飲みながら、「おらの息子はマッサージの資格を取ったからたいしたもんだよ!みんなもかかりに来なよ。」と、コマーシャルを始めました。全くの親ばかですが、それだけ安心して嬉しかったのではないかと思います。専攻科1年の時は、伊香保温泉でのアルバイトで家にはいませんでしたが、2年生から大学4年までの5年間の夏休みには、近所の奥さんたちが、マッサージや鍼の治療に来ていただき、私のポケットにはこづかいが入って来て交際費に当てることができました。母は、教育を受ける機会はありませんでしたが、「生きる力」は、抜群、今で言うコミュニケーション能力は優れていたと思います。そしてもうひとつ、母は、しょっちゅう自分を叱咤激励するためと思いますが、誰、はばかることなく「おらは、たいしたもんだよ。啓司のことを連れて、町田までちゃんと電車を乗り換えて送り迎えもしたし、…」と、言っていました。近所の人たちも、「そうだよね。おさくさんは、苦労をしたけどたいしたもんだね。」と、あいずちを打っていました。
 母が最も喜んだのは、私の就職が決まった時と、結婚をした時と思います。両親にとっては、鈴木先生は神様のような存在でしたから、先生の言うことは絶対でした。ですから、兄弟の仲で私だけが大学に行かせてもらえたし、3年生の時にアメリカにも行かせてもらえたのだと思います。私の結婚の時には、これまで母親が心の奥底に抱え込んでいた心配が開放されて、妻に「啓司のことをよろしく頼むよ」と、泣いて喜んでくれました。これが母心なのだと私もジンとなりました。結婚をしてからは、年に2回か3回泊まりに来て私のマッサージと鍼の治療を受けて喜んでくれました。08年6月13日、母は、誤嚥性肺炎になりました。それから17日までの五日間肺炎にかかり苦しい時が続きました。しかし、その入院中の四日間は意識がありましたので、私たち子どもたちは、付き添いながら昔を語り、母親に感謝の言葉を伝えました。母は、苦しい呼吸をしながら、涙をボロボロと流していました。それは、悲しい涙ではなくて、喜びの涙ではなかったかと思います。子どもを4人亡くし、言葉では言い表すことのできない悲しく・辛い93年間だったと思いますが、幸せな人生であったかとも思います。「おらは死ぬほど苦労をしたけど、子どもたちに助けられて来たよ。」と、度々言っていました。そういう意味では、自分を愛し、ありのままに正直に生きた明るい・陽気な母親だったと思います。今から思えば、悩みをしまいこまず、それをプラスに変えることのできた人であったと思います。
 家を離れての生活が長かった私にとって、母を思う気持ちは、他の兄弟たちとは一味違うのかも知れませんし、それは母親も同様だったかも知れません。障害を持つ母親に共通する心があります。できることなら、子どもの代わりに自分が代わってやりたいとの気持ちです。ある講演会で次のような話を聞きました。知的障害をもつ女の子が、七夕の願いに「私の願いは、母さんよりも早く天国へ行きたいことです。」でした。それを読んだ母親は、「母さんの願いは可愛い娘を天国に送ってから私が後から天国へ行くことです。」と、書いたそうです。これを読む皆様はどのように感じますか。私はその話を聞いて、胸がジンと熱くなりました。女の子と母親の気持ちが痛いほど伝わってきました。重い障害をもつ母親の多くがそのように感じるのです。毎日一緒に暮らしている親子には、それが幸せな人生だと感じるのではないかと思います。母親を責めることはできないと思います。辛苦の人生を共に歩むとそのように感じるようになるのではないでしょうか。母親がいなければ生きていけないとしたら、そのような願いを望みをもつ女の子の気持ちが痛いほど伝わって来ます。母親の存在は、実に偉大で尊いと思います、
 蛇足ですが、母校のことを、英語ではMother schoolといいますし、母国語のことを、Mother tongue(マザータング)と言います。これは、おそらく英語を日本語に当てはめたのではないかと思われます。ビートルズの、Let It Beでは、Mother Maryと歌っています。「聖母・マリア」のことです。母の愛は深いのですね。
 今年もありし日の母を思い起こして過ごしたいと考えています。アンナ・ジャービスさん「ありがとう!」



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