第21回 落語の楽しみ




 私は幼い時からラジオを通して、浪曲・民謡・そしてお笑い番組を家族で聞いていました。楽しみといえばラジオしかない時代が1960年頃まで続きました。そのようなこともあり、小学5年生の時には、図工の時間に沢村先生に許可されて、落語のかじりかけを話すことを許していただきました。通信簿は、「話も技術のひとつだ!」との、寛大な沢村先生の粋な計らいで救われました。私は、大学生になってから、そして就職してから数年間、今は亡き名人の落語を直接楽しむことができたことは本当に幸いな人生でした。
 落語というのは、大きく内容は4つに分けられるといいます。こっけいな話、人情話、色物(男女の恋愛)、そして怪談です。これに入らないものも中にはありますが、だいたいそのように言われております。私は大学時代は、友人たちと共に、新宿にある「末広亭」に、年に2・3回通い、就職してからは、家族と一緒に年に1回、上野にある「鈴本」へ行きました。
 ここで、寄席について少し説明をします。客席は、だいたい200席から300席程度です。末広亭には、椅子席と畳の座席があります。上野鈴本には畳の座席はなく、2階になっています。昼間は12時から4時半まで、夜の部は、5時から9時半頃となっており、現在の料金は分かりませんが、当時は2500円で4時間半楽しむことができました。最初の頃は、テレビでは聞くことのできない若手の落語家が10分程度小話をします。客はそれを聞きながら昼ごはんや夕飯をつまみながら楽しみます。最近は少なくなったかも知れませんが、お酒を飲みながら楽しむ客もいたようです。テレビなどで、落語ブームが起こってからは、酒を飲む人は少なくなったかと思います。寄席では、落語の他に漫才・漫談・マジック等をミックスしてのプログラムなので、飽きることはありません。私が感心させられたのは、寄席の楽屋には黒板があり、「今日の客席には、目の不自由な人が来ています。」とか、「足の不自由な人が来ています。」などと書いてあるそうです。それを読んだ落語家たちは、障害者をネタにした演目を取り止めるそうです。演目で取り止めなくて良いのは、泥棒の話だそうです。「俺は泥棒だけど、何で俺の話をするんだ!」と言う人はいませんからね。寄席でしか聞くことのできない話もあります。例えば、放送できない裏話や下ネタ話があります。
 落語は十日単位で、プログラムが変わります。落語協会、芸術協会の交代で担当します。私が出かけた寄席は先の2箇所でしたが、池袋・浅草にも寄席があります。何と言っても、当時名人と言われていた6代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)さん、古今亭志ん生(ここんていしんしょう)さん、若くして亡くなった林家三平さんの落語を聞くことができたことは、私の人生の宝物です。他にも沢山いましたが、ここでは名前は省略いたします。とにかく、落語の名人を目の前で聞くことができたこと、それは昭和を生きた者としての大きな喜びでした。特に、6代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)さんの落語は、私が最も好きな落語家でした。好きを越えて、尊敬しておりました。話し方・間の取り方、実にすばらしいのです。ラジオで聞いても楽しいのですが、生の落語は、言葉では言い表すことができません。圓生(えんしょう)さんは、79年の9月に亡くなりましたが、その3ヶ月程前に、三遊亭圓生一門で宇都宮に来られ、それを聞くことができたことが忘れられません。
 忘れられない思い出というと、73年かと思いますが、新宿末広亭に行った時、テレビ朝日のお笑い番組「末広亭珍芸シリーズ」という放送の録画があり、毒蝮三太夫さんが司会をしており、ゲストに森昌子さんが目の前にいました。中学3年生で当時、「先生」がヒット中でした。インタビューの後に、歌を歌ってくれたのが良い思い出でした。ただ、ディレクターが合図をする度に、拍手を強制されたのにはまいりました。
 三遊亭圓生さんは、昭和天皇からの要望によって、御前落語をしました。「御神酒徳利」という演目だったそうですが、大変緊張をしたと後日話しておりました。帰り際に、御祝儀をいただきましたが、さぞかし沢山あるかな?と、期待しておりましたが、「御祝儀は金一封でしたね。」と言っていました。大変光栄なことだと喜んでいました。落語が天皇陛下にも認められたことが圓生さんには誇らしかったのではないかと思います。圓生さんの弟子には、09年に脳梗塞で亡くなられた5代目三遊亭円楽さんがいます。人気テレビ番組「笑点」の司会を長く勤められた落語家ですが、78歳で、亡くなられたことはとても残念なことです。
 それでは、今回、5代目三遊亭円楽師匠の「芝浜」をご紹介いたします。話は江戸時代です。江戸の芝に、魚屋の活とおかみさんの話です。この活は、魚屋では一人前でしたが、ある時を境に、酒びたりとなり、二十日間も仕事を休んでしまいました。暮れも押し詰まり、生活も苦しくなりました。ある朝早く、おかみさんになだめすかされて、活五郎が起こされ、天秤をかついで家を出ます。時間を間違えて、早く出かけてしまい、ブツブツ言いながら、活五郎は、芝浜で顔を洗って海を眺めています。ふと足元を見ると、古びた財布が落ちていました。数えてみると、何と42両もあるではありませんか。10両を盗むと、捕らえられて磔獄門の時代ですから、42両といえば、現在の5百万円にもなるでしょうか。喜んだ活五郎、家に飛んで帰り、「おっかあ、これで仕事をしなくても、一生酒を飲んで暮らせるぞ!」と、大喜び!活五郎が次に目を覚ましたのは、朝早く、おかみさんに起こされます。「お前さん、早く仕事に行かないと、かまのふたが開かないよ。わらじも、天秤も用意してあるから、仕事に行っておくれ。」というのです。驚いたのは活五郎です。「あの拾った42両はどうした。あれがあれば仕事なんかしなくてもいいんだ。」と言います。おかみさんは、「何を夢見たいなことを言っているんだい。風呂に入ってから、仲間たち大勢を呼んできて、飲めや歌えのドンチャン騒ぎだったでしょう。わたしゃ、これから仕事をしっかりするんだろうと思って我慢をしていたよ。」との話。活五郎は、狐につままれた話の様でしたが、心を入れ代えて、それから3年間必死になって、魚屋の仕事をします。そのお陰で、魚屋も独立し、店を持ち、若い者を3人、使うことができるようになりました。
 さて、3年が過ぎた大晦日の夜、仕事を終えて、活五郎が銭湯から帰って来ると、おかみさんが、言います。「おまえさん、これからあたしが言うことを最後まで聞いてくれるかい?」と話を切り出します。「なんだい、あらたまって!」と、活五郎が言います。「ここにある財布、見覚えがないかい?実は、おまえさんが芝浜で拾った財布がこれだよ。42両ちゃんと入っているんだよ。あの時、お前さんが、これがあれば仕事をしなくて、一生酒を飲んで暮らせるから安心だというじゃないかい。」あたしゃビックリ仰天、そんなことをしたら、お上に捕まえられて磔獄門だと思ったので、みんながドンちゃん騒ぎをしている時に、大家さんに相談に行ったら、とんでもないことだ。すぐに拾った物を、お上に届けないと大変なことになるよ。みんな夢だ!夢だ!と言って、活五郎をまっとうな魚屋にしなければだめだと言われたので、本当に辛かったけど、うそをつき通したんだよ。そのうちに、大家さんから呼出しがあって、落とし主が見つからないからということで、42両が戻って来たんだよ。だけど、おまえさんが、一生懸命に魚屋の仕事をしてくれたので、心を鬼にして3年間黙っていたんだよ。雪の降る寒い日に、おまえさんが仕事に出かけるときなんぞは、心で泣いていたよ。さあ、殴るなりけるなりしておくれ。」と、おかみさんが言います。活五郎は、「そうか。ありがとう。おまえがああしてくれなかったら、俺は、今頃生きているかどうか分からなかったよ。生きていても、佃島に島流しが良いとこだ。お礼をいうのは俺のほうだよ。」「おまえさんありがとう。分かってくれるかい。嬉しいよ。今日は大晦日だよ、3年ぶりに一杯やるかい。用意してあるよ。」活五郎は大喜びです。「俺は、酒を随分飲まなかったな。羊羹きってもらって、宇治茶でもありゃあ、俺は充分なんだけど、酒となりゃ、またべつもんだ。羊羹なんぞ、犬にくれてやれ。」そして目の前に出された湯のみ茶碗の酒に話しかけます。「久しぶりだな。畳にこぼしたらもったいないよ。飲むよ!お前が出してくれたから飲むんだよ。おい、良いにおいだな。良く達者でいたな。やっぱりやめた。また夢になるからな。」これが落ちとなります。
 夫思いの妻の優しさ、これこそ人情話の代表作で、円楽さんの18番の一つでした。脳梗塞を患い復帰しようとした時、この「芝浜」を演じてちょっと忘れてしまったことをきっかけに引退を決断しました。正に引き際の良さに感服です。お後がよろしいようです。
★メモ★
 6代目、三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)、1900年から79年9月までの名人落語家。
 5代目、三遊亭円楽(さんゆうていえんらく)、1932年1月3日生まれ、2009年10月29日逝去。1962年、真打昇進。笑点4代目司会、現役引退。
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