第24回 カラオケの思い出




 みなさんこんにちは。5月29日に入梅と発表されましたが、梅雨と言うよりも、空梅雨・空振りか、正直ちょっと早すぎたとは思っていました。本格的な梅雨は6月の下旬ではないかと思います。「悪いけど、梅雨明けは間違いだ」(時事川柳より)6月10日は、時の記念日です。時間を大切に1日、1日を過ごして生きたいものです。コマーシャルに、「何時ですか?」「今でしょ!」というのがあります。"here and now"です。今、生かされていることを感謝しつつ生きて行きたいと願っております。
 さて、今回のテーマは「カラツユ」ではなくて、カラオケについてです。カラオケが、日本に普及し始めたのは、1970年のことでした。8トラックのカラオケセットが売り出され、興味をもった人たちが自宅で買い始めました。1973年にFM東京で、土曜日の午後1時から、J-popのベストテンという番組が始まり、その中で、「カラオケコーナー」というコーナーがもうけられ、1週間に1曲流されるようになりました。私は、大学2年の時でしたので、楽しみにして録音をして、4畳半の下宿で歌っていました。その頃、最もヒットしていたのが、南こうせつと、かぐや姫の「神田川」でした。1973年9月20日に発売されてから、あっという間にヒットしました。10週間1位をキープしていたと思います。当時、総理大臣の中曽根康弘さんが、その「神田川」をカラオケでよく歌っていたとニュースで取り上げていました。75年頃から、東京でもカラオケボックス、カラオケハウスというのがチラホラできるようになりました。それをきっかけに、地方にもあっという間に広がって行きました。地方では、カラオケハウスができる前に、宴会場に、レーザーディスクというものが備え付けられました。1曲歌うのに200円投入しなければなりませんでした。それから、温泉地の旅館でも、カラオケのセットが備え付けられて行きました。宴会場、温泉地での宿泊では、必ずカラオケが歌われる様になりました。忘年会の宴会では、まずは、若い人たちが前座を努め、最後は社長が歌うということになっていました。学校ではラスト、つまりトリの真打ちは校長先生ということになっておりました。
 私が「カラオケハウス」に行き始めたのは、90年頃でした。私たち家族が、日曜日には、小学生の子どもたち二人を連れて、四条町教会に毎週行っておりました。朝の9時から、子どもたちのために、教会学校があり、その後、大人の礼拝が11時半頃まであります。大人の時は、子どもたちは外で遊んでいましたが、息子が、小学4年生になった頃から、「教会に行きたくない」と言い始めました。友達と遊びたいので、教会は行きたくないと言うのです。教会には、小学生から高校生まで20人程は来ており、結構、楽しんでいたのですが、だんだん飽きてきたのではないかと思います。そこで、私たちは、礼拝後、教会から歩いて10分程度の所にできた「カラオケユニオン」という所に、ひと月に1回行くようにしました。場所は、宇都宮のほぼ中心地にありました。1階が、南大門というパチンコ店で、2階がカラオケユニオンでした。80年から20年間くらいは、カラオケユニオンはありましたが、2000年頃には、南大門、カラオケともなくなってしまいました。息子と娘は、カラオケが大好きになりました。特に息子は、カラオケのお陰で歌が好きになりました。最初の頃は、カラオケのリズムにのるのに苦労をしていました。私たち夫婦は、息子の歌に自信をもたせるために、2時間カラオケハウスに通いました。娘の方は、幼い頃から「お母さんといっしょ」というテレビ番組で歌っていたこともあり、音程はしっかりしており、どんな歌もどんどん覚えていきました。しかし、息子のカラオケも、半年程続けると、大好きな歌は音程が取れるようになりました。そして歌の楽しさが分かって来て、家でもテープやCDをかけて、大きな声で歌ようになりました。それが動機となって、カラオケが好きになり、アニメの歌、演歌が持ち歌となりました。息子は、中学3年生頃までは教会に行きましたが、それから10年位は教会に行かなくなりました。友達との青春が楽しくなったのでした。私たちは、それに対して認めていました。教会には行かなくても、教会で友達になった人たちとは交流を続けていました。息子は、友達とカラオケに行きだし、我が家でも、息子が20歳の頃から、近くのカラオケハウスに出かけて行って、4人でカラオケを楽しみました。妻は、最初はカラオケに付き合ってくれましたが、そもそも、あまりカラオケの大きな音は好きになれなかったようで、3人でカラオケに行くことが多くなりました。息子の小学3年生から中学2年生までの6年間のカラオケ通いが、彼にとっては自信となり、人前でもそれなりに歌えるようになって、本当に良かったと思います。
 さて、盲学校でのカラオケですが、80年から10年位は、宴会では、2時間のうち、1時間程度はカラオケの時間がありましたが、90年代に入り、せっかくの時だから、カラオケは2次会にして、ゆっくり話をしようということになり、1次会では、カラオケはほとんどなくなりました。2次会になると、世代の差が出てきて、若者たちは、カラオケハウスに流れて、夜遅くまで楽しむようになりました。私は40代になり、2次会は失礼して、家族でのカラオケで楽しむようになりました。視覚障がい者にとって、カラオケはどうしてもやらない訳にはいきません。みんな大好きなのです。忘年会、新年会、同窓会、クラス会には必ずカラオケが付きます。また、私たちの仲間には、実に歌の上手な人が多いのです。卒業生の中には、カラオケ教室を開いて、歌の指導をしている方もいらっしゃるのです。年配者は、演歌を歌う人が多いように思いますが、若い人たちは、浜崎あゆみ、安室奈美恵、モーニング娘、AKB48、ももいろクローバーZ…等、幅が広くなりました。20代の女性でも、おじさん、おばさんたちのレベルに合わせて演歌を歌って、御機嫌をとってくれる人もいます。我が家の娘は、私のベストセレクション、60曲を聞いて、「父さん、昔の歌も良いね。昭和の歌のほうが好きだな!」と、言うようになり、今では美空ひばりの「愛燦々」が大好きになりました。また、20代の女性ですが、石川さゆりの「天城越え」を実に上手に歌います。
 そういえば、老若男女、みんな歌は大好きですよね。昔は、NHKのラジオ番組「みっつの歌」という番組がありました。1951年から70年までの19年間続いた人気番組でした。宮田輝さんが、巧妙な司会で、出演者と話をしながら、ピアノの伴奏に合わせて3曲歌ってもらう楽しい番組でした。
 また、日曜日の昼には、テレビとラジオで1946年の1月から今日までの67年間「のど自慢」の番組が続いています。20組が出演するのに、希望者は、300人を越えると聞いています。しかも、歌の上手な人ばかりではなくて、年齢層も、高校生程度から80代、90代のシニアの人たちも、バランスよく選ばれています。のど自慢に出演したい人は、予めゲストを調べて、その人の歌を選ぶと出られる可能性があると言いますが、最近はそれをねらってのエントリーも増えているようです。
 さて、話はカラオケに戻ります。私ばかりではありませんが、視覚障がい者の多くは、自分で、点字の「カラオケ集」を、たいてい持ち歩きます。画面の歌詞を読むことができないからです。数年前に、点字でカラオケの歌詞が出るという機械を見ましたが、1台400万円と聞いてビックリしました。最近テレビでのコマーシャルによると、1万円で、カラオケ用のマイクを買ってテレビにセットすると、300曲の歌を歌えると聞きましたが、自分の家で歌うのと、カラオケハウスで歌うのとは気分が違います。これは欲しいとは思いません。家族、友人、連れ立ってカラオケハウスに行って、未成年はドリンクバー、大人は生ビールと枝豆で歌うと、3時間があっという間に過ぎてしまいます。私は最高6時間カラオケにお付き合いしましたが、若者の間では、オールナイトも楽しんでいるとのこと、これにはついて行けません。
 若者たちとカラオケに行くと、普段聞くことのないような歌を聞くのも楽しみの一つです。昭和の頃は、歌を聞くと、歌手の声が70パーセント、バックミュージックが30パーセント程度だったかと思います。ところが、最近の歌は、音楽が大きくて、早口の歌のせいもあって、意味不明の歌が多いのが残念です。バラードの歌ならば、味わって聞くことができます。人数も6、7人程度までが良いように思います。10人を超えると、グループがわかれて、歌とおしゃべりが混乱して、ガヤガヤ状態になってしまいます。
 今では、このカラオケは、英語では、「キャリオケ」となって、世界中に普及しています。世界では争いが絶えませんが、中国・韓国・日本で、政治家たちで、カラオケ大会でもしては如何でしょうか。怖い顔が笑顔に変わるのではないでしょうか。
★メモ★
 1955年頃から、ラジオ東京、現在TBSラジオでは、歌のない歌謡曲として、放送されていました。歌の変わりにギター等でメロディーを流していました。
 季節は巡り、今年も夏に向けての歌が次々とできて来ると思います。
 最近の結婚式の後の2次会の様子を聞きました。カラオケの時に、スマホを使って、クイズをするそうです。ほぼ全員スマホで答えると、司会者が全てを見ることができるとか、いやはやハイテクの時代となりました。



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