第25回 父の日に寄せて




 みなさんこんにちは。お元気ですか。台風3号の影響を受けて、今週は蒸し暑い日となりました。やはり梅雨に入ったようですね。水不足ですから、まとまった雨が欲しいところです。日本は水不足ですが、ヨーロッパのドイツ・チェコ・オーストリアなどでは、大雨と大洪水と聞いています。半分位、日本に欲しいですね。北海道では、30度を超える真夏日になっているそうです。今回は、6月16日が父の日となっています。今まで、自分の父親について本気になって考えたことはあまりありませんでした。そこで、今回は改めて父親について書くことにしました。
 父の日の由来についてですが、由来はアメリカから来ています。1909年、アメリカ・ワシントン州に住む、J. B. ドット婦人は、亡くなったお父さん、ウイリアム・ジャクソンさんが、自分を含めて6人の子どもを育ててくれたことに感謝して、お墓にバラの花を供えたことから始まったといわれています。このように、一人のふとした行動から世界に広がって行きました。母の日は、アンナ・ジャービスさんが教会でカーネーションを配ったことからということは、すでに書きましたが、感謝の気持ちは大切にしたいものと思います。母の日にはカーネーションですが、父の日はバラの花束といわれています。ネクタイ、ヒゲ剃り機、ワイン等、これといったものは、あまり出てきません。我が家では、5人の兄弟がいましたから、結局、母の日、父の日ともキャッシュが一番良いだろうということになっておりました。
 私の父、かめたろうは、1913年(大正2年)の生まれですから、大げさにいえば、生誕百歳ということになります。しかし、26年前の87年の5月6日に74歳で亡くなりました。月日の経つのは早いものです。かめたろうは、長男として宇都宮市の今泉新町に生まれました。弟が一人いて、その下は妹が4人でした。父の弟は、41年の第2次世界大戦に召集され戦死しました。父も召集されましたが、群馬県沼田の軍隊に入って間もなく重い病気になったこから、直ぐに開放されました。長男であったこと、30代半ばで、子どもたちも沢山いたことも、免除されたのかも知れません。私は51年に生まれた訳ですから、そのような話は、叔母たちから聞いたものです。
 父の思い出といえば、まず最初に思い出すのが、4歳か5歳の頃と思いますが、私の髪の毛をバリカンでかってもらっての坊主頭(スキンヘッド)は、父親の役割になっておりました。父は、縁側に新聞紙を引いて私を座らせて、バリカンを片手に、ジョリジョリと髪の毛を切り始めます。もちろん素人のこと、時々、髪の毛がバリカンに挟まってギクリと引っ張られて痛いのです。思わず「痛い」というと、「我慢をしろ!」と言われて静かにするのが通例でした。私は農家の生まれですから、床屋さんに行くことなどは二十歳になるまではありませんでした。盲学校に入ってからは、保母さんに、バリカンで切ってもらいました。高校生になる頃から、火曜日に理容師のボランティア奉仕がありました。何度かカットしていただいた時は、とても嬉しかったことを憶えています。
 次の記憶は、5歳ころかと思いますが、4歳上の兄の運動会に、父が運転する自転車の後ろに乗せてもらって出かけたことです。父はめったに自転車に乗らない人だと思いますが、その時、もう少しで、自転車が倒れそうになって、親子して怪我をするところでした。父はあわてて足をついて自転車の倒れるのを止めて、事なきを得た思い出があります。それから、父の自転車に乗った記憶はありません。7歳からは、江曽島学園に入りましたので、長期休業中を除いて、家庭での生活は経験しませんでした。母の思い出と共に、家庭で家族みんなとの生活を長くしたのは、就職してから結婚までの3年間でした。
 1960年頃に、我が家には白黒のテレビが入りました。父は目が悪かったのか、テレビを見る時は、必ずテレビのまん前に座って相撲、プロレス、西部劇を楽しんでいました。「ララミー牧場」がお気に入りでした。その時には、必ず、焼酎または安い日本酒をおき、いかの塩辛を食べながら1人で楽しんでいました。相撲やプロレスの時には、テレビに向かって叫んだり応援をしていました。特に、プロレスでは、金曜日の夜8時から9時まで、日本テレビでの全日本プロレスだったと思いますが、力道山、ジャイアント馬場、ライバルが、かみつきブラッシー、ルーテーズ等でした。私は見えないのですが、大げさな実況中継で、日本側が大抵の場合勝っていました。父はそれでご機嫌でした。後で分かったのですが、プロレスはストーリーができていたとは知りませんから、本気、命がけの戦いと信じて疑いませんでした。
 64年の東京オリンピックの頃にカラーテレビが入り、プロ野球は、我が家ではラジオからテレビ観戦に変わりました。父は、今度は、相撲、ララミー牧場、水戸黄門の番組を見るようになり、それが終わると、そそくさと近くの寿司屋に行くようになりました。どうして寿司屋に行ける様になったかといいますと、確か62年だったと思います。我が家は宇都宮の中でも便利の良い所に住んでいました。農家の多くが、池田総理の「所得倍増」の下に、経済がグングンと成長を遂げていきました。農家の多くが土地を売り、そのお金を使ってアパート経営、貸家を建てて、米、野菜だけの収入ではなくなって行きました。そんなことを聞いた父も、農地を売却して、我が家の前の田んぼを埋めて貸家を6軒建てました。これで、毎月安定した収入が得られる様になりました。その後、さらに2軒加えて8軒となり、ゆとりができたものですから、父は夕方になると落ち着かなくなって、寿司屋に行くようになり、3時間程経つと、寿司屋のお嫁さんの車で送ってもらっていました。自分だけ良い思いをするのに気を引けたのか、時々寿司折を土産に持って帰り、玄関を上がると、まっすぐ仏壇の方に行って、そこでしばらく、5年前に亡くなった母親に話しかけるのでした。「おっかさん、こんなのんべえですまねえな。」等、今思うと、父は寂しがり屋であったのかと思います。長男として生まれた父でしたが、45年7月の宇都宮空襲で父親(私たちの祖父)を亡くしました。父が34歳だったと思います。母、つまり私の祖母は、49歳の時に脳卒中で倒れ、自宅療養を19年して、60年の12月27日に、私が冬休みに家に帰るのを待っていたかのように帰らぬ人となりました。空襲で、かなり広い家と5つの倉が全焼したと聞いております。それからは、いずこも同じだと思いますが、20年位は貧しい生活だったと思います。
 そのような訳で、父は農家の仕事はしておりましたが、5人の子どもたちを育てなければならず、なんとかしなければと思い立って、先に書いたように貸家を建てることにしました。その貸家は、6畳と4畳半の和室、台所とトイレが付いて、一月6500円でした。64年頃の話ですが、高校卒業の初任給が8千円程度と聞いていますから、家賃としては結構、高かったのかも知れません。それでも、貸家は、全部人が入っていました。東京オリンピックの64年を境に、経済が成長し、インフレが進み、給料もうなぎ上りで上がりました。64年頃8千円だった給料も74年頃には、4万円程度と聞いていますから、10年間でほぼ給料も5倍になったということになります。その貸家を建てたことにより、我が家の生活はかなり楽になりました。そして、私が兄弟の中で一人だけ大学に進学できたのも、その貸家があったからできたのだと思います。父の決断によって、私の大学進学への道が開かれたのでした。
 さて、私の父ですが、私が結婚をしてから3年後の81年に脳梗塞のために入院をすることになりました。67歳でした。家から近くの病院でしたが7年間の闘病生活となりました。その7年間、母が友達と農閑期に温泉に泊りがけに行く時には、妻の所に電話がかかってきました。それは、父がお風呂に入る介護でした。また晩年は、交代で夜、付き添いをしましたが、妻のところに電話が多くかかってきました。妻には頼みやすかったのかも知れません。実家の兄嫁も洗濯や買い物等協力してくれましたが、事情は、我が家と同じように、幼い子どもが二人いたこともあるかと思います。妻は、息子を背負って父の病院に行ったこともあり、思えば良く助けてもらったと思います。妻は、そんな時に、父に、聖書の話をし始めました。酒を飲んで仏壇の前では独り言を言っていた父でしたが、昔から宗教の嫌いな父でした。妻の話には、素直に耳を傾けてくれました。そして、妻が帰るときには一緒に祈って欲しいと言われるようになり、私も見舞いに行った時にも、お祈りをして欲しいと言っていました。死への不安があったのかも知れません。病気になるまでの父とは全く別人のように思えるほどの変容でした。妻の薦めに従って、父は、「私はイエス様を信じます。神様を信じます。」と、自らの言葉で告白をしました。酒好きの父親、時には母親や子どもたちに怒鳴り声を上げていた父。その父が7年間の病を通して気弱になり、神様を信じるというようになりました。葬式は、仏教で行いましたが、私の心には平安が与えられました。
 私も、還暦を過ぎました。人生のこれからもだいたい検討が付きます。何時、天国に招待されるか分かりませんが、生かされているものとして、今を大切に、精一杯生きて、走るべき道を走り終えたいと願うようになりました。そういえば、6月17日が、5年前に亡くなった母の命日でした。



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