第28回 海の思い出




 いよいよ夏本番となりました。盲学校では期末テスト、七夕の時期となりました。山、海、プールが開いて、沢山の人たちが夏の思い出を作ることかと思います。「夏が来ると思い出す。遥かな尾瀬、遠い空…」と歌を口ずさみたくなります。そこで、今回は海の思い出について書くことにいたします。
 私が生まれて初めて海に行ったのは、確か小学2年生の頃と思います。小学校の遠足で、千葉県稲毛町(いなげまち)に、潮干狩りとして、出かけました。朝6時半頃の観光バスに乗っての早い出発でした。今では、自宅からの通学の子どもたちも多いので、そのような計画は無謀になりますが、当時は、ごく僅かな人を除いて、江曽島学園と寄宿舎に宿泊していたので、朝早く出発したのかも知れません。高速道路もありませんでした。4時間程度バスに乗って、私たちは稲毛町に着きました。熊手と貝を入れる網を受け取って、私たちは、海に入りました。担任の先生に教えていただき、熊手で砂浜を掘るのですが、なかなか生きた貝に会わないのです。やっと見つけたと思うと、それは、口を堅く閉じた貝ですから、食べることはできません。私は、1個か2個の貝を拾ったかと思いますが、担任の先生に拾っていただいて、網の袋の中に沢山入れていただきました。午前中だけ潮干狩りをして、お昼を食べて、帰りも4時間程度バスに揺られて帰って来た記憶が微かによみがえってきます。潮干狩りは、そのたった1回だったと思います。
 次に海へ行った思い出は、小学6年生の時に、江ノ島、鎌倉への修学旅行でした。鎌倉時代の歴史を学びながら、城ヶ島(じょうがしま)、七里ヶ浜(しちりがはま)、油壺(あぶらつぼ)等の海を満喫することができました。二日目の早朝、増田君、吉沢君、そして私の3人は、江ノ島の海岸で、小さな船を見つけて乗り込みました。砂浜に引き上げてある小船でしたが、私たちは、その船に座って、シーソーのように漕ぎながら楽しく歌を歌った思い出が懐かしく思い出されます。隣では波が静かに浜辺に押し寄せてきていました。
 そして、大学に入って市民会の活動として、稲毛町の船に泊り込んでのクッキングキャンプをしました。また、竹芝桟橋から大島までの船で一泊しての旅行に行ったのも楽しい思い出でした。3月なのに、大島は初夏のような暑さでした。帰りの船に乗った時でしたが、海は大荒れでした。船に乗船、激しく揺れました。私たちは、最も安い2等船でしたので、座っていられない状態なので、横になっていました。船酔いをしなかったのが幸いでした。油断をすると、あっちへごろり、こっちへごろりという状態になっていました。5メートルを越える高波と船内では放送していました。市民会では、福島県にある勿来海岸にも行きました。この時は、真夏でしたが、太平洋の荒波と、冷たい海の経験をしました。膝のあたりにいるのに、突然、胸の方まで波が押し寄せて、ビックリしたこともありました。
 そして、次に海へ行ったのは、結婚をしてから、子どもたちが、幼稚園から小学生頃までの時期でした。5年間程度は行ったと思います。茨城県の大洗や阿字ヶ浦にある旅館を前もって予約をしました。ある年のことでしたが、天気は良いのですが、波が荒くて、子どもはくるぶし、大人は膝までと言われる年にあたってしまいました。台風は、遥か南にいるのですが、高波が押し寄せていました。その3日間とも、漁業組合のおじさんが午前9時から夕方の5時まで、マイクを握って大きな声でどなり続けていました。「台風のために、波が高いのです。子どもはくるぶしまで、大人は膝までにしてくださいよ。」その繰り返しでした。その警告を無視して奥へ行く若者がいると、おじさん、声を荒げて、「そこの若者、言うことを聞きなさい。何人も命を亡くしているのですよ。命を大切にしなさい。」と、演説をする時もありました。この3日間は、泳ぐことの好きな息子にとっては、大変不満な時でした。「来なければ良かった。」と何度も文句を言われ、私たちは何とか楽しませてやろうと考えて、夜は海岸で花火をしたり、おもちゃを買い与えたり、かき氷を食べたり大洗の水族館に行ったりして、何とか過ごしました。娘は砂浜でトンネルを掘って楽しんでいました。
 そしてあれは、1986年の夏のことだと思います。息子が7歳、娘が4歳でした。その朝、空は快晴でした。台風は、前夜、茨城の海をそれていきましたので、私たちは安心して、6時に起きて家を出て、宇都宮駅に行きました。そこから小山駅に出て、常磐線に乗って、水戸に行って、阿字ヶ浦へ行こうと計画を立てていたのです。ところが、小山駅に行って驚いてしまいました。駅のアナウンスによると、昨夜の台風の影響で、常磐線は、下館駅までしか行かないというのです。いまさら、宇都宮駅まで戻ることはできません。なんせ、二人の子どもが海へ行くのを楽しみにして、その日を待っていたのですから…。とにかく、下館までは行こうと言うことにしました。電車は下館までは順調に走っていました。さて、問題はそれからでした。私たちは、小貝川が台風のために大反乱をしていたということを知らなかったのです。下館からタクシーで阿字ヶ浦まで行こうと思って、タクシーの運転手に聞きました。すると、タクシードライバーは次のように言いました。「お客さん、水戸までは、車も行けないよ。小貝川が大反乱で車が走れないんだよ。」との残念な話。空は真夏の暑さ、かんかん照りでした。もう、こうなると打つ手はありません。下館駅から東野バスに乗り、宇都宮駅まで2時間近くバスに乗って帰りました。その間、息子は、何で行けないの、何で行けないの?と連発していました。あんなに楽しみだったのに…。そのガッカリする気持ちは良く分かりますが、いやはやどうにも仕方がない夏となりました。家を出る前に、ラジオを聞けば良かったのですが、抜けるような夏の天気で、これは大丈夫と決めたのが大きな誤りでした。バスの中で、ラジオを聞いたら大変なニュースになっていたことを知りました。下館駅付近も、私の先輩の家では、床上浸水だったというのです。後日、妻の母からは、なんでニュースも聞かずに出かけたのか?と、叱責されましたが、全くその通りでした。確か5年間、海に行って、本当に海が穏やかで楽しめたのは、3回だったのでした。
 海の体験で、もう一つ楽しかった思い出があります。89年の夏のことでした。妻の友人夫妻が、和歌山県すさみ町で牧師をしていました。その頃、我が家には3歳になる女の子を里子として受け入れており、5人家族となっていました。子どもたちは、飛行機に乗ったことがないというので、羽田空港から白浜空港まで飛行機で行きました。プロペラ機の小さな飛行機で騒音でしたので、子どもたちのジェット機の期待は、ハズレてしまいました。白浜に着いた私たちは、そこで、海底水族館を見学し、タクシーで白浜から、すさみ町まで、リアス式の海岸にそって、1時間ほど走り続けて、すさみ町に到着しました。真夏でしたが、海から吹いてくる風が心地よかったことを覚えています。教会のゲストハウスに私たち家族は宿泊して快適な3日間でした。魚の美味しかったこと!そんな二日目の朝、3歳の女の子が「キャー」と、いきなり悲鳴を上げました。何事かと寝ていた私たちもビックリ。「お母さん、カニ、カニが玄関にいるよ」というのです。良くみると、いつの間にか、海が近いので、カニさんが挨拶に来てくれたのでした。紀伊半島は、1年中雨の降る日が多く、台風も上陸するのが多いのです。そこに住む人たちの苦労を推察することができました。その時はとても穏やかな海を楽しんで来ることができました。友人がいなければ行くことのできない貴重な経験でした。
 私は、夕日が沈む頃の海が好きです。海に対して、どうしてそんなに憧れをもっているかというと、海の中に入らなくても、その海の音を楽しむだけで幸せになれるのです。海岸に打ち寄せる波の音は、毎回流れ方、流れる音が全て違っています。波は、正面から近づいて来る時もあれば、右から、ときには左から打ち寄せて来ます。波の大きさも異なります。いつまでも波の音を聞いていても幸せを感じるのです。今、自分が生かされている、生きているという実感を感じると共に、海の生命は地球が誕生した時から続いているけど、私の命は実に儚く短いものということを教えられました。正に、海の音はライブコンサートに思えるのです。海の音を聞いていると、「しっかり生きなさい」との海のメッセージを聞くように感じるのです。これは私だけの幻想かも知れませんが、海岸に座ると、心が文字通り洗われるような気持ちになることができました。
 子どもたちが成長し、海にはなかなか行かなくなりました。そんな時、私は,有線放送で海の音を24時間流しているチャンネルを聞いて楽しみました。スピーカーの中央に座ると、ステレオ放送ですから、正に、あの頃の時代に帰ることが出来るのです。自然の音、川の流れ、鳥たちのさえずりなどは、心の中にあるストレスを綺麗にしてくれます。海に関する本では、小豆島をテーマにした、壷井栄著「二十四の瞳」は、小さな小学校で働いた大石先生と12人の子どもたちが、戦前から戦後の荒波に生きた感動的な物語です。三島由紀夫著「潮騒」が忘れられません。潮騒は、海に生きる男二人と、一人の女性の恋愛をテーマに、海への憧れをかもし出しています。前にも書きましたが、理科の時間に読んでいて発見されて立たされたという、忘れられない本でした。おすすめの歌、トワ・エ・モア「誰もいない海」、長渕剛「ひとつ」(東日本大震災への鎮魂歌)です。



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