第30回 不思議な出会いと体験
7月14日の天声人語の一部に「今日用と今日行く」(今日はどんな用事があるかと、今日はどこへ行くかの漢字が書いてあります)という言葉がありました。特に、男性が退職した後、今日、その日に何をしようかと、今日行く所はどこかがなくて、家の中にこもっていると、人間の脳と心は退化してしまうというのです。本来の教養と教育はもちろん不可欠ですが、この「今日用と今日行く」が基軸になるのは、退職後、考えなければならない大切なことと痛感しています。退職をして2年目に入った私ですが、昨年は、エッセイを書くことにエネルギーを注ぎました。今年になってからは、さらに、英語の好きな人たちとの集まりが、月2回あったり、福祉センターでの対面朗読を楽しんだり、点訳グループの皆さんとの交流会など、行動範囲も広がってきました。その結果、多くの人たちとの出会いによって、新しい学びと刺激を受けております。しかし、何と言っても、毎週日曜日には教会へ行くことが喜びであり、1週間のけじめでもあることは感謝なことです。特に、教会学校と言って、幼稚園から高校生までの子どもたちに、聖書の話をするために、幼稚園の子どもたちにどのように聖書の話を伝えるかが、私にはいつも課題となっています。そのような日々の生活を過ごしております。
さて、今回はこれまでに書かなかったことで、不思議な出会いと体験について書くことにしました。
1 自衛隊の車に乗った体験
およそ30年前から、学校では夕方の5時に、機械警備による管理制度が導入されました。そのために、各学校では、原則として「5時までに、校内を巡回し、教職員二人が一組になって 校内を巡回し、窓が閉められているか、教室の電気が消えているか、電源が抜かれているか等をチェックし、自動警備の設定をします。多くの場合は、遅くまで残って仕事をする教員がいるので、その人が、最終的に設定をしていました。私は、これを「キーパーソン」と、勝手に命名していました。視覚障がい者にとっては、チェックが難しいところがありますので、晴眼者と二人一組になって鍵当番をしています。4時半頃から広い校内を歩くのですから大変です。真夏など、窓が開けっ放しのことが多いので、鍵をかけたり、教室に教師がいる場合は、よろしくねと、一声かけて、私たちは、その頃、まだ走っていた関東バスまで急ぎ足で行きました。真夏は汗だくでの校内巡回でした。今は、バスは廃線になってしまっていますが、盲学校からバス停までは、700メートルありますので、私の足では、12分程度かかりました。
ある暑い夏の日、校内巡回を終えて、時計をみたら5時でした。バスの時刻は5時13分です。「やばいぞ、これは!」盲学校からバス停までは、下り坂が多く、カーブも多いのです。視覚障がい者の教師の中には、川に落ちたり田んぼに落ちた教師もいたと聞いていました。私は、とにかくバスに乗り遅れないように必死になって歩きました。「関東バスよ、待ってくれ。それとも遅れてくれ!」と、心の中で叫びながら、私は懸命に歩きました。当時は、私の足は病気には侵されていませんでした。バス停に着きました。時計は、5時13分でした。関東バスはまだ来てないかな?、私は期待をもって5分待ちましたが、バスは来ませんでした。完全に乗り遅れでした。さあ困りました。携帯電話を持っていましたから、陽西タクシーに電話をして、来てもらうしか方法がないなあ?と、しばしため息…。その時でした。目の前に1台の車が止まりました。「あのどちらへ行くのですか。」と、低い男性の声。「はい、駒生町まで行くのですが…」と答えました。「それでは、私もこれから、丁度そちらに行きますから、良かったらご一緒しましょう。」との、なんと温かいお言葉!私は心からのお礼を述べて車に乗せていただきました。すると、その男性は次のようなことを話してくれました。「私は自衛隊の職員なのです。今は自衛隊に入る人がなかなか少ないので、自衛隊に就職してもらうように隊員を募集するために学校を回っているのです。今はその帰りでした。」との話でした。全く不思議な出会いでした。自衛隊の車に乗せていただき、無事、家に帰ることができました。たった一度の出会いでしたが、その親切は今でも忘れられません。
2 東野バス運転手との出会い
私が実家の今泉新町から盲学校へ通勤していた頃ですから、77年頃のことと思います。私は、盲学校からの帰りは、東武西口から東野バスに乗って帰宅していました。ある日のこと、毎日の決まったバスに乗っていたのですが、一人の運転手さん、「あの、盲学校で何を教えていますか?」との、思いがけない声がかかって来ました。「私は英語を教えています。」すると、その運転手、「実は私も英語が好きなのですよ。阿久津さんの家から私の家まで近いので、良かったら、私の家に来て、英語を少し教えてもらえませんか?」とのお誘いがありました。その人は、杉田さんという人で、とても気さくな人でした。それから1週間後、杉田さんは、我が家に車で迎えに来てくださいました。杉田さんの家は、我が家から車で10分足らずの所にありました。早速、私を杉田さんの家族に紹介してもらいました。奥さんと中学生と小学生の子どもさんが二人いました。夕食をご馳走になり、それから英語の話になりました。杉田さんは、ラジオの英語会話で勉強をしているとのこと、自分がどれだけ通じるか試して欲しいという願いでした。それから30分、杉田さんと私は、日常会話を英語でやりとりしました。それがきっかけで、もう一度お宅に招待されたと思いますが、自宅から通勤した3年間、杉田さんのバスに乗る時は、運転の邪魔にならない程度、おしゃべりを楽しみました。79年から、宝木町に住むようになり、東野バスにはご無沙汰となりましたが、これまた、とても楽しい出会いと思い出となりました。
3 川島昭恵さんとの出会い
1980年、栃木県立盲学校の担当で、関東地区盲学校放送作品コンクールがありました。このことは、我が人生旅日記でも、以前書きましたが、川島昭恵さんという人がいました。当時、確か高校2年生だったと記憶しております。筑波大学附属盲学校放送研究部として応募してくださいました。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」でした。すばらしい朗読でした。ただ残念なことに、規定の30分を超えての50分の力作でしたが、対象外となってしまいました。審査委員のみなさん、「残念だな?」との声が多く聞かれました。その時の主催の担当が、29歳になったばかりの私でした。それから月日が流れて20年、川島さんのことを頻繁にマスコミなどで聞くようになりました。彼女は、早稲田大学第2部を優秀な成績で卒業し、数多くの就職活動の努力がみのり、一般の会社に就職をしました。しかし、川島さんは、さらに、可能性に挑戦し、映画に出演し、ついには、プロの語り部になったのでした。
今から10年前、私たちのグループ、栃木愛信会に講演と語りに来ていただくことができました。彼女の話によると、6歳の時に、髄膜炎にかかり、一夜にして、全く視力を失ってしまうという、大変な試練にあったことを聞きました。しかし、生来の明るさとあきらめないポジティブな人生観、価値観で、プロの声優を師事して、川島さんもついにプロの語り部になった話を聞かせていただきました。そのことから、5年前には、宇都宮視覚障害者福祉教会の文化講演会に来ていただいて、三つの作品を語っていただきました。それを聞いた私たちは、大きな感動を受けました。語り部とは、朗読とは異なるようです。物語を語ることによって、風景が目に浮かび、物語の中に聴衆がイメージの世界に入ることが語り部の「つぼどころ」と、聞きました。そのためには間の取り方、声の出し方を変えて、声優のように、豊かな表現を使って聴衆の心を捉えます。今から思えば、彼女が17歳の時から、私との不思議な出会いがあったのでした。その出会いは、今回、私が退職後、宇都宮市の社会福祉協議会での点訳ボランティアの仲間に入れていただき、これからどんな本を点訳して盲学校に寄贈しようかと思っている時に、川島さんの語り部の演目に選ぶ作品の多くが、栃木県立盲学校にはまだ点訳されていないことが分かりました。私たちの点訳グループは、川島さんが、心を込めて、精選したすばらしい本を点訳して、盲学校の生徒たちに、感動と喜びを味わって欲しいと願っております。
いよいよ夏休みです。生徒のみなさんには、読書を通して、私の目標の「今日用、今日行く」とは異なる「教養」を身につけて欲しいと願っています。読書は心のオアシス、心の栄養です。チャンスがありましたら、川島さんのライブの語り部を聞いていただきたいと思います。インターネットにも、川島さんのホームページがありますので、皆様の所属するグループで、お招きしていただけると嬉しいです。
さて、私のエッセイも30回を迎えることができました。ここでしばらくお休みをいただいて、次回は、8月3日に31回を書きたいと思います。8月は平和を考えるエッセイにしたいと思っております。猛暑が当分続くことかと思います。安心安全をモットーに、健康に注意して夏を乗り切って生きましょう。
「参議院 ネット選挙で ドットコム」(時事川柳より)
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