躍動する両毛の盲学校
 ー明治・大正・昭和の盲学校の創建と廃校ー
元群馬県立盲学校教諭
     元・第二次経穴委員会作業部員 
               香取俊光

はじめに
 今回、ひょんな縁から栃木県立盲学校の理療か教員の市田先生から、栃木網の同窓会用の原稿を頼まれました。
 さてさて、何についてまとめればご厚情に叶うのでしょうか。
 2014年に投稿して以来、月日が流れて、2021年の3月には、群馬盲を退職し、最初の投稿から多少の資料も発見し、改定し増補することとした。
 盲学校の教壇を離れ、平成・令和の視覚障害教育の困難さを顧みています。
生徒の人数は少なくなる一方ですし、学科の学習も実技の習得も困難、障害の重度化や重複化、職域の確保など、生徒の状況と支援に苦慮することばかりです。 また、我が身が視覚障害を身にすると、器具や環境といったものは整備されつつありますが、その人々の心情の冷たさに触れ、社会との共存や理解、自立についても厳しい現実に唇をかみしめることもあります。
 世界の視覚障害者の自立を考えると、日本の視覚障害者の自立は世界1と想うのは手前みそでしょうか。
 何でも欧米が進んでいるのでしょうか?これでも日本の視覚障害者は「鍼灸按摩」を持ち、それなりに幸せとも思います。全国の盲学校の草創期に多くの視覚障害者が奮闘していました。
 私の父親も全盲で、私を大学院まで学ばせてくれました。
 その父親は戦中に足利盲に通っていたことを思い出しました。
 また、私が奉職した群馬の盲学校と共に明治・大正期に創立し先人の視覚障害者が奮闘した、両毛の盲学校4校 ー高崎・前橋・桐生・足利ーの盲学校について関係事項を集めて表題のような文章をまとめました。
 ※両毛とは、群馬県と栃木県の両県をあわせた地域の略称です。

 私の研究の興味関心は江戸時代の盲人達の悪戦苦闘にあります。
 江戸時代の盲人達は(当道座)によって、取りあえずは身分を守ることができていました。
 この江戸時代に特権を許された当道座は、1871年(明治4年)11月3日、太政官の布告により廃止され、多くの盲人が貧窮していました。そんな中、翌年の1872年(明治5年)8月に学制が発布され、続いて1874年(明治7年)年8月18日に医制が発布されました。
 この大きな歴史の潮流に巻き込まれた盲人達は生活に困窮する者もおおかったようです。
 それを見た外国人や地方の篤志家・宗教家などが盲学校の創立に尽力していきました。
 全部が晴眼の篤志家だけでなく、同じ盲人達の奮闘で創立された学校もあります。
 両毛の盲学校4校共に視覚障害者が自らの障害も顧みずに、医師・僧侶・キリスト教徒などの支援を借りて、自らも困窮でありながら学校を運営していました。
 明治から昭和の時代の中で、学校経営の経済的な困難、関東大震災、第2次世界大戦の災いを切り抜けました。
 しかし、それでも学制の変更、生徒数の激減で最後には両毛線には前橋の群馬県立盲学校だけしか残りませんでした。
 更には、2007(平成19)年4月1日より特別支援教育の施行が始まり、多くの盲学校が校名に「特別支援」などの文字が使われる用になってきました。本県も何回か諮問があり、「盲」から「視覚特別支援学校」の名称変更や専攻科の研究や多種の障害の併置の課題が問題となっっています。

 今までは近代の視覚障害者について筆を執ったことはあまりありませんでしたが、どうしても近代の盲学校や視覚障害者についても問い合わせが舞い込んできます。
 本稿を進めるに当たり、両毛線の始まりの高崎盲→前橋盲→桐生盲→足利盲の順でいきます。
 読まれた皆様に視覚障害者の苦難や理解が伝われば幸いです。


  【年表】 学制・医制・あはき法と群馬栃木県の盲学校の推移
 (その他の障害社会事業も付け足した)
1971(明治4)年11月3日 太政官布告より当道座が廃し
1872(明治5)年 学制発布
1874(明治7)年8月18日 医制発布
1878(明治11)年 京都盲唖院設立 日本の盲・聾教育の始まり。
1885(明治18)年3月23日 「入歯抜口中療治接骨営業者取締方」(内達甲7)通達
同月25日 「鍼術灸術営業差許方」(内達甲10)通達
 各府県ではり・きゅうの免許鑑札、営業許可、取り締まりを行うことになった。あん摩業は規定がないので鍼灸に準拠した。
1890年(明治23)年 私立上毛訓盲院創立。2年から3年で廃校
1901(明治34)年11月1日 石川倉次翻案の「日本訓盲点字」が官報に掲載
1903(明治36)年 教員練習科創設
1905(明治38)年9月18日 上毛【こうづけ】教育会附属訓盲所(前橋市曲輪町)創設。
 群馬県立盲学校の原点。
1906(明治39)年2月15日 私立下野盲唖学校創立(宇都宮市泉町32)
1906(明治39)年2月19日 私立野州盲学校創立(宇都宮市宮島町。能延寺内)
1906(明治39)年11月11日 乃木希典が上毛教育会附属訓盲所を慰問。
1906(明治39)年 東京・滝乃川学園設立 日本の知的障害教育の始まり。豊島区に創立
1908(明治41)年 群馬県師範学校附属訓盲所が設立される。
1909(明治42)年2月10日 私立下野盲唖学校と私立野州盲学校合併 → 私立宇都宮盲唖学校設立(中央商工会館内)
1910(明治43)年 千葉県・勝山に東京市養育院安房分院開設 日本初の身体虚弱・病弱児のための恒常的教育施設。
1911(明治44)年4月1日 私立宇都宮盲唖学校移転(宇都宮市旭町2丁目3515) 
1911(明治44)年8月14日 「按摩術営業取締規則」(内令10)、「鍼術灸術営業取締規則」(内令11)により、あはきの全国的、統一的な縫製が整備された。
1914(大正3)年9月 私立前橋訓盲所が設立される(医師後藤源九郎創設、平屋の旧前橋病院を教室・寄宿舎として利用)。
1915(大正4)年 私立前橋訓盲所が私立前橋盲学校に改名される。
1916(大正5)年11月13日 足利鍼灸按講習所創立(足利市本城3丁目、沢田正好自宅)
1917(大正6)年8月30日 足利鍼灸按講習所が学校と県知事より認可され、私立足利盲学校と改称
 ふつう科5年、鍼灸マッサージ科4年、按摩術科2年
1918(大正7)年 私立前橋盲学校に寄宿舎増設(旧上の図書館)
1921(大正10)年 東京・柏学園設立 日本の肢体不自由教育の始まり。
1921(大正10)年 私立桐生訓盲所創立。
1921(大正10)年 私立足利盲学校の新校舎落成。
1922(大正11)年4月10日 私立高崎聾唖学校設立
 北小学校子守学校教室を借用。
 校長・並榎町常仙寺住職保坂元哉、石川進・浅井(深美)福道の2人の教員。生徒6人。
1922(大正11)年4月18日 私立高崎鍼按学校設立。
1923(大正12)年8月28日 盲学校および聾唖学校令(勅令第375号)
盲と聾の分離が規定。府県の学校設置の義務
1923(大正12)年9月1日 関東大震災で盲学校消失
 築地盲人技術学校〃愛盲など消失。
1923(大正12)年11月 28日 私立桐生盲学校認可される。
(桐生市本町・浄運寺内)
1924(大正13)年4月1日 宇都宮盲唖学校と足利盲学校が栃木県立代用盲学校に指定される  
 初等部6年、中等部4年、別科2年
1924(大正13) 私立高崎盲学校(高崎市羅漢町法輪寺内)と私立高崎聾唖学校(高崎市並榎町490番地)が設立される。
 校長は小林春造、設立者は法輪寺住職三浦興泰
1926(大正15)年6月9日 私立足利盲学校、栃木県知事より按摩術営業取締規則および鍼術・灸術営業取締規則第1条の学校に指定。
1927(昭和2)年3月 私立前橋盲学校・私立桐生盲学校・私立高崎聾唖学校を統合し、県立盲唖学校が設立される。これは現在の盲学校の場所(前橋市南町)に当たる。
 私立前橋盲学校の生徒・職員はここに移籍する
1927(昭和2)年11月 私立宇都宮盲唖学校校舎新築移転(宇都宮市朝日町2丁目3444)
1929(昭和4)年5月  関東北部盲学制陸上競技大会
 在 東京5盲学校主催の第1回関東北部盲学制陸上競技大会は、19日学習院競技場で開催。
東盲・築地・ 〃愛・仏眼・杉山・中郡・横浜訓盲・横浜盲人・新潟・石川・岩手・磐城・庄内・茨城・宇都宮・足利・埼玉の17校が参加。
1931(昭和6)年3月31日 足利盲学校移転(足利市相生町)
1933(昭和8)年8月 沢田氏盲人用ピンポン考案
 足利盲の沢田正好校長は、盲人用ピンポンを考案。先頃、点盲臨時総会で試験したところ、なかなかの好評。ピンポンというよりも玉ころがしといった感じで、盲人室内競技にはうってつけ。
1934(昭和9)群馬県立盲唖学校内に治療部を設置
1935(昭和10)年4月1日 私立宇都宮盲唖学校と私立足利盲学校 →県に偉観 → 栃木県立宇都宮盲唖学校・栃木県立足利盲学校
1939(昭和14)年4月1日 栃木県立宇都宮盲唖学校から盲部を栃木県立足利盲学校に合併 → 栃木県立盲学校となる(足利市相生町385) 
 初代校長に沢田正好・まさよし
 初等部6年、中等部4年、別科2年、音楽科4ねん、研究科1~3年
1940(昭和15)年 大阪市立思斉小学校設立 日本最初、戦前唯一の知的障害児を収容する学校。
1941(昭和16)年 国民学校令施行規則 「身体虚弱、精神薄弱其ノ他心身ニ異常アル児童ニシテ特別養護ノ必要アリト認ムルモノノ為ニ学級又ハ学校ヲ編制スルコトヲ得」 →“養護学校”の名称広まる。戦局の進行に従い、特殊教育にかかる学校・学級は次第に閉鎖される。
1945(昭和19)年1月 足盲 技療手志願者の繰り上げ
栃木県足利盲は、航空決戦苛烈の織柄、技療手の任務の重きを痛感。
今春卒業の鍼按科生の内技療手志願者には繰り上げ卒業をさせ、前線に送ることを決定。
1945(昭和20)年 戦災を受けた盲学校は、八王子、青森、平、杉山、仏眼、横訓、浜松、豊橋、愛知、名古屋、岐阜、富山、和歌山、大阪市、神戸、広島、下関、徳島、香川、大分、差が同愛など40校以上。
 空襲により全焼となった杉山鍼按・仏眼協会などの盲学校が廃校となるものも多かった。
1947(昭和22)年3月31日 教育基本法・学校教育法の公布
1948(昭和23)年4月1日 新制教育制度 義務教育制度の開始。小学部・中学部新設(初等部・中等部廃止)
 同 「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」(法律第217号)による学校、養成施設認定規則(文、厚生令)」により全国の盲学校に中等部鍼按科4年が廃止され、6、3制の上に、高等部5年制理療科(本科3年、専攻科2年)が実施
 小学部6年、中学部3年、高等部本科3年・高等部専攻科2年、高等部別科2年
1948(昭和23)年4月1日 群馬県立盲唖学校を、県立盲学校・群馬県立聾学校に分ける。
 ただし、両校とも同じ敷地に設立された。また、このころは高崎盲学校からの転校が続く。
 校長も兼任。校長の分離は1953年から、校舎の分離は1955年。
1949(昭和24)年 栃木県立盲学校、足利市相生町から河内郡横川村江曽島(えそじま)670(現・宇都宮市)に移転
 足利市盲学校の跡地は東側の校舎部分が「相生幼稚園」となり、東側の寄宿舎部分は盲人ホームとなる。
 現在は幼稚園(木像)は廃止され、盲人ホームは平成19年より「足利市視覚障害者福祉ホーム」となって存続する(足利市相生町385 )。
 校訂部分は駐車場として利用。
1951(昭和26)年3月31日 栃木県立盲学校高等部に理療課を新設。按摩師・鍼師・灸師の養成学校として文部省より認定。
1952(昭和27)年 群馬県立聾学校の校舎の一部が、現在の前橋市民文化会館の場所(前橋市南町)へ移転する。
1954(昭和29)年9月 群馬県立聾学校の校舎が、盲学校から完全に分離する。寄宿舎はまだ、両校で共同使用。
1957(昭和32)年 高崎盲学校廃校。
1958(昭和33)年 栃木県立盲学校宇都宮市駒生町648に移転
1961(昭和36)年2月 群馬県立聾学校の寄宿舎が新築され、移転する。これにより、盲学校と聾学校の校舎・寄宿舎が完全に分離・独立し、現在に至る。
1973(昭和48)年 栃木県立盲学校宇都宮市福岡町1297(現在地)に移転。
高等部に保健理療課を新設。
1975(昭和49)年 栃木県立盲格好創立65周年・校舎落成記念式典挙行
1976(昭和51)年4月01日 群馬県立盲学校に高等部に専攻科理療科(3年制)が認可。
1976(昭和51)年群馬県立聾学校、現在の前橋市天川原町に移転。
1990(平成2)年 群馬県特殊教育義務制施行 盲・聾学校40周年、養護学校10周年
1995(平成7)年9月18日 群馬県立盲学校創立90周年
2009(平成11)年2月10日 栃木県立盲学校創立90周年
2004(平成16)年4月1日 特別支援教育実施
2005(平成17)9月18日 群馬県立盲学校創立100周年
2009(平成21)年2月10日 栃木県立盲学校創立100周年
2015(平成27)9月18日 群馬県立盲学校創立110年


  1.高崎盲学校
 私立高崎盲学校は、1924(大正13)年から1957(昭和32)年の廃校まで33年間の開校でした。
 高崎市羅漢町の法輪寺内(高崎市羅漢町7-3)に設立されました。廃校語は、法輪寺保育園となっています。高崎駅から徒歩で10分ほどの場所にあります。
 法輪寺は、天台宗で、羅漢山正覚院法輪寺といい、本尊・五百羅漢です。
 私立高崎聾学校もほぼ同時期に設立され、高崎市並榎町490番地にありました。

 「たかさき100年」(『広報たかさき』第32回 平成10年3月1日号掲載)の「私立盲学校と聾唖学校」に以下の文章があります。
 「目や耳が不自由な人に対する教育は、指導方法が確立されていなかったことや、一般社会の理解も低かったことなどが原因でその普及が遅れていました。視力に障害がある人に対する教育は、江戸時代から針・きゅう技術の指導があり、明治以降の高崎でも行われていました。
また、医師法により針・きゅうについても資格が必要となったため、大正5年(1916)ころから高崎市の眼科医小林春造や外科医秋田聰太郎などが、鍼灸師やその弟子のための基礎医学講義を熱心に行っていました。
この実績をもとに、大正11年(1922)4月18日、鍼按組合員の寄付金により羅漢町の法輪寺に高崎鍼按学校が設立され、同13年に文部省の認可を得て「私立高崎盲学校」となりました。校長は小林春造、設立者は法輪寺住職三浦興泰で、同校は昭和2年(1927)県立移管問題が起きたときも独自の道を歩み、戦後の教育改革の後、その役目を終えて昭和32年(1957)廃校になりました。
一方、並榎町常仙寺の住職保坂元哉は、赤坂町長松寺の住職で子守学校の経営者でもあった山端息耕に勧められ、県知事の認可を得て大正11年4月10日「私立高崎聾唖学校」を設立、北小学校にあった子守学校の教室を借用して、同年5月10日開校しました。保坂は学校創立に先立ち、東京聾唖学校師範科普通科に入学し、聾唖教育の実際を学ぶほどの打ち込みようでした。この情熱のもとになったのは、法律家を志しながら父の死により東京帝国大学法科を中退せざるを得なかった自らの運命と、難聴の夫人の苦しみを共に悩んだ体験であったといわれています。
高崎聾唖学校は、保坂校長と石川進・浅井(深美)福道の2人の教員が中心となり、わずか6人の生徒で出発しました。県内初の聾唖学校であったため、指導の苦心や経営の苦労も並大抵ではありませんでした。
なお、大正8年の県議会で、「普通教育が拡充された中に我等が同胞の障害者の教育機関がないのは本県教育の欠陥である」という趣旨の県議案が満場一致で可決されましたが、その実現は高崎聾唖学校と私立桐生盲学校が合併して県立盲唖学校が誕生する昭和2年(1927)まで待たねばなりませんでした。障害者のための教育には、しばらくの間ここに登場したような篤志家の力を借りなければならなかったのです。」

 私の先輩達が編纂した群馬県盲教育史70周年祈念事業実行委員会篇『群馬県盲教育史』(群馬県立盲学校、1976年)の巻頭写真)に「私立高崎鍼按学校建築ず面(大正13年」があります。
 後述する市立桐生盲学校のように間口等が記載されていないのは残念です。
 見取り図には、後者と附属建物、野外体操場があります。
 「同建築図面(同年)」には2階建ての図面で、
 階下には、教室3部屋、廊下、教員室、実地室、押し入れ、2カ所、昇降口、湯飲み所、小使い室、便所、玄関、非常口
 2階には、教室3部屋、廊下、実地室、機械室とあります。

 また、 「たかさき100年」(『広報たかさき』第20回 平成9年9月1日号掲載 関東大震災と高崎」には、
 「大正12年(1923)9月1日の昼ごろ、高崎は大きな地震に襲われました。電柱はグラグラと動き、棚の上にあったものが音を立てて落ち、何かにつかまらなければ立っていられないほどでした。激しい揺れはおよそ10分間続きました。午前11時58分、相模湾を震源地とするマグニチュード7.9の大地震が起こったのでした。
高崎板紙株式会社(現高崎製紙)の大煙突2本が途中から折れ、上州絹糸紡績会社など多くの工場の煙突も折れてしまいました。土蔵の壁が崩れ落ちたのも多かったのですが、つぶれた家はありませんでした。夜までに大小の余震が30回以上も続き、南東方面の空は真っ赤に染まりました。いろいろな流言飛語も流れました。人々は道路や広場に避難し、ほとんど寝ないで夜を明かすありさまでした。やがて、東京で大災害が起こったことが伝えられたのでした。
9月2日の午後、所沢の飛行場を飛び立った飛行機が高崎の連隊の上空を旋回して通信筒を落とし、連隊を通じて救援を要請しました。高崎市でも救援活動を始めました。救援物資を集め、3班の救護班を結成して東京に派遣することにしたのです。荒川の鉄橋は不通になっていましたが、この日の午後遅くなると、埼玉県の川口駅から通じていた高崎線に乗って、着のみ着のままの避難者が高崎駅にたどり着くようになりました。煤と泥で汚れた人たちで列車はすべて満員でした。
駅頭では、市内のいろいろな団体が救護所を設けて、次から次へとたどり着く避難者に対し、傷の手当てをしたり、食べ物や着る物を配ったり、必死の救護活動を行いました。こうした活動には、中学校や女学校の生徒たちも加わっていました。また、体一つで逃げてきた人たちには、宗教界が手を差し伸べ、高盛座(劇場)や延養寺などに無料で宿泊させました。まさに総掛かりの救護活動が行われました。
高崎市から震災の現地東京へ派遣された救護団は、9月3日の早朝高崎駅を出発、川口駅から歩いて東京へ入りました。救護団は被害の激しかった日比谷・本郷・芝浦・築地など主に下町方面で救護活動に当たり、多くの被災者を懸命に助けました。」

 『点字毎日 激動の80年 ー視覚障害者の歩んだ道のりー』(点字のみ、毎日新聞社、2002年)にも、関東大震災の記事が2つありました。

9月 大震災で盲学校消失
 関東大震災で築地盲人技術学校〃愛盲など消失。
日本盲人協会・東京鍼按連合会・日本援護婦人会など8団体が京浜地方で罹災盲人救護団組織。

10月 震災の罹災者1300人
 震災で、災害を受け、焼け出された盲人は東京市だけでも約1300人いるが、そのうち消息の判明は百数十人。
東京市では、避難盲人のため青山の明治神宮外苑のバラック小屋、総計畳数30畳を貸与。



神戸大学図書館の「新聞記事文庫」から盲学校のデータを検索しました。
 報知新聞1934(昭和9)年2月10日に皇室からの下賜金の記事が見えます。金額はいくらであったのかは不明です。
 その中から盲人団体や盲学校に関係するものを抜き出してみました。
 書簡ごとに該当の施設の件数を【 】の中に、また、該当がない場合には【該当なし】と示しました。

 盲学校や盲唖学校・訓盲員の数は42校で、この中には朝鮮の平壌私立盲唖学校も含まれています。
 盲人の社会事業団体が3施設です。

 所轄ごとの分布は、逓信所管三団体が11校で、文部省管轄が30校で、植民地が1校です。

 何県か名前がない所や数が42校と少ないので、寄付を下賜されなかった学校もあるように考えられます。
 ただ、廃校になった学校も見えて(杉山鍼按学校・仏眼協会盲学校など)、興味は尽きない内容になっています。

社会事業団体に奨励金を御下賜
七百八十七団体に及ぶ

けふ紀元の佳節に当り、畏き辺りでは御恒例により社会事業御奨励の有難き思召により内地並びに植民地の社会事業団体に対し奨励金を御下賜遊ばされる旨御沙汰あり十一日の佳き日各省からそれぞれ伝達するはずであるが、光栄に浴した団体は内務省所管三百八十、司法省所管二百十、逓信省所管三、文部省所管五十九、拓務省所管百三十五の七百八十七団体であって昨年より約百団体も多く、関係の各省では大御心のほどに感激している
内務省所管三八〇団体【2】
北海道【該当なし】
東京▲中央盲人福祉協会
京都【該当なし】
大阪【該当なし】
神奈川【該当なし】
兵庫【該当なし】
長崎【該当なし】
新潟【該当なし】
埼玉【該当なし】
群馬【該当なし】
千葉【該当なし】
茨城【該当なし】
栃木【該当なし】
奈良【該当なし】
三重【該当なし】
愛知【該当なし】
静岡【該当なし】
山梨【該当なし】
滋賀【該当なし】
岐阜【該当なし】
和歌山【該当なし】
徳島【該当なし】
香川【該当なし】
愛媛【該当なし】
高知【該当なし】
福岡▲社団法人福岡県盲唖教育慈善会
大分【該当なし】
佐賀【該当なし】
熊本【該当なし】
鹿児島【該当なし】
京都【該当なし】
愛知【該当なし】

司法省所管0【】
東京【該当なし】
神奈川【該当なし】
千葉【該当なし】
茨城【該当なし】
大阪【該当なし】
京都【該当なし】
兵庫【該当なし】
東京【該当なし】
埼玉【該当なし】
神奈川【該当なし】
千葉【該当なし】
茨城【該当なし】
群馬【該当なし】
栃木【該当なし】
静岡【該当なし】
山梨【該当なし】
長野【該当なし】
新潟【該当なし】
京都【該当なし】
大阪【該当なし】
和歌山【該当なし】
奈良【該当なし】
滋賀【該当なし】
兵庫【該当なし】
徳島【該当なし】
高知【該当なし】
香川【該当なし】
愛知【該当なし】
三重【該当なし】
岐阜【該当なし】
福井【該当なし】
石川【該当なし】
広島【該当なし】
山口【該当なし】
岡山【該当なし】
鳥取【該当なし】
愛媛【該当なし】
長崎【該当なし】
福岡【該当なし】
佐賀【該当なし】
大分【該当なし】
熊本【該当なし】
鹿児島【該当なし】
宮崎【該当なし】
沖縄【該当なし】
山形【該当なし】現在・廃校
福島【該当なし】
岩手【該当なし】
秋田【該当なし】
青森【該当なし】
北海道【該当なし】
樺太【該当なし】

逓信所管三団体【12】
兵庫【該当なし】
福岡【該当なし】
静岡▲私立浜松盲学校
愛知▲財団法人私立岡崎盲唖学校▲私立豊橋盲唖学校
三重▲神都訓盲院
大阪▲【不明】
兵庫▲私立尼崎訓盲院【】
鳥取▲財団法人鳥取盲唖学校
佐賀▲佐賀盲唖学校
宮崎▲日向訓盲院【現在・宮崎県立明星視覚支援学校】▲延岡盲唖学校【現在・宮崎県立延岡ととろ聴覚支援学校】
沖縄▲私立沖縄盲学校
東京【該当なし】
大阪【該当なし】
滋賀【該当なし】
東京▲帝国盲教育会
岡山【該当なし】

文部省所管【30】
北海道▲私立函館盲唖院▲財団法人小樽盲唖学校▲旭川盲唖学校▲札幌盲学校
青森▲青森盲唖学校▲私立八戸盲唖学校
山形▲私立山形盲学校▲私立米沢盲学校▲私立山形県荘内盲学校
福島▲私立会津盲学校▲財団法人磐城訓盲院▲福島盲唖学校▲私立喜多方盲学校
茨城▲茨城県土浦盲学校【戦中に廃校】
栃木▲私立宇都宮盲唖学校▲足利盲学校
群馬▲高崎盲学校
埼玉▲埼玉盲唖学校(現在・埼玉県特別支援学校 塙保己一学園)
▲埼玉盲人技術学校▲熊谷盲学校(現在・熊谷理療技術高等盲学校)
千葉【該当なし】
東京▲盲人技術学校(現在・東京都立文京盲学校)▲東京同愛盲学校(現在・東京ヘレンケラー学院)▲杉山鍼按学校(終戦時に廃校)▲仏眼協会盲学校(終戦時に廃校)▲八王子盲学校
神奈川▲横浜訓盲院▲横浜盲人学校
新潟▲高田盲学校
山梨▲私立山梨盲唖学校
岐阜▲岐阜盲学校

拓務省所管【1】
朝鮮▲平壌私立盲唖学校
台湾【該当なし】
関東庁肺【該当なし】
樺太【該当なし】
南洋【該当なし】


『点字毎日 激動の80年 ー視覚障害者の歩んだ道のりー』(点字のみ、毎日新聞社、2002年)の1944(昭和19)年7月には、戦中の高崎盲学校についての記事もあります。
 「高崎盲への転学社急増
盲学校の疎開で、群馬県高崎盲への転学社が激増。既に築地網から21人、仏盲から8人。、同愛・杉山盲数名づつ転学疎開。
同校では収容しきれないため、隣接のお寺の本堂を臨時寄宿舎に解放してその受け入れに奔走。」

 このように、高崎盲は東京の盲学校の疎開先という地理的な条件で群馬県内の盲学校としては最後まで群馬県立盲学校に統合されなかった理由が推測されます。
  東京の築地盲とは現在の都立文京盲、仏眼協会盲とは浅草にあった盲学校で戦災で消失して廃校、杉山鍼按学校は剣豪・千葉周作の孫・勝太郎が創建した盲学校で豊島区・大塚駅前にありましたが、やはり戦災で消失して廃校となりました。
 〃愛は現在のヘレンケラー学院のことです。

  2.前橋盲学校から群馬県立盲学校へ
 前橋盲学校については、創立の恩師・瀬間福一郎、日本で最初の病院マッサージ師・富岡兵吉、点字の語り部・栗原光沢吉(つやきち)の3人についてまとめました。

その前に、戦後すぐの点字毎日『げきどうの80年』(毎日新聞社、2002年)を私が翻刻しましたので、紹介します。
昭和21(1946)年8月
昭和33(1958)年 8月 高野【佐太郎】君「こころ」を英語で点訳  群馬大学芸学部4年高野佐太郎君は、夏目漱石の「こころ」を英語で点訳。日赤本社を通してヘレンケラー女史に寄贈。
  群盲盲人野球大会
 群馬盲は、卒業生の要望で久しく絶えていた盲人野球を復活し、18日、卒業生対在校生の野球試合を開催。  18体5で在校生の勝利。  なお、同校では全国大会の開催を働きかける。

昭和33(1958)年8月
  高野【佐太郎】君「こころ」を英語で点訳
 群馬大学 学芸部4年高野佐太郎君は、夏目漱石の「こころ」を英語で点訳。日赤本社を通してヘレンケラー女史に寄贈。

 高野佐太郎氏は、現在群馬点訳奉仕の会会長です。
 本校の英語・体育教諭、柔道部顧問として20数年奉職されていました。
 高の氏にお聞きしましたら、点訳は、「こころ」以外にも短編を幾つか行い、もう一度ヘレンケラーに送ったそうです。
 ヘレンケラーからは、点訳の礼状に本人がサインしたものが送られてきたとのことです。

 このような逸話を知りませんでした。勤務校の歴史を知らないものです。
 では、本論に入ります。

 (1)群馬盲創立の恩人・瀬間福一郎
 群馬盲の創建に尽力した人に瀬間福一郎(せま ふくいちろう、1877年12月~1962年10月)がおります。
 『群馬県盲教育史』から瀬間について紹介してみましょう。
 記念誌には、瀬間の横浜訓盲院の教員の経験とその指導力の高さ、失明軍人にとどまらない視覚障害者全体の自立を支援しようとしての奮闘が描かれています。
 瀬間は、盲目の盲学校教師で、鍼灸按摩の仕事をしながら草創期の苦難を耐えて視覚障害教育に尽力しました。
 1877年(明治10)12月 群馬県北甘楽郡馬山村「現在は甘楽郡下仁田町馬山」に生まれ、5歳のころに完全に失明したが、下仁田に盲人の城定という鍼医がいて、毎日4キロの道を通って鍼灸按摩の修行をしたといいます。 
 現在とは道路事情も悪い中での修行の行き帰りはどんなに痛い思うややるせない道のりだったでしょうか。
1893年(明治26)、東京盲唖学校に入学
 奥村三策から点字と鍼灸理論と鍼実技を教授される。
1897年(明治30)、東京盲唖学校を卒業し、横浜訓盲院の教師になる。キリスト教の先例を受ける。
1899年(明治32)、横浜訓盲院を退職し、馬山村に帰り磯部で開業
 盲学校の数が少なく、故郷の群馬の盲人達の教育に志していたと考えられます。
1901年(明治34)、前橋市で開業
1901年に点字が官報に掲載され、点字草創期の苦難があったと考えられますし、また点字により多くの情報が獲得できますようになったとも言えます。現在は、点字使用者が少なく、この大発明が泣いている現状でもあります。
1902年(明治36)、自宅で点字や鍼灸按摩の塾を開く
 点字で一般教養から鍼按の専門内容まで教えていたといいます。
群馬県では、1890(明治23)年に私立上毛訓盲院が創立されましたが、2年から3年で廃校となってしまったようです。
 その後、日露戦争(1904年・明治37年)が起き、その戦傷者(失明者)の対策に陸軍大将・乃木希典(1849年12月25日~1912年9月13日・満62歳没)が、兵士に報いる谷目に心痛したといいます。

 日露戦争に関して司馬遼太郎『坂の上の雲』が有名になりました。
 筆者は渡辺淳一『静寂(しじま)の声乃木希典夫妻の生涯 上・下』(文藝春秋、1988年)を読んで、感銘しました。

 医学史的における日露戦争の意義は二つあります。
 ①日清戦争以来、陸軍は白米が支給され脚気が大流行した。
 当時の最新ドイツ医学を学んだ森鴎外が白米に固執したため、兵士の希望も叶わず雑穀の支給はなかった。
 鴎外は、鈴木梅太郎(1874年4月7日~1943年9月20日、満69歳没)が発見したビタミンB1を認められなかったという。梅太郎は、ノーベル賞をもらえたかもしれません。
 ②、(正露丸)が日露戦争で下痢に苦しむ兵士のために作られた(征露丸)からの改名である。

 私の義理の伯父が群馬に高崎十五連隊に所属していました。伯父は会うたびに、「第二次世界大戦まで日露戦争・旅順攻防戦での先輩達の奮闘に倣え」と言って鼓舞しされたと教えてくれました。
 それは旅順攻防戦の転機となった逸話で、164高地を高崎15連隊が攻略し203高地(海抜203M)の占領に成功し、旅順攻防戦の集結につながりました。
 この旅順攻防戦の指揮を執っていた乃木大将が「164高地を高崎山」と命名し感謝して感状授与されたという話です。

 群馬の教育・軍事の責任者の大塚なる人物が「死傷者も多く、失明軍人もある故に、この失明軍人のために何かの方法を設けて職業を得させたいものだ」と、高崎山攻防の活躍に報いるために心痛していたといいます。
 大塚は、高配の東京盲唖学校校長の小西信八に相談し、更に小西に瀬間が白羽の矢を立てられたといいます。
 日露戦争による群馬県内の失明軍陣は11名でした。この数は多いのか、少ないのか。どう判断すればよいのでしょうか。
旅順攻防戦の死者は日本側で6万人、ロシア側で1万5千人で、戦傷者数は数万人と言われています。
 乃木大将の二人の息子勝典・保典も戦死したそうです。
 次男保典は高崎15連帯に所属していたこともありました。
 乃木は、 1906(明治39)年1月、日露戦争の終戦により第3軍の廃止と同時に、軍事参議官となり、同年7月6日に第5・第6・第12師団管下の特命検閲使、8月25日に宮内省ご用掛、続いて1907(明治40)年1月31日に学習院院長を兼ねることになりました。
乃木の群馬の慰問はコレラの帰国後のことで、学習院院長就任前のことだったことが分かります。
 乃木も、兵士達の失明というハンディキャップは適当な仕事のないことを実感していたので失明軍人の点字習得や按摩による社会復帰を念願していたといいます。
 多くの戦死者や傷病兵の方に改めて哀悼の意を捧げたい。そして、二度と戦争が起こらないことを祈念したい。

 本校の70周年記念誌では乃木の本校慰問の新聞記事や逸話も記載されています。7
 失明軍人の職業教育のために、1905年(明治38年)9月18日、現在の群馬県立盲学校の元となる上毛教育会附属訓盲所が作られました(ただし、現住所とは違い県庁前)。
 瀬間は、小西の薦めによりこの訓盲所の教師になりました
 本校の当初の目的が「お国のために失明した軍人の教育」でしたが、瀬間は一般の盲人達の救済も念頭に会ったと考えられます。翌10月には一般の盲人も5名入学させました。

 創立の翌年1906年(明治39年)11月11日に乃木大将が高崎15連隊への感謝と失明者への慰問に訪れました。
 この時に、東京盲唖学校長・小西信八(1854~1938年、84才)、山岡熊治(1868.12.8~1921年、53才)なども〃道しています。
 山岡は、旅順攻防戦の第3軍参謀で、奉天会戦で両眼を失明し、帰国後中佐となり、のち盲人協会会長を務めた人物です。
 乃木の訓示と山岡も訓話があったようです。失明中佐の訓話に失明軍陣は感動したとあります。
 乃木は、11月10日午後7時22分着で前橋まで単独で汽車で来て、徒歩で本町白井屋の山岡の所に行き、宿帳の記入と言われたのに「急ぎには及ばず」と言い名前も名乗らなかったようです。宿泊者の名前を軽擦に届けるのに再度宿帳にと迫られ「軍人乃木希典」と署名し、やっと乃木大将であることが分かり、大騒ぎになったようです。
 翌11日に本校に行かれ、入られるとすぐさま、瀬間の手をとられ、「瀬間さん、御苦労様です。」と言われたので、瀬間先生は感激の余り、言葉も出ず、涙さえ浮べられたと書かれています。
 乃木の休息の間に吸っていた煙草は庶民的な「あさひ」で、訓辞を15分行い、庭に松の記念植樹をして、午後1時20分の汽車で帰郷したそうです。

 乃木の訓示は本稿の70周年記念誌に口絵写真とその逸話が掲載されていますが見たことがありませんでした。現在は本校の教材教具室にありましたので、その後は校長室に保管してもらうことになりました。
 桐の箱に入った乃木希典の訓示が掛け軸として表装され1本、ただ掛け軸になったものが1本、表装も何もしていないものが1枚。
 以上が所蔵されています。

 以下に文字化したものを紹介します。

(桐箱表書)
「乃木大将訓辞」

(箱裏書き)
「為群馬縣立盲唖學校 陸軍少将 桜井忠温書」

(本文)
「乃木希典訓示
富國強兵といふ事に就いて、何が基であらうかと言へば、國家として遊民廃人の無いことが望である。然るに此れを望めば教育と云ふ事より大切な事は無い。教育に於て盲唖の人を教わる其の方法手段、今日の如きに及んだのは、眞に文明の賜である。然しながら之を學ぶ人は大いなる勇氣が必要であると考へる。普通健全な者ですら耐えざる事に耐えるのみならず、其の學びえた事を實行する上に就いては、其の勇氣と忍耐とによりて、健全にして遊情無能の人を戒め懲らすことに於て、即ち富國強兵の大なる力となる事を信じる。
  右は、明治三十九年十一月十一日、群馬縣前橋なる上野教育會が明治三十八年九月縣下失明軍人六名の為に訓盲所を設けしを見舞はれし際、訓示されし言葉で、生徒が點字を以て筆記したものである。 陸軍少将 桜井忠温書(□印)」

 本文の最期に 乃木大将の訓示を生徒が点字で書き留め、陸軍少将の桜井忠温(ただよし、)1879.6.11~1965.9.17)が書き写したとあります。

 桜井はウイキフエリアによれば、愛媛県松山出身で、松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征し、乃木将軍配下で、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け(全身蜂巣銃創)、右手首を吹き飛ばされる重傷を負ったようです。余りの重傷に死体と間違われ、火葬場に運ばれる途中で生きていることを確認されたという逸話も残されています。
 帰還後、療養生活中に執筆した実戦記録『肉弾』を1906年(明治39年)に刊行し、戦記文学の先駆けとして大ベストセラーとなり、英国、米国、ドイツ、フランス、ロシア、中国など15カ国に翻訳紹介されました。
 陸軍省新聞班長を勤めたり、他に著書も幾つかある執筆家でもあるようです。

 桐の箱の訓示は、差くらい氏からの寄贈と思われます。
 ただ掛け軸になっている物がありますが、裏には、創立60年の折に、中村武雄氏が寄贈したものと書かれています。
 本校の同窓会は明治38年に発足しています。その中には中村氏の名前はありませんでした。

 3つの訓示は同じ書体と思われますので、桜井が失明軍人の6名に書いて与えた者が所蔵されて来たのかとも考えました。

 一般的に乃木希典を知っていましたが、この訓示を読むと乃木大将の思いやりや、失明した軍人への叱咤激励を感じます。
 盲学校の西側の寄宿舎には乃木大将お手植えの松といわれている松があります。

 『群馬県盲教育史』の中から、乃木希典の本稿来校の逸話を紹介してみます。
 乃木は、突然に失明軍人の慰問を思い立ち、一人汽車に乗り前橋に赴いたようです。
 供も連れず、威張ることもなく、ぶらりと宿泊しました。それを宿から聞いた群馬県の警察や教育界はあわてふためいたと言います。
本稿に赴いたときにも、瀬間に自ら歩み寄り握手をし、慰労の言葉をかけたといいます。
 乃木は庶民的な煙草を吸っていたという逸話も残っています。
 ※両毛線は、1884年8月8日にに高崎~前橋が開通。

しかし、 訓盲所も明治40年7月21日に失明軍人三人の卒業式をもって、一応その初期の目的を達成したというので、閉鎖となりました。その時の一般の生徒は20名程入所していました。
 明治41年四月に上野教育界師範学校附属小学校訓盲所が開校
  さらに、前橋市立訓盲所(桃井小学校)→私立盲唖学校等と名前や所属が代わりながら、私立高崎盲学校・私立桐生盲学校を統廃合し、現在の群馬県立盲学校へと発展していきました、

 瀬間は、前橋キリスト教会に所属し、その関係から奥さんとなった西山千代子とも出会いました。
 キリスト教徒のの医師が後援者になってくれたり、授業をボランティアでもってくれたりして支援してくれたようです。

 瀬間は鍼按科の1年から3年まで全学年を担当し、解剖・生理・病理・按摩・鍼灸を教え、午後は治療院で生計を立ててていました。
 当時は教科書もなく、瀬間も自ら専門書を点字に書き写したり、生徒は瀬間が読み上げる教科書を書き写すのが授業でした。模型などの教材もほとんどない中での解剖の授業だったそうです。
 普通科の先生方も無給で教え、年齢差や学習の経験のない者が混在する中での学校風景でした。

 昭和に なっても盲学校の環境はあまり向上せず、多少の教員の補充や給料の昇給もありましたが、多くの教員が自らの治療院で生計を立てていたのは代わりません。
 当時の時間割は月曜日から土曜日まで、40分・5時限(9時から始まり、1時40分に放課)でした。
 持ち時間は23時間程度でほとんど休みがない上体で教えていたようです。

 ボランティアの医師・鈴木はウサギを解剖してまだ動いている心臓などを触れさせるなど先端の授業も行われていました。盲学校では日本最初といえるようです。
 普通科の教員が少ないために鍼按科の教員が普通科の国語や算術・綴り方・歴史なども教えていたようです。

 1927年(昭和2)に群馬県立盲唖学校が発足しましたが、予算が少なく瀬間はこの学校には採用されませんでした。
 時に50才という若さで、その後は治療院を開業して終わりました。創立当初の恩人は報われたのでしょう絵か。何といたわしい状況だったのか。調べていて涙が出る思いです。
 
 しかし、更に調べていくとその貢献は忘れられずに色々な表彰を受けたというので、胸をなで下ろしました。

【参考文献】
 柳本雄次『群馬の障害教育を創めた人々』(あずさ書店、9~34ページ、1990年)

 (2)日本最初の盲人マッサージ師・富岡兵吉
 群馬盲と直接関係があるかというと、そうではありません。群馬県出身で、群馬網には勤めていません。しかし、群馬県の教員が多大の影響や恩顧をこうむった先生です。
 平成24年度の当初に桜雲会から群馬県出身の富岡兵吉【とみおか へいきち】の墓地について問い合わせがあった。さらに、同年5月21日に群馬の地方紙・上毛新聞社の記者の方から「富岡兵吉の偉人伝について記事を書きたいのだが詳細が分かるか」との問い合わせがあった。
 兵吉については、十数年前に恩師・故・長尾栄一先生から「私が医学史の教科書に最初に紹介したんだよ」と言われ、本県出身の視覚障害者の偉人伝であることを知っていた。医学史の教科書では群馬県出身、盲人の日本で初めての病院マッサージ師との記載だけで、他のことを知ることはなかった。

 近年、栗原光沢吉『富岡兵吉先生の思い出』(桜雲会、点字出版)が地方の点字図書館に所蔵されていることを知り、借用して調べようかと思っていた。ところが桜雲会編「マッサージ医療の開拓者「富岡兵吉先生の思い出と『日本按摩術』」(桜雲會、2008年)が出版されて、やっと安易に入手できた。
 初めは「富岡」という姓なので、県内の富岡出身の方かと思っていた。問い合わせが続いたので急ぎ用意してあった資料を見返したり、インターネットで調べてみた。その結果を上毛新聞社に送り、何回か電話で問い合わせを受け、同紙・平成24年6月14日(木)の記事となった。

 まずは、前掲書などで兵吉の心情をピックアップしてみます。
 ・いつもぼけっとにヤスリを入れて爪の手入れをしていた。
 ・関東大震災では、同窓生の安否や支援に回った。
 群馬県人の世話をよく見ていた。

 ○略歴
明治2年(1869年)3月3日、上野国(こうづけのくに)利根郡薗原村(現在の群馬県沼田市利根町園原)で生まれる。
3~4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる。
12歳くらいまではかすかに物が判別できます程度だった。
1880年3月に園原小学校下等科を卒業
翌1881年に沼田市馬喰町(元の川田村)の深代某氏に入門し、按摩・鍼を習う。按摩をした旅人から東京盲唖学校のことを聞き、そこでの就学を決意する。
1888(明治21)年10月 東京の築地にある東京盲唖学校に入学したが、このころまでには完全失明していた。
  東京盲唖学校教師の奥村三策宅に下宿する。
1889(明治22)年3月に東京盲唖学校按摩科を卒業し、さらに鍼治科に学ぶ。
1 1890(明治23)年11月 東京盲唖学校が小石川の雑司ヶ谷町に移転。
1891(明治24)年3月に東京盲唖学校鍼治科を卒業し、4月から東京帝国大学附属病院に日本で初めてのマッサージ師として勤務する。
1895(明治28)年3月に西山なおと結婚して、その後2男2女を得た。
1898(明治31)年、勤務先を築地の山田病院に替える。
1912(大正1)年に東京盲学校(東京盲唖学校を盲部門と聾唖部門に分離した盲教育部門。現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)の嘱託になり、警視庁鍼灸按摩試験委員、文部省盲教育講習会の講師を務める。
1913(大正2)年に東京盲学校訓導になり、文部省経穴調査委員になる。
1916(大正5)年に東京盲学校教諭になる。
1917(大正6)年に著書『日本按摩術』を刊行する。
1920(大正9)年、東京盲学校の同窓会理事長になる。
1921(大正10)年に点字著書『点字存稿集』を出版する。
1923(大正12)年 関東大震災で自宅が全焼したが、同窓会会員の罹災救護に励む。
1926(昭和1)年2月18日に肋膜炎のために逝去した。享年57歳。
1938(昭和13)年2月13日には、東京盲学校講堂で、奥村三策先生二十七回忌、富岡兵吉先生三回忌の追悼式が行われ、かつて教師として教え子に影響を与えた2人の事跡が偲ばれた。

 また、群馬の地方新聞・上毛新聞平成24年6月14日(木)に兵吉の記事が掲載されましたので紹介します。
◆◆◆
日本初の病院マッサージ師
視覚障害者 就労に道
富岡兵吉(写真略)

130年を超える歴史を持つ筑波大学附属視覚特別支援学校(東京都文京区、旧東京盲学校)。これまでに数多くのマッサージ師や鍼灸師を輩出してきた同校の授業で、現在も取り上げられる盲目のマッサージ師がいる。
日本初の病院マッサージ師として知られる、旧利根村(現沼田市)出身の富岡兵吉だ。死後90年近くを経過してもなお、手に職を持つ視覚障害者の先駆けとなった偉業は色あせていない。
同校の卒業生を調査した星山洋子教諭(54)は富岡について「視覚障害者が勉強することも難しい時代に、努力を重ねて活躍したすばらしい人」と評価する。当時の文献には富岡の人柄や品格をたたえる記述も残ると紹介。星山教諭は「まだ認知度は低いので、紹介する機会を増やしたい」と話す。
 富岡は1869年、4人兄弟の末っ子として生まれた。幼少時から視力が低下し、園原小学校卒業の際にはマッサージやはりを学ぶことを決意したという。
 沼田で修行を始めた後、さらなる技術を求めて、88年に東京盲学校に入学。卒業後は病院に勤務する日本初のマッサージ師として、東京帝国大附属病院(現東大附属病院)に勤務した。病院では、多くの患者に慕われたと伝えられている。
 その後、母校である東京盲学校に戻り、教員としての活動をスタート。後進の指導にあたったほか、日本に伝えられたマッサージ技術をまとめた著書「日本按摩術」を完成させた。同書は現在も貴重な専門書として活用されている。
 盲人史を研究する県立盲学校(前橋市南町)の香取俊光教諭(54)は富岡について「時代を切り開く力を持った人物」と分析。当時、障害のある人は働く機会を得ることが難しい環境だった上、教育や交通機関も未発達だったと指摘する。そうした中で頭角を現した富岡について「職業人としての自覚、マッサージ師としての高い技術など現在も学べるところは多い」とたたえている。

メモ
1869年生まれ。88年、東京盲学校(現筑波大附属視覚特別支援学校)に入学。卒業後は東京帝国大附属病院(現東大附属病院)などに勤務し、その後、東京盲学校教諭として活動。1926年死去。
◆◆◆

 国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに1917(大正7)年「経穴調査委員報告書
」があり、学兄の小林健二氏から資料を提供していただいた。
 資料の中に兵吉は、当時の壮そうたる人物と共に経穴の調査報告に当たっている。


大正七年十二月
經穴調査委員報告書
文部省
下名等ハ大正二年十一月中經穴調査委員囑託ノ命ヲ受ケ候ニ付爾來愼重調査中ニ有之候處今般調査結了致候ニ付別冊ノ通報告候也
【下名等ハ大正二年十一月中に經穴調査委員囑託ノ命令ヲ受ケそうろうニつき、じらい愼重調査中ニこれ有りそうろうところ、今般調査結了致しそうろうニつき別冊ノ通り報告そうろうなり】
 大正七年四月
          吉田 弘道
          富岡 兵吉
医学博士 文学博士 富士川 游
          町田 則文
医学博士 理学博士 大澤岳太郎
医学博士      三宅  秀
   文部大臣  岡田 良平殿

報告書
(中略)
三 上記六百六十穴ノ中、コレヲ身體局部ノ關係ニ見テ、重要ナラスト認メラルルトコロノ孔穴ヲ省キ、本篇ニハ左ノ孔穴ヲ擧ケタリ

  頭部正中線  六穴
  頭部第一側線 四穴
  頭部第二側線 五穴
  額部     二穴
  顳顬部    三穴
  顱頂部    二穴
  耳前部    二穴
  耳下部    一穴
  顔面部    九穴
  頸部     二穴
  胸部    十二穴
  腹部正中線  七穴
  腹部第一側線 八穴
  腹部第二側線 八穴
  側腹部    六穴
  背部正中線  四穴
  背部側線  十三穴
  肩胛部    二穴
  上肢    十三穴
  下肢    十一穴
  総計   百二十穴

   右諸穴ノ中、頭部正中線、腹部正中線及ヒ背部正中線ヲ除クノ外ハ、各孔穴ハ左右ニ存在スルカ故ニ、コレヲ合算スレハ、孔穴ノ數ハ二百二十三個トナル、コレヲ從來ノ孔穴ノ數ニ比スレハ殆(=ほとん)トソノ三分一ナリ

四 從來、孔穴ヲ取ルニハ折量分寸ノ法アリト雖モ、ソノ説劃一ナラス、故ニ、ココニハ解剖學上ノ位置ヲ示シ、略(=ほ)ホ孔穴ノ部位ヲ知ルノ便ニ供セリ

(後略)
 更に、兵吉の事跡をまとめてみます。
○業績…日本で最初の視覚障害者の病院マッサージ師、盲目の盲学校教師。マッサージの実技所を残した。
 ○生没…1869(明治2)3月3日~1926(大正15)2月18日午後3時40分、数え58才
 ○出身群馬県沼田市利根町薗原(そのはら)
 ○葬地…浅草今戸(いまど) 広楽寺
 (〒111-0024 台東区今戸2-4-2)
 電話03-3873-5707
 墓地は、第二次世界大戦の戦火で一時所在不明ということであったが、平成24年10月4日に広楽寺様に問い合わせしたところ現存しているとのこと。機会を得て、お参りしたいとかんがえている。最寄り駅は現在話題となっているスカイツリーが近い東武伊勢崎線の曳舟【ひきふね】駅である。

【著書】
『日本按摩術』(前掲桜雲会にて再出版)
『点字存稿集』点字出版
 ※兵吉の恩賜・奥村三策については、奥村の出身地金沢の松井 繁『奥村三策の生涯 ―近代鍼灸教育の父』「森ノ宮医療学園出版部、2004年」や奥村の著書『改訂按摩鍼灸学』「文光堂、1925年」もある。

 (3)点字の語り部・栗原光沢吉(つやきち)
 視覚障害者や教育のことを知ろうとすると栗原光沢吉【くりはら つやきち】の著書をよく見かけます。光沢吉については柳本雄次『群馬の障害教育を創めた人々』(あずさ書店、9~34ページ、1990年)に詳しく、、群馬県内の視覚生涯教育創立の苦難も描かれています。本稿はこれを参考にしました。
 光沢吉は、勤務先の大先輩である群馬県立盲学校の盲目の教諭です。最期は教頭で定年となったそうです。
 恩師に「何でも点字で打っておけ」との教えを守り大正2年から点字の日記を書き続け、多くの記録を残しました。著書となり、明治・大正の群馬県の盲教育の創世記の苦難やその教育の実態などを伝えています。100年を超える盲教育の草創期の苦闘を伝える記録が痛々しく盲人達の苦難を伝えてくれています。
 どうしても視覚障害者は記憶に便り、それが伝承者の歴史的位置づけを持っていた。それに反して、光沢吉は点字という一つ一つの点に込めて忍耐強く記し続けた。近代になるまで、記憶を旨としていた盲人の辛苦と、その知識が失われていく現実もある。光沢吉のお蔭で草創期の群馬の盲学校では、今日では考えられない教育事情の中で先輩達が学習していた。教師達は無給であったり、それを補うために治療院も併せて生活したり、生徒は教科書もわく、教師の読み上げた文章を書き写すのが授業であった。今の視覚障害者の教育が危機的な状況にあるとは言え、当時と比べると環境の良い中で学習していることが分かった。
 また、国内盲学校で最初に点字を読むために本県にスチームが設置されたことも知れる。先輩の教師達の誓願のたまものであった。
 光沢吉は点字習得器を自作したり、当時盲唖学校であったので、聾唖の生徒の指導もおこなった。重複教育の先駆者でもあった。

 栗原先生は大先輩なので、私は直接接触がありませんでしたが、退職された先輩の先生から逸話を聞いたことがありました。
 墓地について、調べても不明でしたがご遺族の方に問い合わせて、快くご教示いただきました。ここに記して感謝申し上げます。
 群馬県立盲学校のことについては群馬県盲教育史編集委員会『群馬県盲教育史』(群馬県立盲学校)、群馬県教育委員会編『特殊教育義務制施行記念誌 ー盲・聾学校40周年、養護学校10周年ー』(群馬県教育委員会)がある。

 ○業績…盲目の盲学校教師。多くの視覚生涯教育に関する著書を残した。多くの著書により、群馬の盲学校創立のくなんや実像を知ることが出来る。
 ○生没…1897(明治30)2月28日~1996(平成6)3月、数え100才
 ○葬地…前橋市富士見町米野→東京都多磨霊園
 ○略歴
1897(明治30)2月28日  群馬県前橋市(旧南橘村)に生まれる
1900(明治33)年 群馬県北橘村の小学校教師栗原又一とハツ夫妻の養子になる
1911(明治44)年 桃川高等小学校を卒業する。小学校入学前から夜にはよく見えない状態となり、小学生のころには弱視がしだいに進む。そのため旧制中学への進学もできず、職業訓練もできなかった
1913(大正2)年4月 前橋市の訓盲所に通い、普通科目・鍼按科を学習する
1914(大正3)年4月 東京盲学校普通科4年(5年制)、技芸科(鍼按科)2年(4年制)に編入学する
1916(大正5)年3月 東京盲学校普通科を卒業し、専攻科・鍼按科4年生になる
1916(大正5)年4月 東京盲学校師範科に入学する
1919(大正8)年3月 東京盲学校師範科を卒業する。
 同年4月 、私立前橋盲学校の教師になる。ただし俸給は少なく、どの教師も、午前は授業、午後は鍼・按摩・マッサージの治療を行う状態だった
1924年 黒沢てつと結婚
1957(昭和32)年3月 群馬県立盲学校(教頭)を退職し、住居を東京都杉並区上高井戸3丁目に移す。
 退職後は、日本点字図書館の本の校正をボランティアでしたり、盲教育中心に歴史を証言する文章を書いた。著書は後に詳述した。
1996(平成6)年3月 逝去、享年99歳
 前橋市富士見町米野に墓があったが、子供たちが東京に全員出てしまったので東京都多磨霊園に夫婦共改葬とのこと。

【著書】
『富岡兵吉先生の思い出』(桜雲会、点字出版)
『瀬間福一郎先生の思い出』(桜雲会、点字出版)
『富岡兵吉先生の思い出』(1971年、ガリ版印刷)
『大正の東京盲学校』(あずさ書店、1986年1月、223ページ) ※サピエにデイジーデータあり。
『点字器とのあゆみ』(あずさ書店、1988年8月、B6判157ページ) ※サピエに転じデータあり。
『群馬の盲教育をかえりみて』(あずさ書店、1989年8月、A5判606ページ)
『点字の輝きに生きる』(あずさ書店、1990年7月、B6判197ページ)
『光うすれいく時―明治の盲少年が教師になるまで―』(あずさ書店、1993年5月、B6判136ページ)※サピエに転じデータあり。
『むつぼしの歌 ー栗原光沢吉短歌集ー』(あずさ書店、1994年8月、B6判、198ページ) ※サピエに点字データあり。
『点字随筆・老いのつぶやき』(あずさ書店、1995年4月、B6判、107ページ) ※サピエに点字データあり。
『点字器とのあゆみ』『光うすれいく時―明治の盲少年が教師になるまで―』(大空社、1998年(「盲人たちの自叙伝 51」第3期20冊の1冊として上掲2冊を合本復刻)
『光うすれいく時―明治の盲少年が教師になるまで―』(文芸社、2007年(上掲のものを再録)
桜雲会編「マッサージ医療の開拓者「富岡兵吉先生の思い出と『日本按摩術』」(桜雲會、2008年)

 以上の紹介した文献以外に下田知江『盲界事始め』(あずさ書店、1991年)があったり、石川県立石川盲学校の松井繁『奥村三策の生涯 ―近代鍼灸教育の父』(森ノ宮医療学園出版部、2004年)が出版された。また、国立国会図書館で命じ・大正・昭和の貴重な文献がインターネットからダウンロードできますようになった。近代デジタルライブラリーと呼ばれるもので、画像データではあるが今後の活用が期待される。

  3.私立桐生盲学校
 私立桐生盲学校は、1921(大正10)年~1927(昭和2)年3月に私立前橋盲学校・私立桐生盲学校・私立高崎聾唖学校が統合し、県立盲唖学校の設立まで、僅かに6年の開校でした。
 しかし、存在は短かったかもしれませんが、1959(昭和34)年に桐生点訳分科会が発足し県内でも唯一の市立の点字図書館も持っています。
 視覚障害者への理解の芽を残しています。

 さて、私立桐生盲学校の開校のきっかけは何であったのでしょうか。
 本稿の70周年記念誌を中心に見ていきます。

 大正10年の桐生市の市制開始記念事業として同市の鍼按組合の要望がわき上がり、市内の慈善団体の積善会(明治43年4月創立、桐生町と附近の寺院38ケ寺が中心に托鉢等による資金をもとにして、出獄人の保護、孤児等の養育、その他のことを使命)という気持ちをくみ入れ、設立されました。
桐生仏教会の歴史によれば、「大正9年(1920)戦後恐慌による経済混乱から失業者の続出するに及んで「職 表紹介所」を設置、それを補完するために「無料宿泊所」を設けました。翌大正10年には 、「桐生訓盲所」を東久方町の大蔵院内に設立。昭和3年に県立の盲学校ができて合併されるまで開校されました。」とありました。
(※大蔵院…桐生市東久方町甲1-1-36 電話0277444915) 
 同市内の 当時本町5丁目にあった長福寺で積善会が「裁縫女学校」を運営していた事例もあり、市内の寺院がそれぞれ慈善事業を展開していたことが分かりました。
 大蔵院に問い合わせてもその存在は知らなかったようです。
 そこに、群馬県立盲学校の校長が「桐生盲学校は浄運寺内にあった」と同寺の住職から聞いた話をされました。
 そこで、私も同寺に問い合わせてみました。
明治6年(1873年)11月 桐生市立北小学校の前身である桐生学校が浄運寺を仮校舎として創立しているなどで、明治の机が残っているとのことでした。

 浄運寺は浄土宗鎮西派で田中山浄運寺(桐生市本町六丁目398番地1)
 『群馬県盲教育史』(P209)に「私立桐生盲学校設置・学則等」に大正12年(1923)11月28日認可、桐生市大字桐生398番地とあります。
 所在地は天善山日輪寺大蔵院内(桐生市東久方町甲1-1-36)に当初設立され、すぐ田中山浄運寺(桐生市本町六丁目398番地)に移転したようです。

 また、70周年記念誌には、
新井勇八は自著で桐生の盲教育について「岩上佐吉の主宰する鍼按組合の経営による鍼按講習所というのがあって、専ら鍼按の術を授けた。講師は前橋訓盲所の卒業生中島竹松氏が之に当」 っていたと述べている。桐生でも大正時代に入り取締規則が施行された結果、それに刺戟されて鍼按組合が中心で鍼按講習所が設けられた。しかも講師は附属小学校の訓盲所を昭治四十五年に卒業した中島であり、このことは瀬間の教育の成果であるといえよう。
ここでの中島の教育の成果がどんなものであったか、うかがいえないのが残念である。
 続いて大正十年に桐生市となったその市制記念事業として「学校への議が起り、組合員の熱望によりその実現のため活動写真を興行して、その収益を資金とした」(新井)という鍼按組合の要望を、桐生の積善会がくみ入れる形で私立桐生盲学校が設立されている。そして指導者として東京盲学校の卒業生金子国五郎が当った。
当時のことを金子は自著で「私は国立東京盲学校の師範科を大正十年三月二十七日に卒業して翌月四月一日付で、桐生盲学校に勤めることになりました。桐生盲学校は大正十年四月桐生に市制をしいたその記念事業として、桐生積善会の尽力により設立」されたと述べている。
積善会であるが、これは桐生市史によれば中心になり設立されたもので、托鉢等による資金をもとにして、出獄人の保護、孤児等の養育、その他のことを使命にしていた仏教団体である。積善会の事業の一つに私立盲学校の経営が大正十年から加わった。
 はじめは校長兼経営者に浄運寺住職野口闇善が当り、大正十三年に盲唖学校令に基く盲学校設置認可申請のときは、経営者が静谷暢純に代っている。その間の事情はよくわからないが、恐らく積善会の会長の交替によったものであろう。その時校長は別に井口賢行が当っている。
 経営の裏付けの多くは積善会が負担したようである。
生徒も鍼按組合がてこ入れしていたので、初めは徒弟が入学していたが、続かず、そのうちに県立移管の問題が持ち上り、六名の生徒の内多くは県立盲唖学校の方に合併した。

 桐生盲学校の平面図が残されていますので、どんな規模であったのか知ることができます。
 大正10年の図面です(1921)(本校70周年記念誌『群馬盲虚行く史』の巻頭写真)

 この図面の桐生盲学校は大蔵院内にあったと想われます。横に長い長方形の校舎です。
 建物は2階建てで、間口7間、奥行き3間(21坪・42畳)でした。
 階下には、事務室・実習室・寄宿室・勝手・土間・押し入れ・廊下・便所2カ所。
 2階は、講堂・教室3部屋・廊下・会談がとあります。
 そして校庭もありました。


  4.栃木県足利盲学校と私の父親
 最後に足利盲学校について紹介してみます。
 足利は栃木県であるが、東武伊勢崎線が大きく北に迂回していて群馬の太田。邑楽。館林に住む人間にとってはとても親密な土地です。
 私も太田市で幼少期を過ごし、ちょっと自転車で走っていくと足利市で、更に走っていくと群馬県邑楽郡といったかんじです。
 高校は、足利市を通過して舘林高校に通ったので、渡良瀬川の南に至ってまた、群馬県に戻るという生活でした。
 私の最初の歴史の研究課題は新田氏でしたので、足利氏は新田氏研究には通過しなくてはならない課題でもありました。
 新田氏の始祖義重の弟は足利義兼でしたので、足利の土地も難解も訪れました。
 さて、足利盲は土地柄も近いばかりではなく、父親の母校でもあり、今回取り上げたいと思ったわけでした。
 足利盲は、1916(大正5)年11月13日 足利鍼灸按講習所創立(足利市本城3丁目の沢田正好自宅)から出発し、1949(昭和24)年 栃木県立盲学校、足利市相生町から河内郡横川村江曽島(えそじま)670(現・宇都宮市)に移転まで、33年間足利にあった盲学校で、その最後の跡地は今でも視覚障害者の支援施設となっています。
 沢田正好先生(弱視)の鍼灸治療院から始まり、県立栃木盲学校まで発展した盲学校です。

相生町の校舎は、昭和6年、私立足利盲学校として建てられ、栃木県立盲学校となったのち相生幼稚園となり、幼稚園舎として使われていたが、現在は廃園となって、近代建築保存の対象となっている。

 さて、父親は、沢田先生のお宅は織姫神社近くにあったといっています。織り姫神社は西宮町にありますし、設立の住所が本城3丁目と符合しないのですで、現在の区画とは違うのか判明しませんでした。

 足利盲については、市田敬一先生から『栃木県立盲学校創立百周年記念誌 星霜 栃盲百年の歩み』(栃木県立盲学校、2009年)を頂、群馬県・栃木県の盲学校の動きを年表にしてみました。

 『足利市史 下巻の2』(足利市、687頁、1928年)にも記載があり、足利市本城3丁目に設立し、13名の生徒から出発したとあります。
 1926(大正15)年6月9日 私立足利盲学校、栃木県知事より按摩術営業取締規則および鍼術・灸術営業取締規則第1条の学校に指定された当時について記載がある。
 校長沢田正好、職員5名
生徒数は、初等部男12名・女8名、計20名
中等部男6名・女8名、計14名、男女合計34名
とあります。

 記念誌には、その創立の経緯や校庭が広くスポーツが盛んで、サウンドテーブルテニス(stt、盲人用ピンポン)の創始が沢田先生とあります。
 『点字毎日 激動の80年 ー視覚障害者の歩んだ道のりー』(点字のみ、毎日新聞社、2002年)の中から足利盲について拾ってみます(文字化は筆者)。

1929(昭和4)年5月  関東北部盲学制陸上競技大会
 在 東京5盲学校主催の第1回関東北部盲学制陸上競技大会は、19日学習院競技場で開催。
東盲・築地・〃愛・仏眼・杉山・中郡・横浜訓盲・横浜盲人・新潟・石川・岩手・磐城・庄内・茨城・宇都宮・足利・埼玉の17校が参加。
 ※群馬の盲学校が出場していません。また、この中にある盲学校の幾つかは戦争で消失してしまったものもあります。
 ※東盲は筑波大学付属視覚特別支援学校・築地は都立文教盲学校・〃愛はヘレンケラー学院・仏眼は消失・廃校(浅草に存在)、杉山は消失・廃校(豊島区・大塚駅前に存在)。
 ※仏眼協会盲学校や杉山鍼按学校については、別の場所で詳述したいと思っています。

1933(昭和8)年8月 沢田氏盲人用ピンポン考案
 足利盲の沢田正好校長は、盲人用ピンポンを考案。先頃、点盲臨時総会で試験したところ、なかなかの好評。ピンポンというよりも玉ころがしといった感じで、盲人室内競技にはうってつけ。
 ※この昭和8年頃に盲人用ピンポン(サウンドテーブルテニス・stt)が創始されたことが分かるのではないでしょうか。女子のスポーツ競技として考案され、次第に前谷に広まったことが分かります。

 点毎『激動の80年』昭和18(1943)年12月
海軍 技療手養成
 東京都鍼按師会は、昨年の夏以来海鷲の疲労回復にと、海軍の養成に努めていたが、ようやく海軍当局の認めるところとなり、都内神田の訓練所を海軍省直轄の海軍技療手訓練所に移管。  所長に東京都師会長橋本たろういえとし氏を任命し、山形・福島・栃木・茨城の諸県から選ばれた○○人を技療手として訓練。
昭和19(1945)年1月 足盲 技療手志願者の繰り上げ
栃木県足利盲は、航空決戦苛烈の織柄、技療手の任務の重きを痛感。
今春卒業の鍼按科生の内技療手志願者には繰り上げ卒業をさせ、前線に送ることを決定。

 昭和19(1944)年3月
茶木【よしお】氏 名誉の戦死

  このように従軍した視覚障害者が戦死した記事もあります。他に視覚障害者がどのくらい戦地に赴いたのかは分かりませんが、戦時下で視覚障害者も巻き込まれていったことが分かります。父親に学校は緊迫したこのような雰囲気はあったかと聞きましたが知らないようです。

 父親は、後者は2階建て、1階の真ん中に玄関で左手が職員室で、東側には寄宿舎(北)・講堂(南)であったと言っています。33人、
 者は、盲聾
跡地はどうなったか調べてみました。
 足利市視覚障害者福祉ホームが住所などから跡地ではないかと思いました。

 足利市視覚障害者福祉ホームが足利盲の跡地か、平成26年4月に電話で問い合わせてみました。ホームページもあります。
 現在は、校舎部分が払い下げとなり「相生幼稚園」→廃止・私有地。
 寄宿舎・講堂部分が盲人ホーム→平成19年4月1日より「足利市視覚障害者福祉ホーム」として、現在も視覚障害者のために利用されています。
 ※目的 視覚障害者の福祉向上のため、生活相談や技術指導等による自立支援や点字・音訳による情報の提供、利用者相互の交流や社会参加の支援などと共に、中途失明者のための生活訓練事業を行っています。
 現在足利市相生町385
 電話番号 0284-41-2200
 FAX 0284-41-2200
開館時間 午前9時00分~午後5時00分
休館日 土・日曜日、国民の祝日、年末年始(12/29〜1/3)
  ーーーーーー

 このような、足利盲学校の校舎は、2018年頃から足利の近代化遺産を考える会によって保存や研究発表・見学などの対象となって現存しています。

 私の父親は、群馬県太田市から汽車に乗り足利盲学校鍼按かに、昭和19年~23年3月まで就学しました。
 父親の思いでは沢田先生(弱視)と小川亀太郎先生(全盲)といっていました。
 特に小川先生は、山形県東根市の出身で、奥様をウメさんといい、私の母親の親戚(祖母の姉妹)です。
 そんなことから、当時山形から小川先生のところに針子として出てきた母親と父親を結びつけて仲人をしました。父母とも今でも小川先生を敬愛しています。
 私も生前の小川先生とは、父親のお供で年始の挨拶にでかけ、何となく覚えています。父親は義理堅く年始・墓参りをかかさずにいました。
 父親にとって小川先生は按摩や鍼の師匠でもあり、仲人ということで心底より感謝しているのですね。

 学制当時も、盲学校より西方にあった小川先生のお宅を訪れたりして周囲の生徒にやっかみを言われていたようです。
 授業中は柔道着の上から按摩をさせたり、鍼が下手な親が刺せるまで練習台になったという。

 沢田先生のお宅は盲学校の門前(西側の正門の道を隔てたやや北側)で、よくおじゃましたといいます。

 また、沢田正好先生の逸話をもう一つ足します。
『激動の80年』昭和21(1946)年6月(3 170)の
全国盲聾唖教育大会
 大日本教育会主催、全国盲聾唖教育大会は、20日から3日間、奈良市東大寺かいだん院家華厳寮で開催。
 食料を詰め込んだりっくさっくを背負っての南雲【總次郎】旭川盲校長。南雲總次郎
 神奈川県二宮駅付近の事故で死傷者を出した列車に乗り合わせてコブ二つで厄を逃れて来たという沢田【正好】栃木盲校長。
数日来の降雨で明石・神戸間の土砂崩れで徒歩覚悟を決めてきたという瀬能岡山盲、やひろ広島盲両校長ら62人が出席。
 【以下略】

 当時の父親は弱視で渡良瀬川の南の東部線の足利市駅より橋を渡り通学し、全盲の生徒を誘導したり、運動の思い出を語っていました。
 野球は、掌にボールを置いて打つものやその後にバットで打つもの、ふっとベースボールなど盛んにやっていたといいます。父親がバットで打ったボールが職員室のガラスをよく割ったと自慢していました。

 通学の途中で空襲に当たった思い出もあるようです。
 太田市・前橋市には、隼・夜間戦闘機月光九五式艦上戦闘機などの飛行機を制作していた中島飛行機工場があり、度々の空襲がありました。

 また、卒業の昭和23年4月から「あはき法」が改正となり、父親もこの直前の改姓前後の過渡期に当たりました。
 父親は22年12月に法律改正前の試験を実施したことが印象にのこっているようです。同じ卒業生と不安になりながら試験に臨んだということで、今も昔も受験はいやなものです。

 更に、群馬もうの先輩・田島始先生は、父親の足利盲の恩師。田島先生が群馬盲に転任して妹の恩師となっています。
 私が拙宅を求めましたら、偶然にも田島先生のお宅の道を隔てた北側となりました。何という縁の深い先生でしょうか。

昭和28(1953)年1月
 栃木県の盲聾児調査
 栃木県教委調査統計室は、この程、盲聾児の就学調査を実施。  盲62人、聾246人に対し、就学している者は、盲33人、聾129人。

昭和29(1954)年8月
 【栃木盲教諭】鈴木【斑平・ひょうへい】氏 留学
 栃木盲教諭鈴木斑平氏は、アメリカのニーヨーク盲とハンター大で盲学校における職業教育と宗教的情操教育の実情調査、ならびに盲学制のスポーツについて研究するために、27日出発。

昭和31(1936)年7月
 鈴木【斑平・ひょうへい】氏帰朝
 アメリカニューヨークのハンターカレッジなどに2年間留学していた栃木盲教諭鈴木斑平氏は、マスターズ・オブ・アーツの学位を得て、21日帰朝。

 鈴木斑平先生については、「栃木盲学校同窓会ホームページ」に詳細な紹介があります。興味のある方はご確認下さい。

 偉大な先生がどこの学校にもいらっしゃいます。

 
 次に紹介するのは、第三回帝国盲教育会・第一回日本聾啞教育会総会記念として作成された、森清克『大正十四年度 盲聾啞学校職員録』(大分県立盲唖学校、1925年、大阪府立大阪北視覚特別支援学校所蔵)に記載されている宇都宮盲、足利盲の職員録である。
 この年は、盲学校の理療化の教員組織・日本盲教育会(灸日本盲教員同志倶楽部)が帝国教育会に吸収された時でもあった。

一二 私立宇都宮盲啞学校
栃木県宇都宮市旭町二丁目
大正十四年度経費予算 三、五四二、九四〇
校長  正七位勲六等 篠崎 秀吉
教諭  五〇円  長橋 出来助
訓導  四〇円  松田 元一郎
〃  三〇円  朝 倉
嘱託教員  矢口 久四郎
〃  神戸 主馬多
〃  平井 ヒサ
校医  渡 甚三郎

一三 栃木県立代用足利盲学校
栃木県足利市本城三丁目二一二六
大正十四年度経費予算 三千四百四十円
校長  七〇円  澤田 正好
教諭  五円  栗崎 隆輔
訓導  七〇円  赤坂 茂男
〃  五〇円  上野 由二郎
教員  三〇円  松村 キミ子

 昭和15年に群馬で開かれた帝国盲教育会第12回総会並研究会 (現在の全日盲研)に参加された栃木県立盲唖学校
の先生は、
沢田 正好 
小川 龍(亀カ)太郎 
武田 正 
植竹 音吉 
山口 善三 
茂木 清作 
荻原 勘次郎 
小川 正一 
瀧澤 重代 
 ※この大会には、全国から(群馬も含めて)点字大阪毎日新聞社・日刊東洋点字新聞社・ライトハウス・大阪盲人協会・帝国鍼灸院報社61の学校・機関61、161名の参加があった。
 失明傷痍軍人教育所の芹沢勝助・近江二作・佐々木考三郎の参加もあり、遠く植民地にあった大連盲唖学校の兼松錦次、台北州立台北盲唖学校の井上一も参加しており、どのくらい時間をかけて来校したのか想像もできない。



 ◆大正デモクラシーに燃える足利
 大正期、点字による投票が盲人の権利闘争の一つになっていた。
 阿佐博氏は、「時代を読む28 点字投票の実現を目指して」(障害保健福祉研究情報システム)に、以下のようにまとめている。

明治23(1890)年、第1回の帝国議会が召集された。明治憲法下における近代立憲国家がここに歩み始めたのである。しかし、その際の議員を選んだ選挙有権者の資格は、直接国税15円以上を収めた25歳以上の男性に限られており、その数は総人口の1.1%に過ぎなかった。
時は下って大正デモクラシーと言われる時代を迎えると、商工業者や農民など、一般労働階級の人々が目覚めて、社会運動に立ち上がり、同時に、すべての制限を取り払った普通選挙の実現を求める運動を始めた。また市川房枝や平塚雷鳥らに指導された婦人たちが、女性の選挙権獲得運動を展開するようになっていた。その普通選挙実現を機に、点字投票も有効にしたいという視覚障害者が現れたのである。
この運動に最も熱心だったのは愛知県在住の失明者たちだった。大正12(1923)年12月に、長崎照義らを中心とするリーダーたちによって、「点字投票規制連盟」が組織されたのである。この連盟の呼びかけによって、翌大正13年1月には、全国から2千名に余る失明者が名古屋に集合して「全国盲人大会」を開催し、点字投票の有効性を世に訴えた。この大会において「我らは盲人、点字投票有効の実現を期す」との宣言決議文を採択し、これを発表するとともに、その大会の名をもって、点字投票有効のための請願書を貴衆両院へ提出したのであった。そればかりでなく、名古屋に滞在中の尾崎行雄を旅館に訪ね、点字投票について直接訴えたというエピソードも残っている。
さらに、この規制連盟から全国各地の視覚障害者団体に対して、次の4項目にわたる勧告状を発している。
(1)内務大臣宛、点字投票有効に関する請願書を提出すること
(2)点字投票有効運動のための団体を各県に組織すること
(3)各県下の貴衆両院議員を訪問して、点字投票に対する理解を求めること
(4)県下各地で行われる政談演説会に失明弁士を出演させ、点字投票に関して民衆にも訴えること
このような運動が実って大正14(1925)年、第50回帝国議会において、普通選挙法の成立と共に婦人参政権に先立って点字投票は認められたのであった。
実際に衆議院選挙で点字投票が行われたのは、昭和3(1928)年のことであった。
   ーーーーーーーー

 大正14年の普通選挙法下の点字投票有効の公布の下、
 府県会議員、市町村会議員の選挙にも当然、点字投票が有効と思っていたところ、いよいよ市町村会議員選挙に直面した時、内務省から地方制が改正されなければ駄目だというお達しがあったので、いささかの有効推進運動があったが、普通選挙のような運動が盛り上がらなかった。そのため、昭和3年になるまで時勢に任せてしまったようだ。

 この運動の中、足利の様子を『点字毎日』106号に、
  大正13(1924)年5月15日
 総選挙における点じ無効の状況
 足利市の盲人も、宇都宮の盲人と提携し、点字投票運動を興し、代表者中島文太郎、他2名は、6日、栃木県庁に赴き、種々陳情した。

 『点字毎日 激動の80年1巻/大正13(1924)年6月
  関東盲人大会
 足利市盲人点字投票有効期成同盟会主催関東盲人大会は、27日、足利市で開催。マッサージの晴眼者の受験を制限するよう決議。

 『点字毎日』113号 大正13(1924)年7月3日
 足利点字有効同盟総会
 関東でも点字投票問題の世論を 大いに喚起すべく、足利し盲人点字投票有効期成同盟会主催の関東盲人大会が去月27日午前8時より、足利市の園芸館で開かれた。長島文太郎氏議長に選ばれ、点字投票問題の他、
 1.各地県社会課及び学務課で点字講習会を開く事。
 2.マッサージの晴眼者受験者を制限する事等
 多少の修正を加え議決した
 午後は、宣言及び決議文「吾人は、盲人の選挙権行使上、点字容認の実施を期す」を発表し、15名の実行委員を挙げ、後、5分間演説に移り、盛んに怪気炎を上げた。  "

  『点字毎日』114号  大正13(1924)年7月10日
 足利市で開かれた関東盲人大会の決議により、長島文太郎氏他数名の委員も6日、上京各方面に向かって点字運動を行っている。

  『点字毎日』117号 大正13(1924)年 7月31日 足利市でも最近、点字投票問題が頻りにやかましくなってきたので、全国各都市に紹介した結果、来年3月執行される市会議員選挙から、有効と認むる意向である。

  『点字毎日』120号 大正13(1924)年 8月21日  栃木県足利鍼按組合では、点字投票運動のことから、端なく組合内に意見の衝突を起こし、点字投票承認期成同盟会側では、長島会長を始め会員全部組合を脱退する事になったので、松永組合長は、足利警察署にこれが善後策につき申し出た。警察では、去る8日、両代表を招き、種々仲裁の労を取り、結局、無事解決した。

  『点字毎日』127号 大正13(1924)年10月9日
 長島氏当選:
 既報の如く、足利点字投票期成会長・長島文太郎氏は、足利織物同業組合代議員選挙に立候補し、大いに戦いて、目出たく当選した。

  『点字毎日』143号 大正14(1925)年 1月29日 組合だより  栃木県足利氏では、来る3月、市会議員選挙があるので、足利点投期成会では、点投運動につき、目下協議中。

  『点字毎日』145号 大正14(1925)年 2月12日  足利市会議員改選に際し、点投問題がやかましく持ち上がり、当局では目下、主無省に照会中であるが、足利氏としては、大垣市にも先例のあること故、有効と認めているが、現行法からすれば、例い抵触が承認するも有権者が万一1名の場合には形式は無記名投票であっても、事実は記名投票と同じ結果となるので、明らかに現行法に抵触することになるので、主務省がどう回答するか注目されている。

  『点字毎日』148号 大正14(1925)年 3月5日  点投無効:  目下、議会で問題となっている普選案には、点投を有効と認むる1条項があるのに、今度、行なわるる足利市や奈良市の市会議員選挙には、点投を無効とする旨、各県当局より通知があったと。また、福井県でも県下市長村会議員選挙に点投を無効とする旨、県より通知があったと。

 平田勝政「大正デモクラシーと盲聾教育 ―「盲学校及聾唖学校令」の成立過程の分析を通して」(『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第37号、21~44、1989年)の中に、具体的な様子が掲載されている。
 なかなか足利の運動は激烈であったことを伝えている。
 【第七回全国盲人大会(1922.2.18~20)】(於・東京神田三崎会館)は、第六回大会(1920.6.19~20)で結成された「帝国盲人聯合団」が呼びかけたものであった。その大会開催にあたりマスコミの注目を集めたのは、沢田正好、長島文太郎らを中心とする「足利盲人革新団」の去就であった。この盲人団体中の急先峰である「革新団」は、大会開催数:日前から足利で示威運動を展開し、その余勢を駆って大会の前日(2.17)東京に乗り込んだ。すなわち、一行12人(内4人は付き添い)は浅草駅に着くと同時に、「『点字投票を認めよ』『盲人にも義務教育を授けよ』『足利盲人革新団』と大書した長慌を押し立ててプラットホームから」降り立ち、自動車に分乗して市内を練り廻し、窓から次のような文面の宣伝ビラを散布した。
 「一.盲人にも義務教育を授けよ、吾等も亦忠良なる陛下の赤子である、国民中野教育者の存する事は国家の恥辱ではないか、宜しく吾等盲人にも一般国民と等しく義務教育を授けよ
  一.盲人の点字投票を有効ならしめよ、吾等盲人も優良なる国民ではないか、若し然らずんば寧ろ死を与へよ」
 そして、大会当日(2.18)には、沢田正好(但し、「都新聞」は長島文太郎と報じる)が、議事の途中で、「日程を変更して是より大挙、文相、内相に直接談判せよ」と叫んで緊急動議を提出し、議場内を騒然とさせた。しかし、採決の結果「百五十野選」対「十六名」で否決された。このことが示すように、「革新団」には、当局に対する強い不信感と同時に、「期成会」の運動の手ぬるさへの反発があった。急進的な「革新団」の動きは小数派であったとはいえ、盲人運動に強い刺激を与え、その主張と行動は後々の語り草となった。
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 ◆忘れ去れた栃木県内の盲学校
 筆者は、全国の盲学校の統廃合を探求していて、200を超える盲学校・訓盲院・講習所・日曜学校・私塾を集めてきた。
 では、栃木県内に、忘れ去られた盲学校はないのであろうか。
 (1)宇都宮盲学校の前身となった私立下野盲唖学校・私立野州盲学校
 ◎私立下野盲唖学校…石塚茂吉の他、木村信十郎・今井長逸・小池伝平・豊田与三郎・大吉亀吉らが下野盲啞学校の設立を計画し、明治三十八年七月七日認可申請を出した。
 ◎私立野州盲学校…明治三十八年六月十五日、上野鉄平(宇都宮市小袋町)他十五名が私立野州盲学校の認可申請を出した。発起人は富田宗之助・笠倉又一・細島信吉・福田シカ・日下田岩吉・西村善吉・三品豊吉・相馬十治郎・黒崎次郎・山崎峰松・高橋益三・堀江彦次郎・戸室寅一・大島喜八・高村亀吉等の盲人であった。これらの人が各々寄付金を出し合い準備を始めた。
 そして二校は明治三十八年十二月二十七日同時に設立認可された。
 ※栃木県教育史 第四巻より
 (2)日光盲学校は、日光市、野部丑太郎という盲人により明治40年(1907).に創立された。
日光盲学校は、栃木県立盲学校の『八十年史』(1988年)のP2に出てきます。
 下野私立教育会雑誌、明治40年学事関係職員録に、「日光盲学校」の名が見える。設立者は日光市、野部丑太郎とある。野部は強度の弱視者で、鍼術を指導し、近所の人から先生といわれていたようである。しかし、特に学校の形をとったり、他の人が来て指導を受けたりした様子はなかったようで、恐らく他の地方でも見られた家塾のようなもうか、または同業者の研修の場であったろうと推測される。
 (3)大田原鍼灸按摩学校・那須訓盲院
『栃木県社会事業史』に、
「大田原では、明治四十五年四月、松本兼吉らが発起人となって講習所を開設、
当時、上町にあった岡医院(場所不明)の一部を借りて教室とし生徒六名を収容した。
これが後大田原医師会の援助を受けて、大田原鍼灸学校となった。直接学校の世話に当たったのは岡医師で、次いで田崎良、次に医師塩入儀内であった。
昭和二年、 塩入医師が郷里長野県に引き揚げるに及んで、学校を閉鎖するのやむなきにいたった。 この学校の教員には、藤田新一郎(業者)・上野証空(東京盲学校師範科鍼灸按科卒業)等がいた。」
大田原鍼灸按学校の閉鎖後は、塩入医師の希望で山田武という業者が自宅で徒弟の教育をはじめ、これが「那須訓盲院」というそうです。生徒は四名で、昭和六年まで続いて閉鎖された、と記載されています。
 ※大田原私立図書館レフアレンスの回答より。

 ◆石塚茂吉
 先にも述べた下野盲学校の創立者の一人である石塚茂吉について、
 『点字毎日』64号/大正12(1923)年7月26日には、
 宇都宮市では、今回按摩組合を組織することに決定し、先日、田中孫三郎、石塚茂吉両氏が、警察署長と協議した。
 『点字毎日』103号/大正13(1924)年4月24日には、
 宇都宮鍼灸按マッサージ組合では、点字投票有効の請願をすべく、田中、石塚、ひげた、島田、宮崎、かさくら、堀内、津のの8名の実行委員を挙げ、近く市長並びに県知事に請願する筈。  
 『点字毎日』106号/大正13(1924)年5月15日には、
 総選挙における点じ無効の状況  宇都宮鍼灸按組合では、去る3日、点字投票宣伝演説会を開く筈であったが、都合上中止し、翌4日、幹部の石塚茂吉・田中孫四郎・宮崎ゆーきち氏らは、組合員数十めいと ともに「点字投票を生かせ」と、記した赤旗を押し立て、市内を練り歩き、「点字投票有効の実施を、6千万の 同朋に懇願す」と、記した檄文数万枚を散布した。
 『点字毎日』113号/大正13(1924)年7月3日
 宇都宮市盲人強硬会でも、この際、大いに点字投票運動の期成を上ぐるため、石塚・宮崎両代表は「点字は、符号にあらず」と記した宣伝ビラを各所に撒き、世間の世論喚起に努力している。   

 この内容について、京都の岸博実先生より提供いただいた資料を紹介する。

過般の総選挙に際し各府県より内務省に向け点字投票の可否を照会せし処同省より点字は符合なれば投票無効の省令を発せられたりと各新聞紙上に散見せり抑も符合とは如何なるものか如何なる場合に用ゆるものか察するに伝言事務上通信の迅速を要する為めに用ゆる符号の如きものを指すか此の符合を以て点字と同視するか伝言符合なるものは殊更に伝言に耳用(ママ)するものにして公然一般の共通文字に非ざるなり然るに点字を以て之と同視するに至ては誤謬も又実に甚だしと云はざるを得ず夫れ点字なるものは一世紀前に仏国に於て発せられてより以来盲人の文字として各国に伝播せられつゝあり又我国に渡来せしより既に数十年の久しきに及べるも盲人の怠慢と当局の措置其宜しきを得ざるとにより遅々として普及せざりしは寔に遺憾の極と云はざるを得ず然り而れども今日は既に盲人を教育する必要機関として全国盲学校に於て此の点字を以て教育しつつある事は隠れもなき事実なり然るに此点字に依つて教育せられし各盲人にして議員選挙に臨み点字は符合なりとして之を排斥するに至ては寧ろ教育を授けざるに若かず実に学校に学ばざるの勝れるをや此の点字なるものは其の形に於て異なるも其用法に至ては仮名五十音と毫も異なるものに非らず片仮名にして投票に差支へなき限りは点字投票も又有効と認むべきは火を見るより明かなる事実なり尚ほ点字の符号に非らずして文字たるの実証を挙れば恐れ多くも宮内省に於かせられて点字詠進歌を御採用遊ばさるるに見るも明かなり然るに内務省は点字を符号なりとして盲人の投票権を没却するに至ては日本国存在の限り日本盲人なる者は天与の選挙権を行使する事能はず是れ実に大正の奇現象にして日本文明の一大仮瑾(ママ)と浩嘆せざるを得ず此の故に盲等黙するに忍びす世上に向って点字は純粋の文字たる事を告白する所以なり
大正十三年六月
教育に光を掲げた人びと第二集(栃木県連合教育会 昭和五十九年十一月二十九日発行)より 本県特殊教育の創始者 石塚茂吉先生 九 点字投票運動

 『点字毎日』151号/大正14(1925)年3月26日には、
 宇都宮盲唖学校の前身たる下野盲唖学校の創立者石塚茂吉氏わ、多年同地の盲人のために種々尽くしてきたが、丁度、今年わしの開業以来50年。下野盲唖学校創立20ねんに相当するので、この機会において、氏の教えを受けしわたべ・鶴見・松田の諸氏発起となり、士に関係 ある者より寄付金を募り、点字製版機を買って氏に贈ることとなった。

 『点字毎日』153号/大正14(1925)年4月9日には、
  点投祝賀会
  神戸盲人革新会では、問題の普選案も、去月29日に議会を通過し、我らの宿望たる点字投票もいよいよ有効と認めらるることになったので、去る2日、同志橘座で、その祝賀演説会が開かれた。今関神戸盲学校長、始め革新会の原田、の下、フジタ、矢田、しだの諸氏、こもごも立って万場の気を吐き、改正選挙施行細則決定以前に、本会より代表者を出し、、協議に参加するように運動したいと動議を持ち出し、非常なる鼻息であった。
 愛知盲人点投有効期成連盟でも、全国的の点投有効題祝賀会を、来る中旬、名古屋市で開催すべく、目下準備中。
 また、宇都宮市盲人向上会では、「点投有効万歳ああ愉快なるかな、盲らが熱望せし点投有効節は、普選案通貨と共に実現せり。云々」と記したビラ数万枚を市内に散らしね大祝賀宣伝をやった。
 しかして、石塚、堀内、田中、宮崎4代表は、本社に宛てて点投有効に関し、熱き感謝状を贈ってきた。
 いまや全国の盲人は、点投有効で、大喜びしているのに、福井県では今度の町村会議員選挙に点投をあくまで無効にすると頑張っているので、同県の盲人は団結して、大運動をやっている。"

 『点字毎日』195号/大正15(1926)年2月4日には、
 宇都宮盲人強硬会の石塚茂吉氏は、予て同地盲人会に貢献するところ少なからず。今回また、自宅の一部を提供して点字図書館を設立する計画。

 石塚氏は、学校内にとどまらず県内や点字投票有効運動などにも尽力していた姿が残されている

おわりに
 昭和の建築物も保存しなくてはならない時代になり、盲学校の資料も散逸している。
 今回は、文字だけでなく、『全国盲学校校歌集』(飯沼録音所、1979年)から
 近代の盲人達の奮闘を知れば知るほど、その苦難に涙すると供に、そのエネルギッシュな躍動に感銘を受けました。
 両毛に盲学校が何故4校も創設されたのか?理由ははっきりしませんが、絹織物の生産があり、資金・人材が集まり底辺で支えていたのかとも考えてみました。桐生は、冬至県内の3番目の大都市で、現在の太田市・伊勢崎市はこの大正期以降の発展した町といえます。
  どう証明できるのか分からない。4校の創設と統廃合は様々な理由から、群馬県は前橋の群馬県立盲学校、栃木は宇都宮の栃木県立盲学校に統一されていった。
 現在の視覚障害者のおかれている状況は決して満足する段階ではないが、ここまでの環境整備には多くの知らざる盲人達の自らの奮闘があったらばこそとも言えます。原稿を書き上げるにつれ、また私も奮闘しなくてはならないかとを感じました。

2014/4/26栃木盲同窓会に投稿
2014/6/17改訂
2021年11月25日改定

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