初志貫徹特別増刊号
「憲法第9条は日本の宝」



  皆様、こんにちは。今回は、私の所属する、日本キリスト教団四条町教会の宮本栄三先生のご了解をいただき、講演会での原稿を「とちのみ会」に、掲載させていただくことになりました。選挙が終わり、これから憲法についての議論が活発になると思います。ご一読いただき、平和について、憲法について、共に考える時となれば幸いです。快く了解してくださいました宮本先生に、心より感謝申し上げます。
 宮本先生は、元宇都宮大学教授(専門は憲法学)、現名誉教授です。以下に、抜粋を紹介します。
 それでは、皆さん。憲法9条、どのように、つくられたのでしょうか。
 いま改憲論をいう人たちが言いふらしているのは「押しつけ憲法論」です。敗戦直後に占領軍総司令官マッカーサーによって押し付けられた憲法だから、自主憲法につくり替えねばならないという主張です。
 私たちは、制定当時のことをよく知らなければなりません。終戦の時、ポツダム宣言を受領した日本は、憲法を改正しなければならなくなります。ポツダム宣言には、憲法改正との関連で3つの重要なことが書かれています。
(1)軍国主義を取りはらうこと。
(2)民主主義的傾向を復活し強化すること。
(3)言論、宗教、思想の自由、基本的  人権の保障を確立すること。
 軍国主義の否定、民主主義、人権尊重の三原則です。これに合致する憲法をつくらねばならなくなりました。
 戦後、最初の内閣は東久邇宮内閣でしたが、自分たちの手に負えないと、3ヶ月ほどで辞めてしまいました。次の内閣が幣原喜重郎内閣です。幣原さんという人はアメリカやイギリスに知人の多い有能な外交官でした。戦争中、軍部を批判することを言ったので、東条の怒りを買い、引退させられていました。そして終戦後、総理大臣になったのです。この幣原首相が9条に大きな影響を与えたのです。これからそのことを、お話します。
 終戦直後、政府も各政党も国民も憲法草案をつくりました。特に重要なものが、二つ出来たのです。一つは政府案です。もう一つは民間の憲法研究会案です。幣原内閣の松本国務大臣が委員長になり、改正案つくりに取りかかります。出来上がった政府案が、毎日新聞にスクープされ、1946年(昭和21年)の2月1日の新聞に載ったのです。それは、ポツダム宣言を受諾した上でつくる憲法とはとても言えない内容のものでした。
 帝国憲法の言葉をところどころ変えただけ。たとえば帝国憲法第3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」の「神聖」を「至尊」(至って尊い)といい変えて「天皇ハ至尊ニシテ侵スべカラズ」としてありました。国民主権とか、人権とか、平和というような言葉はどこにもなかったのです。
 マッカーサー司令官(GHQ)は、これを見て日本政府には憲法改正の意思がない、いや意思がないどころか、近代憲法をつくる能力もないと判断したのです。当時、GHQは連合国の中で意見対立する対日占領政策について苦心しており、憲法改正を急いでいたのです。
 そういう中で、司令部に、ホイットニー准将を中心に弁護士のラウエル中佐らが、委員会を設け、改正案をつくったのです。この時、ホイットニー委員会が参考にしたのは「憲法研究会」という民間団体のつくった改正案です。ちょっとこの研究会のことをお話します。
 この憲法研究会は、終戦から3ヶ月後、1945年(養和20年)の11月5日に第1回会合をし、自分たちの手で憲法をつくろうと活動し始めました。メンバーは70歳代から40歳代の人たちで、室伏高伸、森戸辰雄、高野岩三郎、馬場恒吾、鈴木安蔵など7人でした。7人に共通しているのは戦争中に軍部や天皇制を批判したとして治安維持法により、起訴されています。こういう経験をもつ憲法学者、政治学者、労働運動の指導者たちです。
 7人のうち、最も重要な役割を果たしたのは、41歳の憲法学者・鈴木安蔵でした。高野岩三郎は、天皇制を廃止して大統領制にしようと主張しました。室伏高伸は天皇制は残して、主権在民を唱おうと言いました。やがて、全員がそれに賛成しましたが、そうすると、主権在民と天皇の地位をどうするかで、苦心したのです。鈴木安蔵が、天皇制についての案つくりを任され、「天皇ハ専ラ国家的儀礼ヲ司ル」という案を出し、他のメンバーからも賛成されたのです。
 これが、今の憲法の天皇は日本国の象徴であるということになります。さらに、この研究会案には、森戸辰男が提案した生存権の規定(今の憲法の25条)も入っていました。
 こうして、憲法研究会案ができたのです。終戦の年の12月27日でした。GHQのラウエル中佐らが、この案を見て、これは民主的な良い案だ、これなら受け入れられると評価したのです。そして、この案を参考にして「マッカーサー司令部(案)」がつくられたのです。
 皆さん、忘れてならないのは「戦争放棄」です。9条です。これは、いったい誰が言い出したのでしょうか。改憲論者たちはそれはマッカーサーに決まっていると言います。ところが違うんです。言い出したのは、幣原首相でした。幣原さんは、終戦翌年の1月24日、マッカーサー司令部へ個人的にマッカーサーを訪問しました。司令部は、皇居のすぐ東、お堀の外側に第一生命のビルがあります。ここです。いまもビル の8階は当時のまま保存されています。幣原首相は、ペニシリンを貰ったお礼という形で(当時、日本にはペニシリンがなかった(それを貰ったお蔭で、肺炎が治ったというお礼です)。個人的にマッカーサーを訪ねたのです。そして、言いました。戦争ばかりしてきた日本が、世界の信頼を取り戻すにはどうしたらいいだろうか、いま進められている憲法改正案の中に、戦争の放棄と軍隊を持たないことを入れたいと、提案したのです。
 これを聞いたマッカーサーはビックリしたそうです。「自分は軍人だから、軍隊をもたないということは考えたことはなかった。しかし、私ほどに悲惨な戦争をしてきた軍人はいないだろう。だから、貴方の気持ちもよく判る」と言って、幣原の提案を受け入れ、さっき、言いましたホイットニー委員会に渡した憲法改正三原則の中に、戦争放棄を加えたのです。
 皆さん、この幣原・マッカーサー会議のこと、聞いたことありますか。多くの方は、初めてでしょう。教科書に書いてありません。しかし、これにはちゃんと根拠があるのです。幣原喜重郎の書いた「外交五十年」という本、これは読売新聞社(1951年)からでています(現在は中公文庫)。そこに「軍備の全廃と民主主義に徹した政治に変えねばならないと固く決心した」と書いてあります。
 もう一冊は「マッカーサー回想録」(1964年)です。これは朝日新聞社からでています。両方の本に、この日の話のことが、きちっと書いてあるのです。マッカーサーは「幣原氏の軍備全廃論を聞いて、腰が抜けるほど驚いた」、「この時ばかりは息も止まらんばかりだった」と書いています。そして「戦争を国際間の紛争解決には、時代遅れの手段として廃止することは、私が永年情熱を傾けてきた夢だった」と言うと今度は、幣原氏がビックリした。別れるとき「幣原氏は顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて、世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかも知れない。しかし、百年後には私たちは預言者と呼ばれますよ」と言った。こんなに書いてあるのです。
 皆さん、改憲論者はこういう話、知っていても、話さないのです。占領憲法だ、マッカーサー憲法だと非難できなくなりますからね。
 2005年(平成17年)8月14日の朝日新聞で明らかになったことですが、8回はA級戦犯として、終身禁固刑を受けた白鳥敏夫氏(駐イタリア大使)が、1945年(敗戦の年)の12月10日付手紙を拘置所から、吉田茂外務大臣に送り、新憲法の中に戦争放棄や、軍備撤廃を盛り込むべきだという提案をしているのです。A級戦犯の一人ですが、国を破滅させた責任を感じたのでしょう。この手紙は、マッカーサー司令部に検閲のために留められ、翌年1月20日、吉田外務大臣の手にわたり、幣原首相がこれを見て、1月24日、マッカーサー・幣原会談になったと推測されます。
 こうして、マッカーサー司令部の案ができると、ホイットニー准将らは、2月13日、外務大臣公邸を訪ね、司令部案を示し、これをもとにして、憲法草案をつくり、もし拒否するなら、これを直接、日本国民に示すと言ったのです。先に国民に見せられると、政府としては困ります。こういう経緯があったので、改憲論者たちは「押し付けだ」というのですが、司令部の強い指導がなければ、当時の日本政府には、ポツダム宣言を満たすような改憲案などできなかったのです。
 こうして、司令部(案)に基づいて、政府(案)がつくられ、3月6日に国民に公表されました。新聞や政党、世論はこれを大歓迎しました。皆さん、その年の5月27日の毎日新聞に、戦争放棄についてのアンケート結果が、載っているのです。戦争放棄条項必要が69.8%、不要が28.4%、いづれでもないが1.8%です(合計99.0%)。ほぼ70%が戦争放棄賛成、反対がほぼ30%と考えて宜しいでしょう。国民が、どんなに戦争放棄を歓迎したかわかります。




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