第1話 私の誕生と盲学校入学
1951年の5月、私は栃木県宇都宮市の小さな町に9人兄弟の7番目として生まれました。本来ならばラッキーセブンということで、大変幸運のはずなのに、その兄弟のうちで、私だけが生来の盲人として、この世に出てきたのですから、両親はどんなに悲嘆に暮れたことでしょうか。
ところが、我が家の中でもさらにアンラッキーとしか言えない兄弟がいたのでした。というのは、その9人兄弟のうち、4人が幼くして、栄養障害や病気のために死んでしまいました。ですから、私が小学校に入る時に、気がついた時には、5人兄弟の4番目ということになっていました。1番上が姉で、それから4人が男ということで、私はその5人兄弟の4番目ということでした。しかし、生き残った5人兄弟の中で、目が見えないというのは、私一人だけということには、何の変化もありませんでした。
7歳になると、家を離れ、県立盲学校に入学するために寮で生活をするようになりました。
1958年(昭和33年)4月7日、入学前夜、母親は「おけぼ」(私の幼児期の呼び名)、明日から学校に行くんだぞ。泣かないで、しっかり頑張れよ。」と、言われたことだけは微かに記憶にあります。そして翌日、宇都宮の今泉新町から東武宇都宮にバスで行き、そこから東武線で、江曽島という所に、生まれて初めて電車に乗りました。
江曽島は、電車に乗って数分の所にありました。さらに数分歩いて盲学校がありました。入学式は、校庭で行われました。優しい女性の先生から「名前を呼ばれたら、大きな声で返事をするのよ。」と言われました。後で分かったのですが、その先生は、私たち1年生の担任の、小牧欣子(きんこ)先生でした。
入学式のことは、皆で難しい歌を歌っていたことしか憶えておりません。私は、名前を呼ばれたとき、元気に返事をしたと思います。体は小さいのですが声だけは大きかったと思います。
さて、ここで私のクラスメートを紹介します。1年生は4人でした。日光市在住の増田薫君、埼玉県柳生町の橋本京子さん、宇都宮市大塚町の吉沢幸治君、そして私でした。吉沢君は眼鏡をかけた弱視でした。増田君は当時はかなり見えていた様でしたが、小学4年生の頃に手術をしましたが、全盲となりました。橋本さんは、1年生の頃は、指数50センチくらい見えていましたが、私と同様、自然に視力を失っていきました。私は、緑内障でしたが、中学1年生までは指数40センチと言って、目の前40センチで指の本数を数えられる程度は見えました。この年に、私たち4人と共に、盲学校に新任として着任されたのが、旭明二先生でした。
1958年には、長嶋茂雄さんが、立教大学から読売ジャイアンツに入団しました。我が家では、私が生まれた頃から、父がラジオで、野球、相撲をを聞いていたので、4、5歳の頃から、ジャイアンツの川上哲治、別所投手、藤田、ピッチャーの馬場(後にプロレスラーになりました)が、それらの名前をラジオで聞いた記憶があります。また、その頃はラジオ全盛の時で、歌謡曲が朝から晩まで流れていました。
入学して間もなく、担任の小牧先生が「阿久津君、大好きな歌を歌ってごらんなさい。」と言われたとき、「はい、夕焼け空がまっかっか、とんびがくるりと輪をかいた…」と、三橋道也さんの歌を得意になって歌い始めました。驚いた小牧先生は、「あのね学校では歌謡曲を歌ってはいけません。それは大人の歌です」と、言われてしまい、私は、「毎日、家で歌っていた歌を、どうして学校では歌ってはいけないのかな?」と思ってしまいました。当時の流行歌、春日八郎の「別れの1本杉、おとみさん」、南治夫さんの「チャン知己おけさ、おおい、船形さん、ゆきの渡り鳥」等は、子どもたちもみな知っていました。私は三橋道也さんが大好きで、意味も分からずに、哀愁列車、林檎村から等を近所の人たちに、司会者の言葉まで真似て話して歌って誉められていたという子供でした。それが、入学してから、チューリップ、結んで開いて、靴がなる等の歌に変わって行きました。小牧先生にとっては驚きの様で、私が小学時代、「阿久津君は、1年生から歌謡曲ばかり歌っていたね」と、言われていたことを覚えています。
★メモ★
1958年8月25日、日進食品からインスタントラーメンが発売されるようになった。
私たち4人は、小学1年生から2年まで、小牧先生に担任をしていただきました。小牧先生には、私たちとほぼ同年代のお子さんがいましたので、年齢は、30代始めの頃と思いますが、私たちにとりましても、先生であり、お母さんのような感じでした。当時は、現在のような生活訓練や自立活動等という授業はありませんでしたから、それに家庭教育と言っても、ほとんど何も家庭で教えてもらうようなことは皆無に近いものがありました。私の家では、農家でもあり、昔からの言い伝えで、障害のある子どもが生まれるのは、その家に、何か罰があたったとか、先祖を大切にしないから、障害のある子どもが生まれるのだ…といった考えが、一般的に考えられておりましたので、障害者がその家にいることも隠していたことが良くあり、盲学校の先生達が家庭訪問をしても、「おらの家には体の不自由な子供はいないよ。いても、一生おらたちがめんどうをみるから心配しなくてもいいんだよ、と、先生方は門前払いされることが多かったと聞いています。
小牧先生は、私たちにひとつひとつのことを、丁寧に教えてくださいました。まずは点字の指導です。橋本さんは、寄宿舎の生活に慣れないせいか、最初の1週間は、「家に帰りたいと泣き続けていました。増田君は、寄宿舎生活にも直ぐになれて、順調に勉強に取り組んでいました。吉沢君も真面目に勉強に取り組んでいました。問題なのは私でした。点字板に不器用なために、点字用紙をはさむことがなかなかできませんでした。クラスでは一番時間がかかったと思います。この不器用さはずっと続きました。経験不足のためか、指を使っての動きがとても不自然でした。しかし、一月、二月と経つうちに、点字を覚えて書くことが出来る様になりました。点字を書くことでは、吉沢君が一番速かったと思います。私は、点字の本を読むことが慣れるにつれて、好きになり、読むことについては習得が速かったかと思います。そして、空き時間には、図書館に若い司書の先生が、私を可愛がってくれたので、いそいそと通うようになりました。本を借りるのと、優しい司書の先生に会うのが楽しかったのです。司書の先生が、読書への意欲を引き出してくださいました。
その年の国語の本の題名が、「4人の良い子」という、私たちのクラスにぴったりの表題でした。その努力が見とめられたのか、小学2年生の時に、ある日、校長室に呼ばれて、本の朗読をさせていただきました。県の教育委員会の先生かと思いますが、小牧先生は「偉い先生の前で読むのだから、しっかり読みなさいよ。」と、私に激励してくださいました。
小牧先生は、全教科を教えてくださっていたように記憶しています。先生は、後で聞きましたが、女子師範部を卒業していたと言いますから、今でいう教育学部の出身だったと思います。音楽は、先生がオルガンを弾いて、三拍子の時は、1拍目は胸を叩き、2拍、3拍の時は、カスタネットを叩いて「胸タンタン、胸タンタン」と教えていました。
時間を見つけては私たちを、外に連れ出してくださいました。江曽島は、1歩外に出ると、商店街でした。パン屋さん、米屋さん、魚・肉屋さん、映画館などが並んでいてとても活気がありました。
ある時、小牧先生は、私たち4人を連れて、江曽島駅から東武電車に乗って、宇都宮駅に行きました。そして、オリオン通りに入り、山崎デパート(後に火災のために焼失)に行き、アイスクリームとバナナをご馳走してくださいました。それは先生のポケットマネーからだと思います。アイスクリームの美味しかったこと、そしてバナナを食べたのは、この時が、私には生まれて初めての経験でした。小牧先生は次のように言いました。「バナナは日本では獲れないのよ。台湾から輸入しているのです。みんな良く味わって食べてね」。当時、バナナは高級品でした。1本50円だったと記憶しています。現在の値段にしたらその10倍に相当すると思われます。食堂での蕎麦一杯が30円だったと思います。バスや電車の料金は、子供は5円で乗れました。小牧先生は、鼻のかみかた、掃除の仕方、挨拶、お礼の仕方、言葉の使い方、さらに「おしっこの後には、おちんちんをプルプルと振るのよ!」まで、母親が子供に教えるように懇切丁寧に接してくださいました。何よりも、点字を覚え始めた私たちに、寸暇を惜しんで、読書のために、点字タイプライターを使って、低学年向けの本を点訳してくださり、私は飛びついて読みました。歌謡曲の点訳がなかったのは、チョット残念でした。(続く)
★メモ★
1958年の9月から、盲学校と寄宿舎(文部省管轄)が移転して、宇都宮市駒生町648に変わりました。江曽島には、厚生省管轄(児童相談所の指導の下の、栃木県児童福祉施設「江曽島学園」となり、盲学校関係者は「春光寮」と、聾部の「ひばり寮」が同居するようになりました。増田君と橋本さんは寄宿舎、阿久津は江曽島学園で生活していました。