第2話  江曽島学園の生活について



 先にも書きましたが、9月に盲学校と寄宿舎が移転して、私たちクラスメイトの生活も三つに分かれました。吉沢君のような通学生、そして増田君・橋本さんのような寄宿舎生(盲学校と寄宿舎は、聾学校が現在の若草町2丁目に移転したので、古い建物でしたが駒生に移転しました。)、そして私たちは児童福祉施設「江曽島学園」での生活です。
 昭和30年代から40年代(1950年代から60年代)が、児童生徒数の最も多い時代だったと思います。正確なデータはありませんが、寄宿舎生90人前後、江曽島学園(以下、「学園」と記す。)は、60人から70人程度でした。通学生は20人程度で、主に弱視者で、宇都宮市内またはその近辺・小山市・鹿沼市あたりからの通学生が大半でした。現在のように自動車を所有している家庭はほとんどなく、車を家庭で買うようになったのは、1970年頃からでした。
 さて、学園での生活のあらましを書きます。学園にいる生徒の多くは、夏・冬・春の休みを除いて家に帰る生徒はほとんどいませんでした。家庭の事情によっては、夏休みも家に帰れず、学園にいた生徒も数名いたと記憶しています。おそらくお盆と正月の頃に、親戚の家に一時期行っていたと思います。
 私が入学してからの6年間は、学園生活は貧しい生活でした。建物といえば、戦争中に使っていた中島飛行場の社員の跡地と聞いていましたので、廊下はガタガタでした。新しく建て替えられたのは、私が小学5年生の頃だったと思います。
 1959年9月26日、死者・5900人を超える伊勢湾台風の時は、学園全体がグラグラと揺れて、雨漏りが酷かったのを覚えています。
 学園での日々の生活は、6時起床、布団をたたんで園内の清掃、6時半から園庭でのラジオ体操、7時から朝食、7時50分頃から、学園のバス2台に乗って盲学校へ出発。8時半から盲学校での生活が始まりました。帰りは、小学生は三時頃の学園のバスに乗って帰り、中学・高校生は4時半の学園のバスで帰りました。学園に帰ると高校生は直ぐに園内の清掃、そして5時半には夕食でした。その分、増田君たちは寄宿舎ですから、通学は実に短くてゆっくり寝ていたり、遊ぶ時間や勉強する時間は私達よりも多かったと思います。
 児童福祉法のために、私たちが学園にいることができたのは、小学1年生から専攻科1年生になる19歳まででした。残りの1年間だけ寄宿舎にお世話になるケースが大半でした。
 まず、ここで思い出されるのは、学校に向かうバスの中でした。学園にはバスが2台、運転手さんも二人いました。どのように分かれて乗っていたかは覚えていませんが、小学生達は、お喋りでバスの中は、うるさい程、にぎやかでした。かってにしゃべったり、好きな歌謡曲を、この時ばかりはみんな得意になって歌っていました。学校では禁止されていたので、バスの中では、お互いに教えあっての歌合戦さながらでした。高校生は村田秀雄さんの歌、こまどり姉妹の歌、私たちは低学年の頃は、橋幸夫さん、少し時をおいて、舟木一夫・西郷輝彦さんという、いわゆる御三家の歌でした。バスに乗る時間は約30分間ですので、それは実に楽しい時間でした。
 学園の近くに映画館があり、土曜・日曜日になると、当時の映画主題歌が町内響けとばかりに大音響で流されていたので、私たちは、ブランコに乗りながら聞いて覚え、皆で大合唱でした。映画館からは、石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の歌が流され続け、月光仮面の歌も、連日流されていました。映画を見に行く機会はほとんどありませんでした。
 次に学園の食事についてですが、朝食は麦ご飯、味噌汁(ふとか、油揚げとか、豆腐が多かった。)、おかずは大根おろし、漬物、そして鯖や鰯の缶詰類でした。お昼は、給食が導入されたのは、59年(昭和34年)9月からだと思います。おぼろ弁当が多く、鮭が入る弁当があると嬉しかったものです。朝、弁当を受け取ると、そっと空けて中を覗いて、「今日は良いぞ!なんだ、またおぼろか」等と、部屋の中で呟いていました。夕ご飯といえば、火曜・木曜・土曜日は、コッペパンとうどんと決まっていました。その他の夕食は、コロッケとかジャガイモの煮付け、焼き魚でした。カレーライス(昔はライスカレーと言っていました)が、それは、私たちにとっては、大ご馳走様の日でした。
 今からカロリー計算をすれば、1日1600カロリーくらいはあったかと思います。食事がグッと良くなったのは、1964年、東京オリンピックの頃からだったと思います。ですから、夕食が早いので、夜になると腹が減ってたまりません。三時頃のおやつがある時は良いのですが、高校生のみなさんは、夜8時になると、密かに学園を抜け出して蕎麦屋に行ったり、学園の近くにやきそばやパンを買いにいきました。なかには、持ちこみ禁止の電気ポットを買いこみ、夜中になって、先生達が巡回に来なくなると、インスタントラーメンをすすっていました。私たちは、ただ指をくわえて、うらやましがるだけでした。
 小学生の低学年の頃は、保母の先生が一緒に面倒を見てくださり、最初の頃は一緒に寝泊まりしてもらいました。保母先生には二つのタイプがありました(その頃は何にも分かりませんでしたが)。一つは、戦争で夫を失った30代の先生達でした。もう一つのグループは、短大で幼児教育を受けた若い先生(二十歳前後ですから、お姉さんのような人達です)、そして保育専門学校が出来てからは、そこを卒業した人達が多くなりました。
 私が小学生の時は、1年生から三年生までが、一つの部屋で寝泊まりをしました。一部屋10畳の部屋に6人が押し合い、へし合いでの生活です。足の踏み場もありません。保母先生の多くは、隣接している職員用の部屋に生活している人が多かったのです。24時間のうち、早番、昼番、遅番、夜勤と4後退制度ではなかったかと思います。
 私の1年生・2年生の担任の先生は独身の若い先生でした。なぜ、覚えているか、それは結婚を機に退職していたからです。とても優しく、当時、おねしょをしていた私のことを優しく見守っていただきました。おねしょといえば、学園にはおねしょの子どもが多く、12時ころになると、あちこちで、「ほら、おしっこの時間よ。」という声が、小学生の部屋では聞こえました。私も起されましたが、「時すでに遅し」と、いうことも多かったように思います。施設にいる子どもの多くが、おねしょで悩んだのは幼い頃から、家を離れての寂しさがあったからと思いますし、部屋からトイレまでが遠くて間に合わなかったり、真冬は寒くて起きられなかったこと、そして、夜のトイレは限りなく怖かったのです。
 小学生の頃の思いでの一つにお風呂があります。1年生の頃は、時には、高校生のお姉さん達とお風呂に入った記憶があります。先生達が忙しく、お姉さんたちに世話をしてもらったのだと思います。4年生の頃でも、お母さんのような先生とお風呂に入り、体の洗い方、耳の後ろを洗いなさいと、言われた記憶があります。また学園の建て替えの頃は、歩いて10分程度の所にある銭湯に、洗面器、手ぬぐい、石鹸を持って通いました。私が三年生の頃かと思いますが、銭湯では、担任の先生と一緒に女湯に入りました。ちょっと恥ずかしかったけど、また少し嬉しかったことも思い出されます。時代は飛んで、1975年頃ヒットしたかぐや姫の「神田川」の一説に、「小さな石鹸カタカタなった」を聞くと、その頃をふと思い出します。
 学園での小学生の頃といえば、5月になると、子どもの日があります。私の家は農家ですから田植えに忙しく、柏餅を持って来てくれたのは一度くらいだったと思いますが、5年生の頃から、葛生町からお母さんが、可愛い息子に柏餅を沢山持ってくる人がいました。その羨ましいこと!何時になったら部屋の皆に分けてくれるのかなあ?と、期待しているのですが、一向にその気配がありません。たまりかねた私は、4年下の後輩を捕まえて、「そんなにたくさんの柏餅を一人で食べるのか。腐ってしまうから、部屋の皆に分けたらどうた。」と、言い出しました。素直なその後輩は、「分かりました。」と言って、部屋の人達に分けてくれました。その柏餅の美味しかったこと!5月になると、今でも思い出します。後輩に会うと、その思い出を語り、あの時は悪かったね。今で言えば、かつあげかな?などと話して、二人で笑い合います。まさに兄弟以上の関係かと思います。いずれにしても、その頃の私は、ガキ大将に近い者だったかも知れません。



我が人生旅日記へ  /  トップページへ