第3話 盲学校の小学生高学年時代


 私たちのクラスは、3年生になって、篠崎敏子さんという女子が加わり、橋本さんは同性の友達が1人増えて喜びました。担任の先生は、小牧先生から塚本まきえ先生という音楽の先生に変わりました。塚本先生には3年・4年と担任をしていただき、音楽の授業を含めて体育の授業も教えていただきましたが、社会科や理科などは他の先生に教えていただきました。
 音楽では、個人的にピアノやオルガンを教えていただいた生徒もいました。私はピアノを最初教えていただきましたが、直ぐに止めてしまいました。というのは、江曽島学園で、オルガンの得意な先輩から、自己流の弾き方を教えてもらって、舟木一夫の「高校3年生」、チョッと真面目に「ましろき富の音」などを覚えてしまい、指使いがメチャクチャではありましたが、ドミソ、ソシレ、ファラドの三つの和音で適当に弾いて楽しんでいたので、塚本先生からの本格的な指使いは不合格でした。おまけに、音楽の授業の歌では、演歌流の節回しで歌ってNGを度々出されました。体育の時間には、何故か塚本先生を捕まえる鬼ごっこが多かったと思います。
 小学4年生の時の点字協議会では、早読みの部があり、私は1分間で444文字を読むことができました。読書の成果で読む速度が上がったと思います。その後の早読みでは、480程度が最高記録だったと思います。これまでの盲学校での記録では、500文字を超える生徒も何人か記憶しています。
 5年生と6年生の時には、小林智恵子先生という、物静かな先生に担任していただきました。小林先生にも、私たちと同じ息子さんがいると聞いていました。今回は、この4年間をまとめて思い出を書きたいと思います。
 先にも書きましたが、盲学校と寄宿舎は、聾学校が引っ越した後に入りましたので、学校そのものは、老朽校舎のままで、1973年(昭和48年)に、現在の福岡町に引っ越すまでは、ボロイ学校のままでした。盲学校の住所が、駒生町648番地なので、私たちは「むしば」と憶えましたが、学校の中は、虫が食った所がいたるところにありました。一例を挙げると、トイレです。いわゆる、ボットン便所でした。底は繋がっているので、貯まって来ると大便をするとおつりがきたりしました。もっと悪いのは、男女生徒・職員の共用トイレでした。男女平等には酷いとしか言えませんでした。女の子たちは、男子がトイレに入っている時は、別の棟のトイレに行ったり、男子が出てくるまで待っていました。女の先生の中では、気になさらない人もいて、増田君と私がトイレで噂話をしていると、いきなりドアが開いて「今の話聞いていたよ。」との声が聞こえて、二人でドッキリしたこともありました。
 これに対して、私たちが小学生3年生の時の、まず60年に、新しく鉄筋コンクリート寄宿舎の女子寮が完成しました。翌年の61年には、自衛隊の力を借りて、校庭の一角にプールが完成しました。長さ12メートル、横8メートルというものでしたが、私たちにとりましては、とても新鮮で驚きであり、大きな喜びとなりました。さらに自衛隊の御奉仕によって、プールを作るときに残った土を利用して、相撲ができるようにと土俵まで作っていただきました。
 6年生の時には、寄宿舎の男子寮が完成し、中学1年生になる増田君たちは、1964年に真新しい鉄筋コンクリートの建物に引っ越しました。
 ここで思い出がいくつかあります。まずはできたてのプールです。4年生の夏から本格的に水泳が始まりました。増田君・吉沢君は上手に泳いでいま
したが、私にはできませんでした。体育の時間には、浮き袋にしがみ付いて、バタバタと泳いでいました。塚本先生は、優しく見守っていましたが、ある時、沢村修先生が来て、「そんなことをしてたら、いつまでも泳げないよ。こうす
ると泳げるようになるんだよ。」と言ったかと思うと、小柄な私をヒョイと持ち上
げてプールに投げ込みました。塚本先生は、あわてて「やめてください!」と言いましたが、ときすでに遅し!私の体は宙に舞って、水の中に放り込まれました。驚いたのは私です。これで死ぬのではないかとあわててもがき始めました。すると、何となく泳いだようで、多少水の中を進みました。それから、沢村先生は手を伸ばして、「怖がってばかりいてはダメなんだ。飛び込まないと泳げないよ。」と、優しく話してくださいましたが、私の体はブルブルと震えていました。水泳はその後もあまり上手にならず、高校を卒業する時も8メートルをやっと泳げる程度でした。その時は、沢村先生は怖い先生と心底感じましたが、その後、楽しい思い出がたくさん生まれました。
 沢村先生との出会いは、実は盲学校に入学する先に出会っていました。私の実家のある、今泉新町のアパートに住んでおられたと、後日知りました。それに、私たちと同じ年の子どもさんがいましたので、4年生のプール飛び込みの時は、先生は35歳程度だったと思います。現在私が住んでいる、宇都宮市宝木1丁目から歩いて数分の所にご夫妻が住んでいらっしゃいますから、人生不思議なものです。おまけに、我が家の娘が幼稚園の時には、沢村先生のお嬢さんにピアノを教えていただいたり、子育ての時には、妻とそのお嬢さんと親しく話しをしましたから、これまた出会いは不思議です。
 さて、その沢村先生ですが、4年生から3年間、図工を教えていただきました。まず思い出すのが、シイタケ栽培です。何も知らない私たちです。沢村先生は、シイタケの原木を手に入れて来て、「みんな、毎日この木を日陰におくから、水をけてやりなさい。」と、言われました。私たちは、素直に水を毎日かけていたと思いますが、ある放課後、増田君と私の二人、掃除の後の水も、水には違いなかんべ。」と言って、掃除をしたばかりのバケツの水を窓から原木めがけてぶちまけました。その後、シイタケは、健やかに成長して立派なシイタケとなりました。沢村先生には今だにまだ話しておりません。ごめんなさい。
 次に、沢村先生は、挿し木のやり方を教えてくださいました。皐(さつき)と思いますが、枝を土に植えて水をかけます。それが木になるとは考えても見ませんでした。結婚してから、庭先に,柿の木の挿し木をしたら、それが立派な木になって、柿の実を結んだことがありましたが、やはり経験をしないと分からないものですね。
 5年生の時でした。図工の時に、飾り棚を作ることになりました。板を切って、炭火で焼いて、それを組み合わせるような作業だと思いますが、生来の不器用な私です。業を煮やした沢村先生、「阿久津は作らなくても良いよ。その代わり、お前は落語が好きなんだから、皆に落語をやって楽しませてくれ。それも技術のうちだからね」との、まあ嬉しいお言葉!私は、得意満面で、江曽島学園で、保母先生が夜かけていたラジオの落語の一席を貴次々と語りました。もちろん半分以上は、ごじゃっぺ(いいかげんなこと)ですが、沢村先生は喜んで笑ってくださいました。
 夏休みの図工の宿題は何か作って来るようにといわれましたが、これまた不器用な私、9歳上の兄が実に器用な人なので、宿題を頼み込み、輪ゴムと釘をダンボールに組み合わせてのお琴を作っての提出でした。沢村先生は、「良くやってきたね!」と、誉めてくださいましたが、それは言うまでも無くバレバレでした。
 図工といえば、たった一つ私に良いことがありました。それは、粘土で何かを作るということでした。増田君や吉沢君たちは、動物などを作っていたと思いますが、私は何を作ったらよいか分かりません。結局、自分の顔を触りながら、人の顔を作りました。そうしたら、沢村先生が、「これは阿久津の傑作だ!見た目、普通と違う」と言ってくださり、県の美術展に出品をしてくださり、県の芸術作品に選ばれてしまいました。長年、校長室に飾っていただきましたが、教員になってから、何だか恥ずかしくなり、そっと自宅に持ち帰りました。
 沢村先生は、私たちが小学5年生の頃には、宝木町に引っ越しておられました。私たちを授業中に連れて行ってくださり、アイスクリームをご馳走になりました。盲学校から歩いて数分の所に家がありましたので、連れて行っていただいたのだと思います。
 それから、「君たちは1万円札を触ったことが無いだろう?今日は先生の給料日だ。1万円札を触らせてやるからな。アメリカでは聞くところによると、日本人の10倍位の給料をもらっているんだよ。日本もいつかそのような時が来ると思うよ。」と話していたことも覚えています。
 また、国語の教材で、狂言で「附子(ぶす)」というのがありました。太郎冠者
(かじゃ)と次郎冠者(かじゃ)のやりとりです。附子は危ないから留守中に近寄ってはいけない。と、主人に言われますが、実はそれは大変美味しいあんこのことでした。二人はそれを全部舐めてしまうという話ですが、増田君と私が、野村万作さんか、誰かの物真似をしていたら、沢村先生、「それはたいしたものだ!録音をして、みんなに聞いてもらうと良いよ」と言ってくださり、給食の時に、食堂で流してくださいました。実におおらかな先生です。野球が好きで、私たちも根っからのジャイアンツファンと知ると、「お前たちはしょうがないなあ!特別にラジオを聞かせてやるからな。」と、言って日本シリーズを聞かせてくださいました。実は、沢村先生もジャイアンツファンなのでした。古き良き時代でした。
★メモ★ 
 沢村修先生は、盲学校の教頭先生から、若草養護学校の校長をなさって退職なさいました。




我が人生旅日記  /  トップページへ