第4話 小学部時代の総集編(1960年〜1963年)
まずは学園での生活について書くことにします。原稿を書いていて改めて気付いたことがありました。それは、58年に、盲学校と寄宿舎が駒生町に引越したその後であります。学園のバスが2台あったことは先にも書きましたが、学園には、児童福祉施設として、盲学校に通う盲部と、若草町2丁目にある、聾学校に通う聾部とがあり、生徒たちの通学のために、主として2台が使われていたのではないかということでありました。
建物は、盲部と聾部が別棟になっており、食堂も別になっていたので、交流の機会は、めったになかったのですが、学園全体の運動会や非難訓練等は協力して行なっていました。
お風呂も、盲部が、月・水・金と使っていたのに対して、聾部は、火・木・土曜日に使っていたように思います。
盲学校の生徒達が生活していたところを、「春光寮」、聾部の皆さんの生活の場を「ひばり寮」と、読んでいました。
1973年に江曽島学園が閉園して、盲学校の移転と共に、春光寮は、盲学校の隣接地に、こがし学園と名前を変え、ひばり寮は、聾学校のある所に移転して「ひばり寮」として、そのまま継続しました。こがし学園は、後に児童生徒の減少によって、閉園したと記憶しています。私に取りましては、江曽島学園以来の心の故郷であり、本当に残念でした。
さて1960年代に話しは戻ります。江曽島学園は、あまりの古い建物のために、建て替えを余儀無くされました。新築については、先にも書きましたが(盲学校の寄宿舎と学園の建て替えは前後していると思いますが)、60年から61年にかけて、学園は建て替えがなされました。その間、私たちは、聾部の使っている建物に引っ越しをして生活していました。盲部では、朝、美しい音楽によって目覚めることができました。しかし、聾部では、すさまじい大太鼓で起こされました。聴覚に障害のある人達にとっては、耳が不自由なのだから、音楽での目覚めは当然無理からぬことであり、太鼓の音が体に響いて感じることをその時保母の先生に教えられました。障害の違いによって、こんなにも違うのかとその時、教えられました。
私たち視覚障害者は、学園の中を右往左往したので、移動に慣れるのにかなり苦労をしたことを覚えています。
また、その間、60年の秋に、寄宿舎と学園では、赤痢が大流行してしまいました。原因は不明でしたが、新聞にも載り、ほぼ一ヶ月、休校となってしまいました。私は三年生で、幸い赤痢にはなりませんでしたが、そのため、児童・生徒は登校停止となり、約一ヶ月、学園の中で生活をしました。本来ならば勉強をしなければならないわけですが、私たちは、これ幸いにと遊んで過ごしました。当時、盲学校の小野里校長先生が心配をして、学園を訪問した時に、みんなが陽気に遊んでいたのに驚いていらしたと先輩から聞きました。もちろん、赤痢にかかった人は、静養室へ隔離されましたが、高等部生で時間を持て余している人たちは、女子寮に遊びに行って、トランプやおしゃべり、歌謡曲のベストテン等をラジオで聞いて楽しんでいたようです。
私が3年生から6年生の頃にかけて、工事中のために銭湯へいったりなど、新しい経験も楽しむことができました。ラジオからは、その頃、耳新しい歌も流れていました。フランク永井さんの「有楽町で会いましょう」という歌で、あなたを待てば雨が降る、濡れて来ぬかと気にかかる…。もう1曲は、平尾昌晃さんの「星は何でも知っている」という歌でした。「星は何でも知っている夕べあのこが泣いたのも…、生まれて始めての甘いキッスに、胸が震えて泣いたのを」という歌で、早熟な私には、ドキドキワクワクしました。
小学6年の1963年の年に、地元のラジオ栃木放送が開局しました。それまでレコードを、電蓄からステレオになり、盲学校、寄宿舎、そして学園にも、白黒ではありましたが、テレビが1台購入されました。これはとても嬉しいことでした。
夕方お風呂もない日には、食事を終えると、集会室にみんな集まっNHK総合テレビの子供向け番組「ちろりん村」を楽しんでいました。私はテレビの方には行きませんでしたが、「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、「少年ジェット」等を見て、子ども達は、心を躍らせて、ワクワクしていたと思います。
ラジオの好きな人達は、ラジオを持っている高等部のお兄さんの部屋に、「すみません。ラジオを聞かせてください。」とお願いして、子供向けのラジオドラマを聞いていました。吉永さゆりさんの主演の「赤胴鈴之助」、黒柳哲子さんの「
1丁目1番地」、その他「まぼろし探偵」、「猿飛佐助」、など、ラジオドラマ全盛の時でした。この時、忘れていけないのは、徳川夢声さんの、長編番組「宮本武蔵」でした。私には、難しくてさっぱりわかりませんでしたが、成人になって、「宮本武蔵」の朗読はいかにすばらしいかが分かりました。さらに思い出されるのは、6時半から8時までの自習時間が終ると、あちこちの部屋からプロ野球のラジオ放送が音高らかになりだしたことです。高等部の中には、イヤホンで自習時間に聞いていた人も多かったし、男性たちは、先生達の巡回が来るとラジオを消して、通りすぎると再び音を小さくしてジャイアンツの放送を聞き、長嶋や王貞治のホームラン等があった時には、自習時間にも
関わらず、拍手や「よしやった!」 との歓声が、私の部屋まで聞こえて来ました。幼い頃から野球を聞かされていた私には、自習時間がたまらなく辛く、終ると直ぐに、先輩の部屋にかけこみ、「どうなっていますか?」と経過を聞きに行きました。もちろんジャイアンツファンばかりではないので、タイガースやドラゴンズファンとは、時々激しい口論になったこともありました。私は小学生だからおとなしくしていました。
野球と言えば、1962年(昭和37年)の高校野球を忘れることができません。栃木県代表の作新学院が春の選抜野球大会と夏の甲子園大会で連覇を成し遂げたことです。春は、八木沢投手が全試合投げ通し、夏は、八木沢投手が病気のために出られなくなり、絶望かと思いましたが、救世主の加藤投手が投げ切って優勝をしました。この4ヶ月で、作新学院は日本中に知られるようになり、宇都宮よりも作新学院の方が、もはや全国区となってしまいました。
そんな折に、現在の栃木放送が、50年先に開局したことは、学園の人達にはとても感激でありました。宇都宮とか、鹿沼とか、県内の名前を毎日聞くことができることだけで嬉しかったのです。
それから 私たち小学生には、高学年になると、日曜日に10円か20円のお小遣いがもらえるようになりました。最初の頃は、担任の先生に連れられてお店にルンルン気分で出かけて行きました。学園の門の先には、うかじ商店というのがありました。いわゆる雑貨店だと思いますが、私たちの部屋全員が、10円を手に握り締めて出かけました。暑い夏には1本10円のアイスクリームやキャンディーを買ったり、寒い冬には、餡パンやクリームパンを買って空腹を満たしていました。
小学生の時の6年間を振り返る時に、日曜学校のことを書かなければならないと思います。読者の皆様には耳慣れないことかと思いますが、江曽島学園の直ぐ後ろに、盲学校の英語の先生・鈴木彪平先生が家を建てて、中高生対象にバイブルクラスを土曜日の午後に開いていました。それにあわせて、私たち小学生は、先輩の間瀬良子さんに連れて行っていただいて、日本キリスト教団、四条町教会の日曜学校に毎週関東バスで通っていました。当時は、このことに異論や反論はほとんどなかったのです。おそらく情操教育のひとつとして学園の園長先生も認めてくださっていたのだと思います。私は、小学1年生から4年生まで、ほぼ毎週、日曜日の午前中は、仲間10人程度で教会に出席していました。
教会の中は、小学生で溢れ返っていました。聖書の話や賛美歌のことはほとんど憶えておりません。憶えているのは、教会に行くと、時々うどんをご馳走になれたこと、クリスマスにはプレゼントをいただけたことだけです。ところがある日、関東バスの紅葉通り前のバス停から乗って学園に帰るのですが、
多少見えていた私は、ヒョイと目の先に停止したバスに乗ってしまいました。しばらくして気がつくと、学園の友達は誰もいません。異変に気づいたバスの車掌さんが、「僕どうしたの?」と、聞いてくれました。「私は江曽島に行きたいのです」と答えました。するとその車掌さん、「このバスは小山行きなのよ」との答えでした。その心細かったこと!結局、バス会社の手配で、別のバスに乗り換えて、何とか江曽島学園のある大和町に帰ることができましたが、それにこりて、日曜学校には行かなくなってしまいました。後の話になりますが、教会に再び行くようになったのは、高校生になってからのことです。
さて私たちは、いよいよ6年生になりました。この年も思い出が続きます。学校行事では、運動会・学芸会が毎年行われていました。私が覚えている学芸会は、6年生の時です。話は、地主と小作人の有名な話です。元は日本の民話から来ていると思いますが、まず、小作人の土地に竹の子が生えて来ます。すると、地主がやって来て「それはわしの土地から出ているものだから返しなさい」といって、竹の子を取り上げてしまいます。次に、地主の家の牛が小作人の家に逃げ込みます。地主は、「それはわしの家の牛だから帰しなさい」と、言いますが、小作人は、「いや、おらの土地に入ってきた牛だから、それはおらのものです」と言って、地主を悔しがらせる、という話です。キャストは、地主が増田君、小作人が私でした。
そして、2月の寒い頃でした。その頃、私たち小学部は、寄宿生が使う食堂で給食を食べておりました。中高生は、各教室に運んで給食を食べていました。給食の後には、交代で食堂全体・食器洗い場の掃除をしなければなりませんでした。今のように暖房は全くありませんでした。あまりの寒さに、増田君と私は「1回ぐらい掃除をサボってもわからなかんべ!」そう言って逃げ出しました。しかし、世の中はそんなに甘くありませんでした。まずは、担任の小林智恵子先生にしっかりと厳重注意を受けました。それで終わりかと思っていましたら、そのころ小学部の主事をしていた沢村先生から(悪いことをした時には、償う罰と言われたかように思いますが)、罰を受けました。そして、その罰というのは二つありました。1つは、理科の実験で使ったペトリ皿の山を外で洗うことでした。もう1つは、学部ごとに分かれていた職員室の、小学部の職員室の掃除を1週間することでした。増田君と私は、最初の償いを、それは身も震えるほど寒い冬空でしたが、二人でブツブツと言いながら1時間くらいかけて洗いました。職員室の掃除の時は、何人かの先生に、「おお、どうしたの?」などと声をかけられましたが、返す言葉は何もありませんでした。
そうこうしているうちに、3月がやって来ました。私たち6年生は途中からクラスメイトが増えて6人になっていましたが、謝恩会というものを企画しました。教頭先生を交えて小学部の先生全員に参加していただいたと思いますが、歌あり、なぞなぞあり、そして思い出を語り合いました。その中で、先生たちに受けたのは、当時、NHKラジオで放送していた「20の扉」というものでした。ある答えを用意しておいて、先生たちが動物か、植物か、などの20問質問をして回答を見つけるというクイズでしたが、先生たちはその番組のことを知らなかったこともあって、「これはおもしろいアイディアだ!」と、誉めていただいたことを憶えています。
かくして、私たちは小学部を卒業したのでした。
★メモ★
当時、なぜ盲学校で、キリスト教が規定されなかったのか?私が思うところ
によりますと、第2次世界大戦で、日本がアメリカに負けたこと、ヘレン・ケラー女史が戦前1回、戦後2回、日本を訪問して、キリスト教の深い親交をいたるところで話されましたこと。また、盲学校の歴史を辿るとキリスト教徒が、盲学校を始めたことにも由来するかと思います。北海道高等盲学校、岐阜県立盲学校、兵庫県立盲学校、島根県立盲学校、私立横浜訓盲学院等、たくさんありました。また、日本点字図書館の創設者・本間一夫氏、日本ライトハウスの創設者・岩橋武雄氏、点字毎日新聞初代編集長・中村京太郎氏等、多くのクリスチャンが視覚障害の福祉・教育のために先達者となりました。戦後、昭和20年代は、キリスト教ブームとも呼ばれていたそうです。栃木県立盲学校にも、熊谷鉄太郎牧師を始め、何人かの盲人牧師が学校に話に来ました。その他、仏教を知るためにお寺の住職からも、情操教育として訪問をして話しを聞いた記憶があります。