第5話 東京オリンピックイヤー



 1964年(昭和39年)、私たち、吉沢君・増田君・橋本さん・篠崎さん・阿久津、そしてもう一人の菊地さんが中学1年生になりました。さらに、その年には六人が加わり、なんと中学1年生は、二倍の十二人となりましたために、2学級となりました。ここでは詳しい説明は省略しますが、今までの小学生時代のクラスメートが分かれてしまいました。1組は、1階で中学部の職員室の隣でした。増田君と菊地さんが1組に行き、外部から四名が加わり六名となり、私のクラスは、1年2組で、吉沢君・橋本さん・篠崎さん・阿久津、そして外部から二人が加わり六人となりました。
 私たちのクラスに入った二人のうちの一人は、多分私たちより10歳近く年上のお姉さんだったと思います。もう一人の生徒は、足利の小俣町という所から転入してきた、金子君という同年代の弱視の生徒でした。
 私たちのクラスは、初めて2階に上がることができました。ただ気をつけなければいけないことは、職員室の真上にあり、古い木造建築のために、チョットでも飛び上がったりすると、ガタガタとやかましい音がするので、しょっちゅう注意をされることになったという欠点がありました。また、ぞうきんがけをしている時に、バケツをひっくり返すと、その水が、天井を通して、職員室にもろに水が流れ落ちてしまうということがありました。
 当時の、中学部のことを書きますと、3学年で、6・7学級だったと思います。学部全員で、四十人から五十人程度を上下しました。また中学部には、軽い知的障害を併せ持つ特別支援学級も増設されるようになりました。
 さて私たちが中学1年生になって、私たちを驚くべきことが待っていました。それは、小学1・2年生の担任の小牧先生が、再び私たちのクラスの担任になってくださったということです。中学部でも2年間担任していただきましたから、まさに、吉沢君、橋本さん、私の三人の4年間のお母さん的担任でした。さらに加えると、教え子である私が、盲学校の教員になってから約10年間、大先輩として様々なことで教えていただいたのですから。「チップス先生さようなら」という本がありますが、盲学校は、家族的な学校、そして、教え子をさらに1人先に(半人前と思いますが)指導していただいたような気がしてなりません。
 中学1年生の時に、盲学校に、私たちの先輩が英語の先生として来られました。小森禎司先生でした。小森先生は、鈴木彪平先生の教え子の一人で、盲学校を卒業してから、桜美林短大・明治学院大学へと進学して、直ぐに盲学校に来られました。実は1年間だけでしたが、英語の授業を担当していただき、とても楽しかったことを記憶しています。小森先生は、その後、明治学院大学院へと進学し、アメリカの大学院に留学して、3年前まで桜美林大学の教授をしていらっしゃいました。
 さて、入学式を終えての数日後、吉沢君と私が、教室でジャンプして遊んでいると、階段をドンドンと上がって来る音が聞こえてきました。二人は一瞬凍りつきました。
 「君たち何をドタドタしているんだ。下は職員室なのだから静かにしたまえ!」凛とした男性の声でした。後で分かりましたが、その先生は、当時中学部の主事をしていた、鈴木彪平先生でした。二人は「中学部にはおっかない先生がいるなあ」と、話し合ったものでした。
 鈴木先生に英語を教えていただくようになったのは、中学2年生になってからですが、生涯の我が恩師になるとは、「神のみぞ知る」だったと思います。
 小牧先生は、直ぐに私たちに中学生としての心構えを話してくださいました。そして、早速自己紹介をテープに録音をしました。(今でもその録音を、教え子達は大切に宝物として保存しております)
 小牧先生には、国語と社会科を教えていただきました。
 小学1年生の頃の雰囲気とはどこか違っていました。年齢に合わせての指導をされたのだと思います。私たちが甘えることのないようにされたのだと思います。
 一例を書きますと、「自分の分担区域の掃除が終って、教室でもまだ掃除が終っていなかったら、『手伝おうか?』と言って手伝うのですよ。」ということを教えられました。
 その年に、各クラスにラジオが入りました。ラジオの大好きな私、得意になって、昼休みにラジオのスイッチを入れました。異変に気付いた小牧先生が階段を駆け登って来て、
 「阿久津君、勝手にラジオをいじってはいけません!爆発したらどうするの?」と、語気鋭く叱られました。
 生意気盛りの私、すかさず「先生、ラジオは爆発はしませんよ。僕は子どもの頃から家でラジオをかけていますから」との、初回の反抗を企てました。
 とにかく、かってにラジオをかけないことを約束させられました。
 中学生になって嬉しかったのは、そのラジオです。給食の時間になると、私たちは、食堂から給食を運び、先生と弱視の人達を中心に配膳をします。後片づけは、二班に分かれて皆で食器を洗い、食堂に運びました。
 その給食の時には、ラジオを聞いて良いという許可がでました。ただし、NHK 第1放送だけです。
 ちょうど12時のニュースの後で、「昼のいこい」という番組でした。(それは現在も放送中です)
 当時は、西郷輝彦さんの「君だけを」を始め、橋・舟木・西郷さんの御三家全盛期、それに三田明(あきら)さん等、10代の歌手が続々とデビューしていました。給食を食べながらの歌は、食欲を促進させるためには最高でした。
 小牧先生は、本当は聞かせたくなかったのかと思いますが、給食中の許可なので、忍耐してくださったのかと思いますし、私の歌謡曲好きなのは、小学生から織り込み済みでしたから、大目に見てくださったのだと思います。
 それに、ラジオを聞かせるのには、一つ理由があったかと思います。1964年は、東京オリンピックの年でした。毎日、オリンピックまでのカウントダウンが叫ばれ、三波春夫さんを始め、沢山の歌手が「東京五輪音頭」が流れていました。運動会では、その「五輪音頭」を、学校生徒職員全員で踊ることになっていたのです。
 増田君たちのクラスでは、栃木放送を聞いていました。担任が大越先生でした。給食を食べていると、「それではここで、日光市清滝町の増田薫さんのリクエスト、ベンチャーズの急がば回れを、お送りします」との放送が流れました。それを聞いていた増田君、黙っていましたが、おそらく満面の笑みをうかべていたのではないかと思います。
 さて、私たちのクラスに転入して来た金子君との思い出を一つ書きます。入学して間もなくの頃でした。原因は覚えていないのですが、クラスメートが誰もいなく、二人の時だけ、取っ組み合いの喧嘩をしました。私は身長150センチそこそこ、金子君は170センチもあり、体格から見ればどう見ても勝ち目は無いはずなのです。しかし、生意気盛りの私が彼に向かってかかっていったのだと思います。意見の食い違いから口論となり、私から飛び掛りました。彼は多少遠慮をしてくれたと思いますが、小さいくせに生意気な私に、「思い知らせてやれ」と、思ったかどうかは分かりませんが、床の上を、ゴロン、ゴロンと上になり、下になりの寝技の喧嘩でした。殴り合いにならなかったのは、私にはなんと幸いなことか、金子君の情けに感謝すべきか。
 その時、私の心の中では、早く誰か来てこの喧嘩を止めてくれ!という、心からの叫びがありました。
 やがてどちらからともなく、「やめるか」と言って何とか無事難局を脱しました。それをきっかけに金子君とはより親しくなり、今日にいたるまで取っ組み合いは無いし、和気あいあいと会うたびに冗談を言い合っています。
 その後ニュースなどで聞きますと、中学校が変わったり、高校に進学すると、タイマンを張ると言って、喧嘩があるとのことですが、金子君にしてみれば、学校も変わり、慣れない寄宿舎生活がありましたから、そうとう緊張していたのでしょう。そんな時、ずっと盲学校にいる私には、金子君と、どうやって仲良くしたら良いか分からなかったのだと思います。
 先日のクラス会でそんな話しを、笑い話として話してきました。
 さて東京オリンピックは、10月10日、確か土曜日の午後だったと思います。私は、学園に帰ると、ステレオの先に友人たちと座って、オリンピックの開会式の放送を吸い込まれるように聞きました。
 当時アナウンサーとしては最高の、鈴木文弥(ぶんや)さんでした。前夜から大雨が降り、心配されましたが、十日の朝はすっかり晴れ渡り、オリンピック晴天でした。ブランデージオリンピック会長の宣言、そして、酒井さんという19歳のランナーが聖火台に駆け登り、見事に聖火が灯りました。昨日のことのように鮮やかに思い出されます。
 オリンピックの話は、ニュース等でも皆様も良くご存知のことと思いますが、女子バレーでは、宿敵ソ連との決勝での金メダルはあまりにも有名です。また、日本のお家芸とも言われる柔道では、無差別級の優勝候補・神永選手が、オランダのヘーシンクに横四方固めで敗れたことは有名です。ヘーシンク選手は、日本の柔道家から教えを受けての恩返しだったと思います。
 マラソンでは、自衛隊にいた円谷(つぶらや)さんが銅メダルで、日本中は盛り上がりました。同時に、裸足のエチオピアのランナー、アベベのパワーも日本人を仰天させました。
 この10月10日を記念して、日本では、10月10日を体育の日と定め、国民の祝日となりました。また、障害者のためのパラリンピックもこの年から始まったように記憶しております。
 その年の学芸会は、2月にしておりました。中学部では、日本劇と英語劇をしておりました。私たち中学1年生は「大男の花園」という英語劇に参加しました。その最後に、英語でドレミの歌を何度も練習して覚えた記憶もあるし、録音もあります。その歌は、今でも迷うことなく歌うことができますから、若いときの記憶はいつまでも残るものですね。
 私のことを書きますと、その年の暮れに、どこかに顔面をぶつけてしまい、緑内障の私の目から残存視力が喪われて光も見えなくなってしまいました。そのために、1月のひと月間、学園で療養を余儀なくされましたが、2月の末の学芸会には出ることができて、楽しい英語劇を友人たちとすることができました。

★メモ★
 1964年には、東海道新幹線が開通し、3Cといわれ、カラーテレビ、ク
ーラー、カー()が、日本に普及し始めました。我が家ではカラーテレビは間もなく入りましたが、残りの二つは10年後に、兄が車を買いましたが、クーラーは、1980年ごろまでは買うことが出来ませんでした。
 我が家での電気製品は、テレビ、洗濯機、電気炊飯器でした。洗濯機は、1層で、洗ったり濯いだりする度に、水を交換したり水道を止めたりの最も旧式のものでした。洗い終わったら、ローラーに洗濯物を通して1枚、また1枚としぼる機会でした。学園では、シーツ等は、時々保母先生に洗ってもらいましたが、その他の衣類は全て自分の手で洗って、乾してたたみました。東京オリンピックを境に、停電はほとんど無くなりましたが、それまではたびたび停電もありましたし、テレビ番組も夜の12時で放送は終わりでした。ラジオも民放は深夜放送はありましたが、NHKラジオは12時で、「おやすみなさい」でした。また、学校は土曜日は平成になるまで、4時間授業でした。
★メモ★
 オリンピックについての説明。1960年ローマオリンピック、
1964年東京、1968年メキシコ、1972年ミュンヘン、1976年モントリオール、1980年モスクワ、1984年ロサンゼルス、1988年ソウル、1992年バルセロナ、1996年アトランタ、2000年シドニー、2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドン


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