第6話 中学2年生(1965年)




 1965年、私たち12人は中学2年生になりました。学級編成は1年生と同じでした。先にも書きましたが、担任も小牧先生でした。
 中学生になると、教科担任制ですから、色々な先生方に授業を担当していただきますが、この年には、新しい先生方が中学部に来られ、学校も、なお一層活気に満ちて来ました。
 まず英語ですが、1年生の時には怖い先生と思っていた、鈴木彪平先生でした。実際に授業を受けての印象は、恐れていたほどではありませんでした。江曽島学園での先輩たちの噂の影響もあったかと思いますが、鈴木先生は、授業の中で、1954年から2年間、フルブライト交換留学生としてアメリカに留学していたときの体験談を、沢山話してくださいました。それは私にとって、身を乗り出して全身を耳にしての話でした。その当時、海外旅行をする人は、40万人そこそこでした。その時代からさらに10年先に、奥様と四人のお子さんを日本に残して、アメリカに単身で留学されたことは、驚くべき話でした。英語には1年生から興味と意欲を持っていたので、私にとりましては、本当に楽しく充実した時となりました。
 先生は、授業の中で、「君たちは希望を持って生きることが本当に大切なのだよ」と、幾度も話していらっしゃいました。私は、中学2年生から高等部専攻科2年生までの7年間鈴木先生から英語を教えていただきましたが、それは、その後の人生での決定的な運命とも言うべき出会いとなりました。
 鈴木先生のご自宅は、江曽島学園の後ろにあり、時々、学園のバスを利用された折には、直前の座席に先生が座っておられました。
 次に、2年生になった年に、若い女性の先生が二人転任されました。理科の大越先生と、美術の山口先生でした。
 その当時若い女性の先生が盲学校には少なかったので、学園と寄宿では特に高等部の先輩たちには、女性の若い先生方は憧れの的でした。中学部にいる私たちにしても、新しい女性の先生はまぶしく感じられました。
 ある時、増田君と私が、トイレで、「リンカーンの『人民の人民による、人民のための政治』というのは、英語で何て言うんだっけ?」と、話していましたら、後ろのドアがいきなり開いて、大越先生に「あなたたちしっかり英語で言えなくちゃだめだよ!」と気合を入れられました。若い女の先生とトイレで会話するなんて!私はビックリしてしまいました。
 その大越先生との忘れられない思い出があります。
 私は、読書が大好きで、時には徹夜をして点字の本を読んだことがありました。図書館で、三島由紀夫の「潮騒」という本を手にしました。
 栃木県には海が無いし、私は家族と一緒に海に行った経験も無く、海には憧れがありました。
 その「潮騒」ですが、詳細は忘れましたが、若い二人の青年と女性との恋物語でしたが、話にぐんぐんと引き込まれて行きました。
 そしてついに、大越先生の理科の授業に(多分理科室と思いますが)、点字の教科書と「潮騒」を持って出かけました。
 私には、「大越先生は点字はまだ良く分からないから、この本を読んでも分からないだろう?」との生意気な思いがありましたし、潮騒の誘惑に負けてしまっていました。
 丁度クライマックスのところで、思春期の私にはワクワクのシーンでした。
 しかし、悪いことは直ぐに見破られてしまいました。ついには、その場で本を没収されてしまいました。
 その時から、授業中に本を読むのはやめるようになりました。もっとも、その他の本を授業中に呼んだという記憶はありませんから、余程刺激的だったのだと思います。
 後に、潮騒は、山口百恵さんが主演して映画になりました。でも、私には点字の本の方がインパクトがありました。
 山口先生は美術の先生でしたが、私にとりましては苦手な教科でした。でも今から思うと、その山口先生に憧れを感じていたのではないかと思います。4時間目の美術が終わると、私は、外から教室の鍵をかけてしまいました。不思議と簡単に鍵がかけられたのです。山口先生からは後日、「あんないたずらを、もうしないでね!」と、注意されました。教室が1階だったので、先生は難なく窓から脱出していたのでした。担任の小牧先生からは、若い先生をいじめてはダメですよ、と、厳重注意を受けました。
 その時、私の他にもう一人いたかと思いますが、誰かは覚えておりません。
 山口先生にどうしてそんなことをしたのか、憧れと共に、お姉さんのように慕う気持ちがありました。また、弱視の生徒から「山口先生は超短いスカートをはいているから目のやり場に困るよ!」と聞いていました。
 盲学校では女性の若くて綺麗な声の先生は、みんなの憧れの的でした。「声美人」と私たちは言っていました。
 高等部の先輩たちも学園等では、たびたび若い女性の先生や保母先生、寄宿舎でも、専攻科では若い寄宿舎職員の噂が絶えませんでした。
 それから数年後、私が専攻科にいる時に、盲学校の卒業生と寄宿舎の女性職員とのカップルが3組誕生しましたから、若い人たちが集まれば、愛が誕生することは自然ともいえるのでは無いかと思います。
 さてもう一人、中学部には高村先生という中年男性の先生がいらっしゃいました。教科は体育ですが、確か2年生の時に、数学も教えていただいたと思います。
 体育では、「みんな何をやりたい?」と聞かれるので、私たちはすかさず「野球」といいます。
 たいていの場合、希望が聞かれて、盲人野球でした。現在は、グランドソフトボールと言いますが、12人もいれば、野球も何とかできました。それに、高村先生の審判の声は超一流で、関東地区盲学校野球大会の審判の時も、高村先生の声は最高でした。声が大きく良く通り、威厳がありました。
 数学の時間だったと思いますが、先生が戦争中にシベリアに抑留された経験をしみじみと話されたことを憶えています。
 「人間なんて何が辛いか。それは、寒さも辛いけど、空腹が辛かったね。配られたパンをおいておくと、暗闇に紛れて、他人のパンを盗んで食べたり…。それに比べると、今は何と幸せなことか…と、実感を込めてお話になっていました。
 その頃は、戦争で徴兵検査を受けて、外国へ出兵された先生も何人かいらっしゃいました。
 英語の鈴木先生にしましても、「もし僕が27歳の時に、バスケットボールで失明していなかったら、戦争に行って生きて帰ることはなかったと思うよ」と、私たちに話してくださいました。
 思い出は果てしなく浮かんで来ます。
 小牧先生の道徳の時間には、私たちの将来のこと、進路のことについてのビジネスマナーのようなことが多く語られました。
 当時は、高等部には理療科しかありませんでした。ですから、普通科、そして大学へ進学したい人は、現在の筑波大学付属盲学校の普通科に進学するしか方法はありませんでした。
 鈴木先生はそれに異論を唱えて、勉強をしっかりすれば道が開けると強調しておられました。
 小森先生は、専攻科を卒業後、短大、大学、大学院と進まれましたから、その頃は、実にまれなケースだと言わざるをえません。
 学校行事にも少し触れたいと思います。私たち2年生と3年生は、秋、箱根の方に二泊三日、観光バスをチャーターして修学旅行に出かけました。行き先は、箱根の関所、富士五湖、日本平(だいら)などでしたが、何故かあまり記憶がありません。ガイドさんが三日間親切に面倒を見てくださったことは覚えています。一番楽しかったのは、旅館での夜でした。増田君や吉沢君とは学校では一緒の生活でしたが、学園・寄宿通学のそれぞれ違うところで生活をしていましたので、夜を共に生活するのは修学旅行の時だけでした。宿泊訓練やキャンプ等は全くありませんでしたので、夜遅くまで、私たちはたわいのない話で笑いあっていました。
 その年の学芸会では、橋本さん、1年後輩の菊地君、そして私が、イソップの「北風と太陽」の英語劇をしました。橋本さんが太陽、私が北風、菊池君が旅人でした。
★補足★
 増田君の話によると、大越先生は、私たちが1年生の時から新任者として来られ、1組の副担任だったとのことです。ラジオも栃木放送を昼休み聞いており、増田君がベンチャーズの「急がばまわれ」をリクエストしたところ、給食の時間に「日光市の増田薫さんからのリクエストです」との放送が流れました。大越先生、「あら増田君と、同姓同名ね」との一言。増田君は「そうですね」と、答えたそうです。おそらく満面の笑みをたたえたことでしょう。
★メモ★
 1964年に、小野里校長が、小林幸吉様に点訳ボランティアの要請をお願いして「栃木きつつき会」が発足し、事務所を10年間盲学校図書館においた。
 それをきっかけに点訳図書が随時増えていきました。




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