第7話 中学3年生(1966年)




 1966年、私たち12人は3年生になりました。この年に、山村君という人が、他校から転入して13人となりました。そして、将来への進路を目指しての学級編成が行われました。
 私のクラスは7人で、吉沢君、橋本さん、篠崎さん、増田君、金子君、山村君、そして阿久津でした。
 私たちの担任が4年間長年お世話になった小牧先生から、片岡大作先生という中年の先生に変わりました。私にとりましては、盲学校に入って初めての男性の先生が担任となりました。片岡先生には、社会科を担当していただきました。確か、2年生の時は、片岡先生に歴史を担当していただき、3年生の時は、中途で視覚障害者になられた、しだら実先生が、政治・経済を担当されたと思います。
 この年に、二人の男性の先生が中学部に来られました。一人は砂子先生、もう1人は杉江先生という、若い男性の先生で、私たちは、兄貴の様な気持ちで接していたと思います。もちろん言葉は、現在の中学生のようなタメ語ではなくて、きちんと敬語で普段も話しをしていました。
 砂子先生は、私たちが小学生の頃から、宇都宮大学の点訳グループを立ち上げて、土曜日等には学園にボランティアとして遊びに来てくださいましたし、点訳本も作成していました。中学部に新任として来られると、早速タイプライターを使って点訳をしてくださったり、当時は、オープンリールを使っての録音でしたが、沢山の本を録音して私たちに聞くように勧めてくださいました。また、先生は、学園の指導員として、1週間に1回程度、宿直をしてくださり、私が高校1年生まで、学園での交流があり、様々な話をマッサージをしながら話しました。その話は後日かきます。砂子先生の担当は、中学3年生の数学の授業と、クラブ活動だったと思います。その当時クラブ活動は授業としてカウントされていました。因みに私は、2年生の時は、鈴木先生の英語クラブ、3年生の時は、砂子先生が顧問の演劇クラブで、皆で話し合って放送劇を作りました。その内容は、当時の世相を反映しての「新聞少年」というものでした。新聞配達の仕事がどんなに大変かを教えていただきながら原稿を書き、配役を決めて、最終的には擬音効果を入れての録音という1年間でした。
 もうひとりの杉江先生は、社会科の先生でした。私たちは、教えていただくチャンスはありませんでしたが、放課後などによく話す時がありました。先生は大学で政経学部に進学しました。ご自分でも、視力が落ちてきているとおっしゃっていたと思います。しかし、砂子先生と協力して、「中学部ライブラリー」を開いてくださいました。杉江先生は、「太宰治さんの本が好きだ」と言っていました。私は、国語の時間に「走れメロス」だけを読んだ記憶がありました。そのライブラリーから、何冊かの録音テープを聞きました。砂子先生も、太宰が好きだったかと思いますが、高等部に入ってからも、砂子先生とのコンタクトがあり、太宰治の本を数冊読んだと記憶しております。
 私も太宰治の「人間失格」を読んで、人生の辛さ、苦しさ、矛盾について考えさせられました。
 そんなこともあって、階段を上がったスペースには、中学部ライブラリーができ、昼休みは、皆であつまり、ここは中学部の銀座だね、などと言い、男女の生徒が仲良くおしゃべりを楽しんでいました。
 私たち3年生の男子はこの年、とても幸せな年でした。1年生になったクラスには、可愛い女の子が沢山いたのです。2年生には女の子がほとんどいなかったこともあり、1年生の女の子たちは、皆から憧れのまとでした。ですから昼休みや放課後は、「中学部ライブラリー」を、良い理由にして、男女のサロン的場所となりました。私にも密かに思いを寄せていた女の子がいましたし、増田君や吉沢君にしても、1年生の女の子に心を引かれていた人がいたと思います。他の人のことについて、ここで紹介するわけにはいきませんが、私は、ある女の子にラブレターを書きましたが、アッサリと振られてしまいました。しかし、そう簡単には諦めませんでした。その子には、私が小学6年生の頃から引かれていました。彼女は寄宿舎にいたので、仲介を増田君に頼みました。
 土曜日の午後、私は学園には「クラブ活動があります。」と言って、盲学校に残り、時間を見て、増田君の部屋に行き、午後1時半頃から、寄宿の中庭にあるベンチに、その憧れの彼女との出会いのセッティングをしてもらいました。寄宿の事務室からは、人目で見える所なので「密室の恋」ではありませんでした。
 ところが、その時、あのおしゃべりな私が、何も言えないのです。何を言ったら言いか、どんなことを話題にしたら良いか分からないのです。せっかくの、我が親友の努力と支援にもかかわらず、我輩の初恋は、情けないことに泡となって消えました。
 1年生の女の子にとっては、私たちは物足りなく、むしろ若い男性の先生方にあこがれていたように今では思い起こされます。彼女たちの期待には程遠かったのかも知れません。
 それでも、私たちの間では、文通とか、交換日記が流行していました。今ならばメールかも知れませんが、単に校内だけではなくて、全国の盲学校の友達同士での文通や、録音テープでのボイスレターを楽しむ青春期でもありました。
 私は、文京盲学校、広島県立盲学校に同学年の女の友達がいて、最初は文通、そしてボイスレターへと移っていきました。その頃、最も文通好きの女の子がいて、全国に35人の文通友達がいると言っていました。私には信じられないほどのエネルギーです。点字板での手紙ですから、点字も早く・正確に書くことができるようになったのだと思います。
 私の中学・高校時代の文通相手とは会う機会は無かったのですが、視覚障害者のニュース等で、彼女が大学に進学し、東京都の福祉施設に就職したこと、そしてラジオ等でときどき元気な声を聞いていましたが、残念なことに、10年くらい先に病死したことを知って悲しくなったこともありました。
 話しが脱線しました。三年生に戻ります。片岡先生は佐賀県の出身で、旧制中学校を卒業してから戦争中のことでもあり、予科練に応募したと聞いております。しかし、戦争には行かないうちに終戦を迎えました。紆余曲折があり、宇都宮に来られた経緯を聞いたことがありました。先生は歴史に関して造詣が深く、私たちに日本と世界の歴史、とり分け、聖書との関連性について沢山話してくださいました。
 中学三年生になり、増田君が生徒会長になり、私が副会長に選ばれました。顧問が砂子先生でした。中学部だけで45人いましたので、学部自体も活発でした。遠足では観光バスを利用して、春と秋に、県外まで旅行した思い出があります。
 運動会では、中学部の男子と高等部の男子が協力して、紅白での「騎馬戦」が盛り上りました。騎馬戦は、体格の良い人が中心になり、左右の二人がそれを支え、上に、比較的体重の軽い人が乗って、さらに騎手が落ちないように後ろにもうひとり支える人がつきます。人間騎馬同士、押し合い、ぶつかり合います。騎手が落馬したり、馬が潰れたら、そのチームは負けです。最終的には、紅白のどちらの方が多く残ったかで勝負が決まります。
 私は小柄ですから、騎手になったこともありましたが、たいていは、負けていました。そんなことが多いので、私は、たいてい騎手が落ちないように後ろに付きました。騎馬戦では、激しくもみ合いました。時にはエスカレートして、シャツを破ったとか、先生の見えないところで小突き合いもありました。駒生時代には続いていましたが、福岡町に移転した時には、危険だからということで、騎馬戦は取り止めになっていました。
 その年の11月には盲学校恒例の弁論大会がありました。中学部・高等部、学部ごとに弁士を選んでの大会です。弁論が苦手な人は、作文発表会となります。
 私はその年、初めて弁論にチャレンジしました。学園の先輩の中に、弁論の得意な人がいたので、原稿をチェックしていただき、話し方等、先輩に直接指導をしてもらいました。
 昔は、そのように先輩が後輩の面倒をみるということが良くありました。その結果、「みんなの意見を生徒会に」という演題で優勝をすることができました。秋は文化の秋です。読書感想文発表会や、講師を招いての読書週間講演会が行なわれていました。
 どうして11月にそのようなイベントが多くかったかといいますと、栃木県立盲学校の前身が足利に設立されたのが、11月13日なので、そのことを意識していたのです。時には、11月13日を盲学校の創立記念日としていた時もありましたが、1909年の創立の方が古いからという理由で、2月10日に記念日が変わったように思います。足利の盲学校の創設者は、澤田正義校長先生で、足利盲学校時代の卒業生が教師になって、盲学校に勤務していた先生も何人かいらっしゃいました。
 そんな経緯もあって、記念日の2月10日には、寒風の中、マラソン大会が行なわれました。
 高等部の男子は10キロロードレース、中学部と高等部女子は5キロのロードレースでした。三学期になると、体育の時間は、毎時間マラソンの練習で汗を流しました。
 それと共に、2月に学芸会行なわれていました。三年生の学芸会では、「イワンのばか(ロシアの民謡だと思いますが)」というのを中学部皆でしました。これは、イワンという正直者を、悪魔と手下たちが、何とかイワンを怠け者にしようとするのですが、作戦を練れば練るほどことごとく失敗してしまうという喜劇でした。
 イワンの役を私が行ない、増田君が悪魔としての名演技を披露しました。
 この頃の学校の生活の様子を書きたいと思います。夏は、扇風機も無ければエアコンもありませんでした。冬は、火鉢と石炭ストーブでした。 12月になるまでは、火鉢に炭を起して手を温めていました。12月になると、先生方が朝早く来て、新聞紙に火をつけます。それから薪をくべて加熱してから、石炭をスコップで上から入れます。調子の良い時は、1時間もすれば教室の中はポカポカと暖かいのですが、調子が悪い時は、不燃化で、全く寒くてたまらない時もありました。私たちが直接ストーブに触れ無いよう、周りには金網で囲まれていました。
 ストーブの上では、時にはさつまいもを焼いたり、三学期には餅を焼いたりした時もありました。この環境は、1974年に盲学校が移転するまでは変わりませんでした。
 石油ストーブは、臨床室や、患者さんに治療をする所とか事務室など極限られた所だけにあったと思います。
 次に、学園や寄宿での生活についてです。食事の環境は1964年以降、年々良くなって行きました。
 学園での生活ですがお風呂は、週三日間でした。盲部と聾部が交代に使い、日曜日は休みでした。
 冬の生活ですが、学園の暖房は、練炭コタツでした。夕方、各部屋から七輪を運び、保母先生に練炭の火をつけていただき、各部屋に運びます。コタツは、掘り込み式のこたつで、暑いほどになり、自習時間に眠くなる程でした。練炭は、うまく調節をすると朝までもちますが、日曜日は、お昼頃に消えてしまいますので、真冬は寒くてたまりません。そこで、密かにボイラー室に行き、炭俵から炭をくすねてしまうようなこともありました。先生に断り、声をかけたくても、日曜日の午後は、人が少なかったようでした。 学園での消灯は9時でした。すると、私たちは、まずこたつのデコラと布団をはずし、バケツに水をいれて七輪の上に、バケツを乗せて、やぐらを反対にしてかぶせます。どうしても起きていたい時は、布団をかけ、デコラを乗せて余熱で勉強をしました。
 どうしてそのようにするかと言いますと、一度、生徒の毛布がこたつに落ちて火事になりそうになったからです。
 寄宿舎の方では、電気こたつを使っていました。消灯の時間には、こたつのコードを事務室に持っていきました。夜遅くまで勉強をしたい時は、寄宿舎の図書室に石油ストーブをつけていただいて、11時頃までは勉強することができました。
 さて、この年を閉じるに当たり、忘れてはならない重大なことがありました。それは、「ザ・ビートルズ来日」です。テレビで放映されたのは、7月1日と記録にあります。前日日本武道館でコンサートが開かれました。
 ビートルズにまつわる話は未だ尽きることがありません。
 盲学校の中では、増田君、1学年下の中村君、1年先輩の川田さん、2年先輩の藤野さんたち4人が、64年頃から、ウイングスといって、ギターとドラムスのバンド活動を開始していました。増田君たちは、ベンチャーズサウンドに魅了されての結成だと思います。
 7月1日の夜、私たち学園生は、集会室にあるテレビの先に、鮨詰め状態であつまりました。
 ドリフターズの前座でしたが、観衆の叫び声で、演奏を楽しむ状態ではなかったのですが、ビートルズが日本にいる、そして私たちも今この時、共に生きている!という興奮が私の全身を走っていました。
 ビートルズを私が始めて聞いたのは、小学5年生の62年の頃と思います。9歳上の兄が、ビートルズのレコードを買って来てくれました。Please please meだったとおもいます。
 66年の来日の時も、英語の意味など分かるはずもありませんが、そのサウンドにビックリしました。ロックンロールという言葉も聞いてはいましたが、肌でこれこそ「ロックンロール!」と、心底感じたような気がしました。
 そのテレビの放映後、私の洋楽への関心がぐんと深まって行きました。。そして翌年、GS(グループサウンズ)が大ブレイクとなりました。
 盲学校の中でも、多くの先生たちはアンチビートルズが多くて、「あんな歌を歌うやつは不良だ。あの髪型はなんだ」などと言われていました。その頃は、男子は坊主頭が常識でしたから…。
 当時は、ビートルズを見に行くために、家出をして警察に保護された少女たちが上野駅付近に沢山出没したというニュースが流れていました。また、コンサートの時には、興奮をした女の子たちが、失禁をしたと聞きました。その頃の私には、女の子がどうして興奮するからといってお漏らしをするのか理解できませんでした(今では良く分かります)。
 とにかく、増田君たち「ウィングス」は、そんな中、体育館を使ってエレキギターでベンチャーズの曲の練習に余念がありませんでした。「テケテケテケ」という音です。
★メモ★
 1968年度(昭和43年度)までは、11月13日を、栃木県立盲学校の創立記念日としていましたが、1969年度から2月10日を創立記念日として祝うようになりました。学芸会は2月にしたり、11月にしたりしていました。


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