第8話 高等部理療科本科入学(1967年)




 1967年(昭和42年)、私たち9人は高等部理療科本科に入学しました。
 ここで、当時の理療科のシステムについて簡単に説明をいたします。中学部を卒業すると、理療科には、二つのコースがあります。1つは専攻科への進路を念頭においての、高等部理療科本科(正式には、本科按摩科)です。現在の保健理療科とほぼ同じ内容です。3年間学習を終えると、あん摩マッサージ指圧師の検定試験を受けて、知事より免許証を取得できます。もうひとつは、高等部理療科・別科(正式には別科按摩科)と言いまして、中学卒業後、2年コースでした。資格は、あん摩マッサージ指圧師の免許です。中途失明の人、また、卒業して早く就職につきたいという人が入学しました。
 本科を卒業する人の多くが、さらに専攻科理療科に進み、2年間勉強をして、はり師、きゅう師の検定試験を受ける制度でした。これは、1992年まで続きました。93年(平成5年)から国家試験に変わりました。
 栃木県立盲学校では、1971年(昭和46年度)から、高等部に普通科が設置され、高等部普通科3年を卒業した生徒が専攻科理療科へ進学して、3年後、あはき(あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の略)の試験を受験するようになりました。1992年までは都道府県の検定試験が継続され、中学卒業で、保健理療科もあり、あマ指(あん摩マッサージ指圧師の略)の検定試験を受けていました。保健理療科は、栃木盲学校では現在でも設置してあります。
 さて、改めて私のクラスメイトを紹介します。これまでの中学時代からの8人、敬称略で、大槻、金子、増田、吉沢、橋本、篠崎、山村、阿久津に、新しく内田君が入学して9人となりました。この9人が5年間机を並べて、1971年度の専攻科卒業生となります。
 別科の方は省略させていただきます。
 私たちの担任は、理療科の蓼沼先生、そして副担任が、その年、盲学校に転任された杉山先生でした。杉山先生には数学を教えていただき、私の最も力を入れた、放送部の顧問になっていただきました。
 いよいよ理療科の勉強が始まりました。1年生では、普通科は中学生の時とほぼ同じ教科がありましたが、概ね2単位でした。理療科としては、私たちは、解剖学を中心に4単位程度勉強したと思います。そのほかに、あん摩、マッサージの実技を週3時間ずつ勉強をしました。2年・3年と学年が進行するにつれて、学習する教科が変わり、増えていきました。
 まず驚いたのは、解剖学でした。1年間を通して、人体の骨・筋肉・神経・消化器系・循環器系・生殖器系等を勉強して憶えなければなりませんでした。中学を卒業したばかりの私たちには、外国語と同じだったと思います。担当の先生は丁寧に説明をしてくださいましたが、それでも、点字使用者にとっては、新しい言葉ばかりでした。漢字を使用している人にとっては、漢字を書くことは至難の業ですが、読めば、おおよその検討がつくかと思います。しかし、言葉で、三叉神経(さんさしんけい)と聞いてもその意味が分かりません。肩甲骨(けんこうこつ)と聞いて、「けん」とは「かた」のこと、と、一つひとつを憶えて行くしかありませんでした。私は、得意の記憶力を生かして、意味が分かろうが分かるまいが、丸ごと憶えていきました。筋肉にいたっては、起始・停止・作用を全て憶えました。神経もどこから始まり、どこで終わるかということも憶えなければなりませんでした。それに対して、実技の方は、手技が難しいながらも、慣れて行くにつれて、肩こりや腰の硬い所を見つけることは比較的早くできるようになりました。これは、日ごろ点字を指先で読んでいたことがメリットになったかと思います
 その一方、私は、放課後、野球部、放送部、そしてその頃結成されたブラスバンド部に加入しました。ブラスバンドは、当時小学部の音楽の担当の、鈴木真一先生が指導をしてくださいました。目的は、9月に行っていた、運動会の開会式・閉会式の演奏、そして、学芸会での発表でした。ブラスバンドは、毎日というよりも各パートで練習し、時々集まって、海兵隊マーチと君が代の練習でした。増田君はトロンボーン、私はトランペットでした。3年生の学芸会では、この二人がソロで発表をするまでにいたりました。
 野球部ですが、私たちの2年先輩は、1クラス15人程度いたこともあり、先輩たちが大変優秀でした。私は、1年生の時から3年生まで、旭先生からノックを受けての補欠でした。後は、ヤジ専門だったとおもいます。その先輩たちが専攻科2年を卒業するまで、つまり私たちが高校3年生までは、関東甲信越野球大会で優勝を重ねました。そして、私たちが専攻科に入った年から、有力なメンバーがいなくなったこともあって、北関東でも予選落ちでした。私がレギュラーになったのは、専攻科に入学してからだと記憶しています。サードに入り、ヤジが得意でした。そのヤジというのは、バッターが弱視の時は、私たちは何を言っても良かったのです。プロ野球でいえば、野村元監督ですが、「このバッターは当たるよ、どんな球でも打てるからね。」そして、ピッチャーがボールを転がした瞬間に、「ほらストライク、打て」と、キャッチャーとか内野にいる人は声をだしても良いのです。私は、サードを守っている時は、その掛け声をかけていました。バッターは迷った時に、思わず振ってしまうことがあったり、誉め殺しににあって、力が入り、打ちそこなうということもありました。私の守備はハッキリ言ってうまくはありませんでした。増田君は、私の後ろ、レフトのポジションなので、後ろに行ったらよろしく頼むよ、でした。
 そんな訳で、私たちが高等部にいた3年間は、先輩たちのお陰で、関東甲信越地区盲学校野球大会で優勝したと思います。私たちが専攻科に入学してからは、塩原視力障害者センターや茨城県立盲学校とは練習試合をしましたが、なかなか勝てませんでした。野球中継を聞くことについては優秀でしたが、プレイヤーとしては、ドラフト外だと思います。私が専攻科1年の時かと思いますが、北関東野球大会で、茨城盲学校との試合、ランナーは満塁でした。私の守っているサードに、コロコロとボールが転がって来ました。「よし獲ってやれ!」と、私はボールに飛びついた瞬間!そのボールを蹴ってしまいました。ボールは残酷にも、ファールラインを超えてどこかへ行ってしまい、悲しくも、さよなら負けとなってしまいました。そのシーンを、卒業してから10年間たっても夢の中で何回も見たことがあります。ですから、野球に協力をしていましたが、私の取り組む態度はあまり興味が無かったのかも知れません。高校野球でさよならゲームを聞くと、そのピッチャーは、私のように生涯忘れられないのでは…と心配してしまいます。
 さて良かったのが放送部でした。中学部の時も、先生の指導の下に、週1回15分程度の音楽番組を録音して、給食の時間に校内放送として流していました。高等部に入ってからは、音楽番組と同時に、学校内のニュースやインタビューの番組を制作して、給食の時間に流していました。この放送部には、吉沢君も入り、5年間続けました。後で書きますが、専攻科に入ってからは、独自の番組で、録音校正をして、民間放送の主催する録音構成番組にも出品して優秀な成績をあげることができました。
 さてここで、私の人生の転機について書きたいと思います。それは以前からも多少書いていましたが、鈴木彪平先生との出会いでした。中学3年生の後半ごろから先輩に誘われて、土曜日の午後、2時から4時まで鈴木先生の自宅で行われていた、バイブルクラス(聖書研究会)に出席するようになったことです。そこには、学園から多い時は10名、少ない時でも4・5人は出席していたと思います。皆で賛美歌を歌い、鈴木先生が聖書の話しをしてくださいました。その後には、奥様からお茶とお菓子をいただくのが楽しみでした。当初は、後半の方が目的だったように思います。
 しかし、高校生になって、私にはひとつの深刻な悩みがありました。それは、5人兄弟の中で、どうして私だけが生まれながらにして目が見えないのかということでした。単に病気だからしかたがないという問題ではありませんでした。鈴木先生は、そのことについて、新約聖書ヨハネによる福音書9章から話してくださいました。それは、イエス・キリストと弟子たちが道を歩いていた時、生まれつきの盲人に出会います。弟子の1人が、「先生あの人が盲人なのは、本人が罪をおかしたからですか、それとも先祖の罪があったからでしょうか?」、それに対してキリストは、「本人が罪をおかしたのでもなければ先祖の罪が彼の上に現われた分けではない。神の御業が彼の上に現われるためである」と、答える話がありました。先生は、神の業とは、神様を信じることです。そのことによって、人生が変えられるのです。例え目が見えなく生まれて来ても、神様を信じることによって、希望と勇気があたえられるのです。と、お話になりました。その当時、私たちの先輩の小森先生は、大学院を卒業して桜美林短大で教鞭をとっており、また、バイブルクラスには、その当時、矢板市のホーリネス教会で牧師になられた、私たちの先輩の小林猛先生もメッセージに来てくださっていました。
 私は、その話しを聞いて、希望と勇気が与えられました。そして、私にも大学に進学したいとの夢がわいて来ました。我が家の経済は決して豊かではありませんでしたが、鈴木先生のバイブルクラスに出るたびに、つねにその夢が希望へと膨らんでいきました。それ以来、盲学校を卒業するまでの5年余りは、余程のことが無い限り毎週出席しており、教会に行くようになったのは、高校3年生の頃からと思います。
 65年頃から70年代まで、日本では大学紛争で荒れ狂っていました。早稲田大学、東京大学でも、学生たちが変革・改革・革命を旗印に、立てこもり、機動隊が投入されました。左翼過激派が主流と言われますが、当時は、改革・革命が学生たちのやるべき目的化していたように思います。ベトナム戦争反対、70年の日米安保条約反対、学費値上げ反対、東京大学医学部での、法権的な体制への反対等、学生たちは立ち上がりました。しかし、国家権力による、機動隊導入の先には、学生のリーダーたちは次々と逮捕されていきました。
 70年頃には、現筑波大学付属盲でも、総轄と言って、生徒の中にはかなり激しい闘争が行われていました。
 音楽の世界では、ビートルズ・ローリングストーンズ・ベンチャーズが全盛を極め、日本の67年から70年までの4年間は、グループサウンズ全盛期でした。そんなとき、増田君たちの「ウイングス」も、演奏の腕をあげてきました。そこに、私たちのクラスの橋本さん以下、2年後輩の女の子たち3人が加わり「バンビーズ」というグループを作り、「ウイングス」をバックに歌っていました。キャンディーズの先駆けでした。
 GSでは、タイガーズ、テンプターズ、スパイターズ、オックス、ビレッジシンガーズ、ワイルドワンズ、パープルシャドーズ、カーナビーツ、ザリガニーズ、そしてジャッキー芳川とブルーコメッツ等など大流行でした。特にブルーコメッツ、ブルーシャトーは、1967年3月に発売大ヒットとなりました。「もりとんかつ、いずみにんにく、かーこんにゃく、まれてんぷら、しずかにんにく、ねむれんこん、…と子供たちは替え歌で歌っていました。グループサウンズの中で、ブルーシャトーだけがレコード大賞になり、ブルー・コメッツが、NHK紅白歌合戦にも出場した唯一のグループでした。そのキーポイントは、スーツにネクタイ姿であったからとも言われています。
 その一方、伊藤ゆかりさんの「小指の思い出」、あなたが噛んだ小指が痛い…の歌もヒットしていました。 
 この年度で最後に書かなければならない悲しいニュースがありました。砂子先生が、25歳の若さで、不慮の死を遂げたことでした。学園の指導員をしていた時、私は習いたての按摩を砂子先生にしてましたが、先生は、私に「君たちは自分の将来だけのことを考えないで、この社会を改革するために生きることを考えなければならないよ。」と、言っていた言葉を思い出します。
★メモ★
 1968年から、東京大学医学部を中心に、全共闘紛争が始まり、1969年(昭和44年)1月に、40人の学生が安田講堂に立てこもり、機動隊が投入された。その前後、全国の大学では大学紛争が広がっていった。栃木県出身で一昨年亡くなった立松和平さんは、その頃、早稲田大学の文学部で、学生運動に加わり、機動隊と戦った様子が、彼の本にしばしば書かれています。また、1969年、高野悦子著「二十歳の原点」も、話題となりました。宇都宮女子高校から大学へ進学してからの精神的活動が、赤裸々に書かれているベストセラーです。



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