第9話 江曽島学園での生活



 この辺で、江曽島学園での生活について書いてみたいと思います。
 私たちの日常生活は、以先にも書きましたように、保母先生の温かく、優しい生活指導の下に、楽しい生活を過ごしていました。小学生時代から、洗濯や掃除は自分たちでしていましたが、60年代は、まだ生活も苦しく、ズボンは膝の所やお尻の所はしょっちゅう擦り切れて穴が空いていました。その度に、保母先生に縫い物をお世話になっていました。靴下も、かかとの所に穴が空くと、それも縫っていただきました。現在のように、買い替えはめったにありませんでした。各家でも生活は貧しく、学園に対する補助金も十分ではなかったかと思われます。
 私たちが中学生になった頃、北川先生という、音楽の先生とお弟子さんたちが、学園に慰問に来てくださいました。北川先生は、県庁の近くにスタジオを持っていて、音楽教室を開いていました。その慰問をきっかけに、毎週「音楽の時間」ということで、木曜日の夜、6時半から8時まで、学園生の中高生対象に音楽のレッスンが始まりました。
 当初はみんな喜んだのですが、歌が苦手な人で、北川先生のピアノの所で歌を歌うのが嫌いな人も出てきました。また、その当時は、歌謡曲よりも、労働歌が多かったのです。「立て!たくましい労働者」…ソ連での歌も多かったように思います。ペギー葉山の、「学生時代」は、歌の会で教えていただきました。NHKのみんなの歌は、新鮮に感じました。
 しかし、その90分は私たちにはだんだんと苦痛になりました。2年くらいすると、ある人は、長いお風呂でパスしたり、ハッキリと、「歌の会」には出たく無いという声が出始めました。私も最初の方は喜んでいたのですが、野球のナイトゲームの夜は落ち着きませんでした。困ってしまったのは、音楽会の調整を担当している保母先生でした。
 ついに、北川先生も、「君たち、歌の会に出たくないのなら、無理に出なくても良いぞ!」と、爆発してしまいました。北川先生は、ボランティアとして来てくださっていたと思うのですが、全員強制というのには抵抗が大きかったのだと思います。結局、自由参加になりましたが、先生の都合が悪くなったこともあって、「歌の会」は次第に無くなっていきました。
 良かった点としては、先生のお弟子さんの中で、NHKの喉自慢に参加して合格の金をならした人が3・4人いたことで、その実力の程は、私たちにも良く分かりました。そして同時に歌も、ただ歌うだけではなくて、北川先生がよくおっしゃっていたこと、「君たちは声は大きいけれど、歌をどなるだけではなくて、その意味や心を歌わないと聞き手には伝わらないのだよ」とのアドバイスは、私たちにはとてもありがたかったです。
 学園では、理療科に入ってから、自習時間が終わると、保母室に出かけて、先生の肩や腰を借りての按摩の練習に励みました。専攻科の先輩たちは若い保母先生を、私たち後輩は年配の先生、と暗黙の内に決まっていました。 さて私たちは、1968年(昭和43年)、高校2年生になりました。この年に、担任が旭明二先生になりました。私たちが小学部に入学した時に、新任として盲学校に来られた先生です。旭先生には、2年、3年と担任をしていただきました。主にホームルーム、地理、そして放課後は野球の監督をしていただきました。
 旭先生には、大学時代の話しをよく聞かせていただき、東京教育大学(現・筑波大学)時代に、60年安保闘争にもデモをしたとのお話や、戦争中には「疎開」をして、栃木県にいたということも折に触れてしてくださいました。
 私たちのホームルームでは、政治に関心を持つ生徒が何人かいました。その1人に私もいました。旭先生から、話し合いたいテーマはないか?との話で、私たちのクラスでは、自衛隊は、憲法9条に違反しているのではないか?また、日米安保条約には賛成か、反対か、等についてディスカッションをしました。自衛隊については、賛成の人もいましたが、憲法で戦争放棄をうたっているのだから間違っているのではないかとの声もでました。憲法については、当時話題になっていた、非武装中立論(日本は武装をしない、中立を保つという理論)、有事中流論(何か事態が発生したら、アメリカ軍に助けてもらう)等の考えが,各政党から出ていたので、そのことについての学習会をしました。社会での学生紛争を色濃く反映していたと思います。
 私たちの友人たちは、それぞれ理療科以外にも将来への夢を持っていました。増田君は、エレキギターの他に、フォークギターやクラシックギターにも興味を持ち始め、休み時間には、よく「アルハンブラ宮殿の思い出」にチャレンジしていました。一時期は、音楽大学への進学も考えていたようでした。後輩の女の子の中には、歌謡歌手を目指している人もいました。そこで、私は、先に書いた北川音楽スクールに彼女を紹介したりしました。彼女は、本気でレッスンを受けに通ったようでした。
 私はといえば、ラジオのアナウンサーでした。当時民放では、文化放送、TBSラジオ、ニッポン放送では、DJ(ディスクジョッキー)が花形でした。落合恵子さん、みのもんたさん達の「セイ!ヤング」、愛川欽也さんの「パック・イン・ミュージック」など、若者たちはラジオを聞きながらの受験勉強でした。
 私は、放送部で週1回の番組を作りながら、栃木放送、土曜日の夜、「こんばんは仲間たち」という番組に申込みました。最初は後輩と二人で、栃木放送に出かけていき、二人で短い落語と音楽をかけての番組でした。そうしたら、あまりつまらない話をすると、盲学校のレベルが低いと言われるから止めるようにと言われてしまいました。
 2度目は3年生になってから、同級生の増田君、大槻君のギターに合わせて、2年後輩の歌姫、渡辺文子さんに「ふたつの手の思い出」、臼井一子さんに「友よ」を歌ってもらい、そのほかに、大月君・増田君のギター演奏で、セントルイスブルースと、夜霧の偲びあいを放送しました。これは、成功だったと思います。さらにもう一度チャレンジしました。
 それら3回、45分の番組に出てみて、私の夢、ラジオのアナウンサーがいかに大変かが良く分かりました。つまり、アナウンサーといえども、話すことはほんの一部で、それよりも、記者としての取材や中継、報道が非常に多いことが分かり、さらに加えて、私の栃木弁のアクセントがかなり重症であることも教えられました。その点では、自分を知る良い機会になりました。
 校内放送の番組作成は楽しくてたまりませんでした。土曜日や日曜日にも江曽島学園から盲学校まで、1人でバスを乗り換えて行きました。吉沢君と協力して、音楽を準備し、原稿を書き、録音をしました。新しくいらした先生にもインタビューをして、給食の時間に流しました。
 この年には、理療科では、小池上先生が、新任としていらっしゃいました。また、体育では、ダンスの権威者・上吉原先生が一般高校からこられました。小池上先生とは、直ぐに親しくさせていただき、盲学校の近くのアパートにも何度か遊びに行きました。先生はウクレレを得意としていらっしゃいました。その影響で、私もウクレレをちょっと我が家で買って弾いてみましたが、直ぐにあきらめてしまいました。私には弦楽器はどうも無理な様でした。
 ここで盲学校で行われていたマラソン大会に触れたいと思います。毎年2月に、中学部、高等部では、マラソン大会が行われていました。駒生町にありましたので、高等部男子は10キロのロードレース、女子は5キロでした。68年の2月(私はまだ1年でしたが)、私も10キロを走らなければなりませんでした。体育の時間には5キロを走っていましたが、10キロは初めての経験でした。当日は、日ごろ足の速い内田君が、私の手引きをしてくれました。内田君にしては、なんて遅いんだ!と、思ったかどうかは分かりませんが、私にしましては、実に厳しい10キロでした。盲学校を出て射撃場を通過し、火の見やぐらから折り返しでした。私はその頃もう既に、息も絶え絶えでした。体力が無いのと、長距離を走るのは特に苦手でした。それでも、内田君の上手な手引きのお陰で、何とかゴールインしましたが、足の親指にはまめができ、間もなくつぶれて靴をはけなくなってしまいました。10キロを54分で走れたのは、内田君がサポートしてくれたからと思います。参考までに、増田君は47分50秒が自己新記録だそうです。当時の盲学校新記録は、38分だったと記憶しております。次の年からは、体育の先生にお願いして、女子と同じ5キロコースにまわしていただきました。たった1度の10キロコース、忘れられません。
 内田君は短距離でも早く、100メートルを、12秒3で走り、運動会の紅白リレーでは花形選手でした。栃木盲の最高記録は、11妙3だそうです。
  次に、国語の吉江先生のことを書きたいと思います。吉江先生は、当時、高等部の主事をなさっていらっしゃいました。晴眼者の先生ですが、国語を担当し、点字の達人でした。作文を書いて、両面で二つ以上の間違いがあれば、即、書き直しを何度でもしなければなりませんでした。また、高等部の点字使用者には、大変な宿題がありました。それは、まずは吉江先生ご自身が点訳をした「角川国語辞典 全32巻」を、点写といって、1枚、また1枚と、生徒たちが写し書きをすることです。国語の辞書が無いために、吉江先生がまずは全巻点訳をしてくださいました。そして私たちが、時間の合間に、写し書きをするということでした。後輩たちのために、遺産として残す目的がありました。各クラスに設置する目的が最終目的でした。各先輩たちの書いた国語辞典を読みましたら、実に良くできていました。
 私たちは、最初はしぶしぶでしたが、1冊出来上がる喜びを知ってからは、楽しみながらの点字写し書きを続けていました。
 吉江先生は、国語の時間、難しい語句については、一つひとつの漢字を音読み、訓読み、熟語を多用して分かりやすく説明してくださいました。その知識が、20年後のパソコンの普及にどれだけ役に立ったか計り知れませんでした。
 先生は、戦争中、徴兵検査の後、中国の方に行っていらっしゃいました。年齢としては、鈴木先生、高村先生とほぼ同じくらいだと思います。国語の時間にも、その戦争の体験を沢山話してくださいました。それを良いことに、私は期末試験が近づくと、「先生、戦争中はどうでしたか」と、話題を仕向けます。吉江先生は、とうに私の気持ちなどはお見通しですが、それでも嬉しそうに「君たちは、また、私に戦争の話しをさせて時間を延ばそうとしているな。」といいつつも、「それは大変な時代だったよ…」、と、先生の体験に入って行きました。
 ある時、大岡昇平さんの戦争についての作品の時に、先生が「「君たちは、人生は、偶然かそれとも必然か、どう思う?」と、話題を持ちかけました。私はその頃、鈴木先生のお宅でのバイブルクラスに出席しており、どんな人にも神様のご計画、節理があると信じていましたので、人生は必然であるという意見を出しました。すると吉江先生は、「私は人生は偶然の連続の様に思えてならない。戦争に行ってつくづくそう思うよ。戦っている時に、自分が助かり、隣にいた戦友が倒れて命を亡くしてしまう。そんな経験をすると、人生は危ういもの、偶然の連続のように思えてならない…。と、お話されたことも、心の奥に残りました。
 吉江先生は、仏教に深い知識を持っていらっしゃいました。それゆえに私は、そのような話しをしてくださる吉江先生を尊敬しておりました。不言実行の先生だったと思います。阪神淡路大震災、東日本大震災を経験して、吉江先生の言葉が今鮮やかに思い出されます。
★メモ★
 吉江先生は、1975年から77年までの3年間、栃木県立盲学校の校長先生をなさっており、ご退職後も、点訳ボランティアとして、盲学校に点字図書を寄贈してくださいました。
 町では、石田あゆみさんの「ブルーライト横浜」が、68年の12月25日にリリースされ、大ヒットとなりました。漫画「サザエさん」でも、駅にかけこんだサザエさんが、「すみません。ブルーライト横浜1枚ください」との逸話がありました。



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