第10話 高校3年生前篇(1969年)




 1969年(昭和44年)は、様々なことがありましたので、今回は2回に分けて書きたいと思います。
 この年は、日本はもちろんのこと、世界でも様々な出来事が起きました。
 まず、1969年の7月21日の朝のことを書きます。その朝、私たち高等部の野球部の選手たち約12名は、5時半頃には、宇都宮駅(当時国鉄でしたが)に集合していました。監督は、私たちの担任でもありました旭先生です。駅の建物は木造建築だったと思います。
 私も野球部の補欠だったかも知れませんが、関東甲信越地区の試合をするために、平塚盲学校に集合しました。宇都宮駅にはテレビがかけてあり、正に人類史上初めて、アポロ11号が月面に着陸しようとしていました。
 アームストロング船長、オルドリン、コリンズの三人が乗船していました。私たちが宇都宮駅にいる間に、アポロ11号は月に着陸しました。月からの音声が聞こえるなんて信じられないことでした。
 アームストロング船長の一言は、「この1歩は私たちには小さな1歩ですが、人類には偉大な1歩である」と、言うような言葉だったと思います。
 人間の見果てぬ夢が、ついに実現したのだと胸躍らせたことを、私は今でもハッキリと憶えています。翌年の70年の大阪万博には、月から持ち帰った石が飾られたと聞いています。
 その後、あれは捏造ではないか?との、風評が流れましたが、私はそれは真実だと今でも思っていますし、最近、アメリカ当局は、そのアポロ11号が海に落ちたものを引き上げようとしているようです。
 その他、以先にも書きましたが、ベトナム戦争反対、70年日米安保条約反対、大学紛争等で、日本中が揺れていました。
 その7月21日の平塚での試合の結果は良く憶えていませんが、先輩方の活躍で優勝して来たのではないかと思います。
 さて、学校生活に話は戻りますが、私たちは高校3年生になりました。
 私と吉沢君は、毎週放送する校内放送と、その年にチャレンジしようとしていた民間放送主催の30分間の録音構成に取り組んでいました。
 当時、放送部員は4人いたと思います。
 1班は1年後輩の中村君と瀬山君、そして2班が吉沢君と私でした。この2班が火曜日と木曜日に分かれて15分間の録音番組を作り、給食の間に、放送室から番組を流して楽しんでもらっていました。主に、ディスクジョッキーが多かったのですが、時には、当時、私たちが中学1年生から長髪は認められていましたが、学園生の多くが坊主頭だったこともあり、長髪は良いか、悪いか等のディスカッションや新任の先生へのインタビュー、小野里校長先生へのインタビューなどを流しました。
 その他に、私と吉沢君は、顧問の杉山勇先生にお願いをして、地元の栃木放送に出向いて、アナウンサーに直接インタビューを試みました。栃木放送では快く引き受けてくださいました。
 その時、私の心には、ラジオのアナウンサーへの夢が捨てきれていなかったのだと思います。磯部アナウンサーに15分間インタビューをして来ました。磯部さんは、栃木市の出身なので、視覚障害者でも何とかならないだろうか?との、ささやかな望みがありました。その後、磯部アナウンサーは、東京12チャンネルの方に転勤して、キックボクシングなどのスポーツ番組で声をたびたび聞くことができて、私も嬉しかったものです。
 もう1つは、30分間の録音構成番組でした。
 まずは、4人で話し合い、私が原稿を書き、杉山先生にアドバイスをしていただき、書き直しをしました。
 題名は「これが盲人だ」というもので、視覚障害者がどのように生活しているか、また社会の人たちが視覚障害者をどのように理解しているかをテーマにしました。
 最初、視覚障害者を理解してもらうために、私たちがどのように勉強しているかを、録音によって制作しました。クラブ活動では、水泳の様子を録音して生徒にインタビューし、また、点字を書いたり読んだりの様子等を編集しました。さらに、視覚障害者として、社会の人たちに訴えたいことを、数名の人にインタビューして盲学校からの正しい理解をしてもらえるように編集しました。
 次に、社会の人たちが、視覚障害者をどのように理解しているかについては、中村君が録音機とマイクを片手に、宇都宮市内のオリオン通りに出かけていって直接インタビューをしました。これはとても興味深いものでした。
 突然のインタビューに言葉の出ない人もいましたが、「眼の見えない人ですか?可哀想としかいえませんね。」、「政府がもっと助けてやらなければならないね。」、「障害があっても頑張って生きてください。」等の声を聞くことができました。
 一方、私は、江曽島学園に慰問に来てくれた宇都宮附属短大の合唱部の人たちに、交流の後、インタビューをしました。
 彼女たちの感想は、「最初は目の不自由な人たちがどんな生活をしているか心配もあったけど、一緒に歌ったり、話しをしたら、私たちと何の変わりもないことが良く分かりました。友達になれるし、なりたいと思います」と、編集者の狙い通り答えてもらうことができました。
 その頃は、テープレコーダーはオープンリールでした。大きなテープレコーダー、小さい機械でも3kg程度のものでしたが、楽しかったです。
 録音編集は、テープレコーダーを4台つなぎ合わせて、1台はアナウンス、1台はBGM、1台はインタビューや様々な音、そして、もう1台は最終的に録音をまとめる機械でした。編集にはマイクミキサーという機械を使用しました。
 その年、私たちの努力が認められ、栃木県では最優秀賞をいただき、関東甲信越では6位になることができました。
 ちなみに、次の年は、「我が人生を生きる」というテーマで、卒業して間もなく開業をした、若き開拓者・直井隆さんをテーマに編集をしました。とても良い内容だと私たちは思ったのですが、残念ながら入賞をはたすことはできませんでした。
 しかし、顧問の杉山先生は、私たちの願いを快く了承してくださり、応援してくださったことには心より感謝をしています。
 さてここで、増田君にも登場してもらって、我ら親友悪友のことを書かなければなりません。
 放送部で知識を得た私が、増田君に、「教室のスピーカーの下のピンを、中継コードを使って、音楽を流すと、学校全体に流れると聞いたのだけど…」と、話すと、増田君も乗り気になって、「やってみっか!」と言い、ある朝、ホームルームの直先に、私たちのクラスのスピーカーにコードを繋いで、前もって用意しておいたテープレコーダーから、リズミカルなポップスを流しました。するとどうでしょう?見事に音楽が全校に流れ出しました。驚いたのは先生方です、何人かの先生が放送室にかけつけましたが、機材は全く異常なし、しかし音楽は景気良く3分間程度流れていました。「なんだ、どうした!」との声があちこちから聞こえて来ました。そのうちに、二人のイタズラが発覚してしまい、私たち二人は、放送室に呼び込まれ、油を絞られました。私よりも増田君の方が一発ケリを入れられたかな。
★メモ★
 中村君は、5年先に残念ながら、55歳の若さで病死しました。直井先輩は昨年の5月に64歳で病気のためにお亡くなりになりました。
 杉山先生は、盲学校から、聾学校、益子養護学校、野沢養護学校の教頭、国分寺養護学校の校長先生になってご退職、ご健在です。
ここで、私の進学についてのことを書きたいと思います。私は、高校2年生の頃から、鈴木彪平先生に相談をしながら、3年生を卒業して、あん摩マッサージ指圧師の資格を取得したら大学に行きたいと願って、受験勉強を始めていました。自分では、夜10時半から文化放送の番組「百万人の英語」、11時からの大学受験講座を聞いて録音をしながらノートを必死にとっていました。英文法・英作文等でした。
 他方、日本赤十字社のボランティアの人たちが、毎週火曜日の夜90分、宇都宮大学点訳グループの人たちが、土曜日の午後や日曜日の午後に受験問題集を読んでくださいました。そこで、私立大学のために、日本史と国語の問題集を読んでいただいての勉強を続けていました。
 3年生のある日、鈴木先生に呼ばれて、職員室に行ってみますと、「盲学校の理療科では、英語が3年間では6単位にしかならないから、大学を受験する資格がないそうだ」と、言われてしまいました。私は一瞬ガックリとしてしまいました。鈴木先生は、「あきらめることはないよ。専攻科まで英語を勉強すれば10単位になるから頑張ればいいんだよ。」と、励ましてくださいました。私は一時期落ち込みましたが、その頃、私より3年先輩の平山益太さんが、69年に、桜美林に進学していたので、さらに2年間勉強を続ければ良いのだと、自らを励ましました。
 私は、高等部になってから、毎週土曜日の午後は、鈴木先生のお宅で開かれていたバイブルクラスに出席し、その後、個人的に英語の聖書を教えていただき、さらに、家庭のことや進学のことについても、悩みを聞いていただいていましたが、大きな励ましと力をいただきました。キリスト教の信仰には、その頃から急激に惹かれて行ったと思います。
★メモ★
 その当時の人気テレビ番組は、NHK総合テレビ 人形劇「ひょっこりひょうたん島」は、64年から69年まで続きました。その後も何回も再放送されました。日本テレビ、土曜日の夜7時からの30分間「巨人の星」は、66年から71年まで放映されました。こちらも、何度も再放送されました。



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