第11話 高校3年生後篇(1969年)




 今回は、私たちが高校3年生の時の続きを書きたいと思います。
 こうして盲学校の生徒時代を懐古している時に、江曽島学園や寄宿舎で常に楽しんでいた遊びがありました。それは、畳野球というものです。盲学校ならではの遊びと思いますが、ボールは、軟球をつかいます。部屋の壁際に、ピッチャーともう1人が座ります。その反対側の窓際に、キャッチャーが正座の状態で座り、15センチ程度膝を開き、そこにボールが入ったときはストライクとなり、膝小僧やその他はボールとなります。バッターは、畳の仕切りの所に座り、手でボールを打ちます。ピッチャーやもう1人(外野と、呼んでいました)が、ボールをとればアウトです。とれない時は、セーフとなり、シングルヒットとなります。それが基本的なルールで、ヒット4本で1点というゲームでした。保母先生たちからは、畳をいためるから止めるようにと再三注意を受けましたが、小学生後半から高校生まで、よく楽しみました。ノーバンドで、ボールが壁や人にぶつかるとそれは危険なのでアウトということになります。4人いれば楽しめるゲームで、贔屓のお気に入りのチームの名前で試合をしました。時間があれば、9回の表裏までやりました。人数が多ければ、外野の数を増やすというものでした。ピッチャーは右手を使ったり、左手を使って畳の上を転がします。ストレート、カーブ、シュート、時にはスローボールを投げることができて、それは楽しいものでしたが、盲学校が現在地に移転してからは、そのようなゲームは次第に無くなっていきました。
 さて、私たちが高校3年生の夏休みになって、二つの出来事がありました。その1つは、ダブルデートでした。私には高校2年生の頃から、先に書いた女の子と違う女子に心を惹かれており、彼女は、中学1年生の時から、盲学校に転校して来たのでした。弱視ですので、使用文字は点字ではありませんでした。彼女ばかりではなかったかと思いますが、当時の弱視の人たちも、点字をかなりマスターしていました。手紙やメモ等に書いていたのだと思います。私は寄宿にいる彼女と9ヶ月間、点字での日記交換をしました。寄宿と学園の違いもあり、また、音楽の話など、毎日の日記を交換して、その郵便配達は、クラスメイトの橋本さんにお願いしていました。そして、3年生の夏休みに、増田君の住んでいる日光に、吉沢君とそのガールフレンドの4人で行くことを密かに決めました。行く先は、日光の増田君の家です。その日、綿密に打ち合わせをして、吉沢君・そのガールフレンド、そして私と彼女が宇都宮駅に集合することになっていました。吉沢君のガールフレンドは、佐野市からきちんと来たのですが、私のお目当ての人の姿は現われないのです。心配になって、彼女の家に電話をすると、本人が出てきて、「ごめんね。風邪を引いて行けないの…」との言葉!私はガックリでした。そこで、私も家に帰るわけにも行きませんので、吉沢君とガールフレンドの付き添い人ということに役割が変わらざるをえなくなりました。吉沢君が羨ましかったこと。結局電車に乗り、日光に行きました。それからのことはよく憶えていないのですが、増田君のお宅でお昼をご馳走になって帰宅しました。余計なことですが、吉沢君とそのガールフレンドとのお付き合いも、そう長くは続かなかったような記憶があります。
 さて、もう1つは、「東京畜研」が全国的に主催した、音楽コンクールの話です。その頃、長谷川きよしさんの「別れのサンバ」がヒットしていました。彼は、現在の筑波大学附属盲学校の出身で、シャンソンコンクールで優勝をしたこともあり、「別れのサンバ」は、レコード30万枚を売りました。そんな話題性もあり、東京畜研では、盲人の歌手を育成・支援しようということになり、全国の盲学校に声をかけて、各県単位でのオーディションをすることになりました。音楽担当の塚本先生のご指導の下、私たちのクラスからは、橋本さん、増田君、吉沢君、そして私がエントリーしました。また、2クラス下の歌姫たち数人もエントリー、さらに、卒業生の先輩の直井隆さんもエントリーして、10人近い人たちが出ることになりました。夏休みの暑い最中、盲学校に何度か登校して、塚本先生にご指導をしていただきました。8月のある日、私たちは、県庁の近くにある、栃木放送に集まり、スタジオに入って、一人ひとり、プロのピアノ伴奏で歌うことになりました。審査員も、テレビ番組で聞いたことのある専門の先生でした。私の持ち歌は「サンタルチア」、増田君は「春の日は花と輝く」、その他、追憶等を歌った人もいました。結果は、直井さんの「オーソレミヨ」と、増田君の二人が優秀賞ということで選ばれ、東京虎ノ門ホールでの全国大会に出場することになりました。全国大会では、二人とも残念ながら勝ち残ることはできなかったようでした。その後、第1位になった人が、レコードを出したことがニュースになりましたが、ヒットするまでにはいたりませんでした。私たちの参加した栃木地区予選大会の模様は、後日、栃木放送から放送されましたが、私は、緊張していたせいか、声が上ずっていて、音程もかなりずれていて、恥ずかしい限りでした。東京畜研は、残念なことに数年後倒産してしまいました。しかし、これは私たちに希望を与えてくれる試みだったと思います
 夏休みも終わり、2学期になりました。この年の秋はとても忙しかったのです。その頃は、関東地区盲学校音楽コンクールがありました。栃木盲学校はほとんど参加していなかったのですが、塚本先生の熱心なお勧めがあって、高等部本科、別科の中から希望者を募って、12名が千葉市民会館で行われた音楽コンクールに行きました。その頃は、千葉県立盲学校の音楽全盛期でした。総勢40名が、息を合わせての混声合唱が輝いていました。千葉盲の合唱の練習法は、指揮をとる音楽の先生と生徒たちが、糸でつながり、生徒たちは、カエルのようなものをそれぞれ手にして、呼吸を合わせての独特の方法でした。私たちもかなり練習をして行ったのですが、ハーモニーの難しさを知ることとなりました。この音楽祭には、翌年も8人で山梨県まで、1泊2日で参加しましたが、音楽祭に参加するよりも、男女4人ずつのグループでの楽しい仲良しグループの旅行としての思い出がよみがえります(関東地区盲学校音楽祭は、参加する学校が少なくなり、10年程前から、関東地区盲学校文化祭と変わりました)。
 次に、10月の第4週の火曜日から土曜日にかけて、私たち本科理療科3年生と別科2年生、約20人が、関西方面の4泊5日の修学旅行に出かけました。京都、奈良、大阪への旅でした。宇都宮から上野までは特急列車でしたが、東京からは、5年先に走り出した新幹線に生まれて初めて乗りました。その頃は、「ひかり」と「こだま号」でした。東京‐京都間は、2時間50分だったと思います。生まれて初めて乗った新幹線。日頃私たちが利用していた東北線と比較すると、その揺れが全く違って、静かさに驚いてしまいました。また、ヘッドフォンをかけると、ジャンル別の音楽も聞くことができ、実に快適な旅行であるのが実感できました。新幹線が走る前は、先輩方は、夜行列車に乗り、8時間もかけての修学旅行だったと聞いています。京都では、私たちは、確か、手漕ぎボートで嵐山の中を流れる川に入り、ゆく秋を楽しむことができました。私は旭先生の漕いでくださるボートに乗り、晴れ渡った秋空の下、目には見えませんでしたが紅葉の季節を満喫することができました。その他、歴史の好きな私は、京都二条城、宇治の平等院、金閣寺、清水寺等を、新平家物語を思い出しながら楽しむことができました。特に二条城では、鶯(うぐいす)張りと言って、歩く度に、キューキューとなって、これがお城の特徴であることが分かりましたし、徳川家康が豊臣秀頼を謁見したとの話を思い起こし、歴史の深みを肌で実感することができました。京都の言葉はとても優しく耳に心地よく伝わってきました。また、耳新しい言葉もありました。「おいでやす、おおきに、すんまへん、ごっつう…」など、京都は私の好きなところで、今までの人生で、5・6回程行くことができました。「布団来て 寝たる姿や 東山」
 三日目、私たちは奈良に着きました。定番のように、奈良公園にある春日大社から奈良公園を歩き、鹿に触れては、せんべいをやったりして、大仏の足の下を通りました。その他、法隆寺にも行ったりして猿沢の池の近くのホテルに宿泊しました。
 さて、四日目ですが、私たちの予定では、大阪に行くことになっていました。その朝、8時15分頃だったと思います。私は、バスに乗って間もなくうとうととしていました。その時、突然、誰かの叫び声と共に、マイクロバスにものすごい衝撃がありました。阪奈道路だったのですが、乗用車が、反対車線からマイクロバスに向かって飛び込んで来たのでした。私たちは大したことにはならなかったのですが、一応病院に行って診察を受けることになりました。結局、その日は午前中、大阪城へ行く予定でしたが、キャンセルとなり、午後は、点字毎日新聞を発行している新聞社への見学だけに終わりました。
 その他にも、橋を渡っていた時に、川に落ちてしまい、ずぶぬれになった生徒もいました。幸いにも、保健師の先生の親戚の家が近くにあったので、着替えをすることができました。何とラッキーだったことか!私たちの修学旅行は、このように波乱万丈の修学旅行となりました。
 五日目は、大阪駅ビルでの買い物をして、新幹線に乗り、来た道を反対に帰りました。交通事故を味わってのお詫びのしるしが、生八橋1箱だったのは、些か物足りなかったと感じました。私の盲学校の生活50年の中で交通事故があったのは、私たちだけで本当に良かったと思います。
 さて、その年度末、3年生にはあん摩マッサージ指圧師の検定試験がありました。放課後は、理療科の先生方に補習をしていただき、3学期は検定試験に向けてみんな一生懸命に勉強をしました。2月の下旬、土曜日と日曜日の二日間、盲学校を会場に、1日目は学科試験、二日目は実技試験を受けました。数回実施された模擬試験のお陰で、私たち3年生9人は、無事、あん摩マッサージ指圧師の検定試験に全員合格しました。
★メモ★ 
 1969年はGSと共にフォークソングなどがヒットしました。由紀さおりの「夜明けのスキャット」、石田あゆみ「ブルーライト横浜」、フォーククルーセイダーズ「帰ってきたヨッパライ」(280万枚売り上げ)、「悲しくてやりきれない」、ピンキーとキラーズの「恋の季節」、新谷のり子の「フランシーヌの場合」、はしだのりひことシューベルツ「風」、佐良直美「いいじゃないの幸せならば」(レコード大賞)
 69年から70年にかけて、三無主義(無関心・無気力・無責任)が若者たちの心に深く根ざした時代でもあり、社会的メッセージソングが多く出るようにもなりました。



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