第12話 専攻科生前篇(1970年)
1970年(昭和45年)、私たち9人は専攻科1年生になりました。この時の担任は理療科の斉藤伴一郎先生、副担任も、理療科の佐藤政弘先生でした。この年も様々な出来事がありましたので、2回に分けて書きたいと思います。
学校の生活では、あん摩マッサージ指圧師の検定試験に合格していたので、専攻科では、本格的に鍼と灸の学習と実技に入りました。特に、斉藤先生は、教師になる先に開業をしていらっしゃいましたので、実践的なことを沢山教えていただきました。授業中も様々な事例を上げて、それは楽しい授業でした。鍼の実技においても、鍼の真髄を手ほどきしていただきました。また、斉藤先生は、長年、弁論の指導に力を入れていらっしゃいました。その頃は、全国盲学校弁論大会が現在と異なり、一堂に会して行われていました。私は、高校3年生の時に、斉藤先生から声をかけられて、文京盲学校での全国盲学校弁論大会に出席する機会が与えられました。その時は、北海道から九州までの盲学校から代表選手が45人程度参加していたと思います。私は、残念ながら入賞することができませんでした。
しかし、実はそのことが良いきっかけとなって、70年に再び弁論にチャレンジすることができました。それは、第17回ユネスコ国際理解弁論大会というもので、現在も継続されております。斉藤先生から、2度目のチャンスをいただきました。私は、前年の全国盲学校弁論大会の経験を活かして、「単なる同情よりも真の理解を」というテーマで原稿を仕上げました。前年の弁論大会の時、斉藤先生と私は、東京のホテルに宿泊する事になり、そこで食事をしていた時に、隣り合わせになったオーストラリアの方と英語で話しをすることができました。オーストラリアから来ていた女性は、日本の障害者に対する社会の偏見、差別について、彼女の意見を話してくれました。「本当に付き合わないと理解はできません。可哀想では理解ができません。」と言うような話だったと思います。私は、その出会いを中心テーマにして、どうしたら真の理解ができるだろうか?と、話を展開しました。結論は、互いに理解するためには憐憫の気持ちや単なる同情ではなくて、「痛みを分かち合うこと」がどんなに大切か。無関心であってはならないこと、それは障害者への理解だけではなく、世界で起きている様々な出来事、ベトナム戦争、ナイジェリアでの内戦、そして台風で被害を受けているニュースを聞いたならば、私たちにできるどんな小さなことであっても、行動をしよう!理解をするとは、人と人、国と国が無関心から関心へと道を歩むことではないか?障害者と健常者にしても、私たちが理解して欲しいと叫ぶだけではなくて、自ら理解してもらうための努力をして行かなければならない。そのために、私は生きて生きたいと、いったような内容でした。
5月の宇都宮で行われた県央大会では優勝することができ、6月の県大会でも優勝し、10月の東京虎ノ門で行われた全国大会では、3位入賞することができました。「失敗は成功の元」と言われますが、前年に参加したことが、次の入賞への道を開くことになったと痛感しました。理解するを英語では、understandと言いますが、つまり相手の下に立たないと理解はできません。上からの目線では理解にはならないことだと今日まで自戒しております。盲学校での教員生活でもそのように自分に言い続けておりました。障害者理解、国際理解に共通の課題ではないかと思います。
さて、盲学校の生活では、増田君との忘れられない思い出があります。6月の頃だったと思いますが、教室で給食を食べていた時、教室の後ろの方に誰かが飲まなかった牛乳パックがおいてありました。私は、空き時間に増田君の椅子の上にそっと置きました。「多分、私のトリックに引っかかって座るだろう」と思っていたのでした。給食の時間が終わり、私は何食わぬ顔で、教室の自分の椅子に座りました。その途端でした。私の尻の下でブスっと音がしたかと思うと、教室中に、腐った牛乳が流れ出したのです。「啓司敗れたり」、私の策略は見事に破れました。その臭いこと臭いこと!今ならば、異臭事件が起きたといわれるかも知れません。さすが悪友。私の上を行っていました。私のズボンは腐った牛乳でビッショリでした。勝利を得た増田君のお慈悲によって、寄宿舎に行き、彼のズボンを借りて、その日は学校で授業を受け、学園に帰りました。悪いことはできないものです。それにしても、彼が良く私の策略を見破ったと感心せずにはいられませんでしたし、私も座る先に何故手で触れなかったのか、油断としか言いようがありません。
この年のもう1つの思い出は、ラジオ体操反対運動でした。2学期になって、「盲学校の生徒たちは運動不足だから、昼休みにラジオ体操をすること」と先生方から連絡がありました。その年、私が高等部の生徒会長、増田君が副会長だったと思います。学生運動が盛んな時代、私たちの心にもささやかながら抵抗運動の火がつきました。「生徒会に何の話も無く、貴重な昼休みに、しかも毎日ラジオ体操とはとんでもないことだ」と二人の意見は合いました。そこで、増田君と私は、学校と同じ敷地にある寄宿舎の3階の屋上に上がり、生徒・職員が校庭でラジオ体操を始めると、彼がトロンボーン・私がトランペットを取り出して進軍ラッパの曲をを吹き始めました。その時は、体育科の主任の高村先生から、軍隊で鍛えた声で、「増田!阿久津!屋上から降りて来いっ!」と、すさまじい声で怒鳴られました。すごい迫力でした。その後、さぞかしお叱りを受けるかと思いましたが、次の昼休みからのラジオ体操は中止となり、二人へのお咎めもありませんでした。今思いますと、このことには、異論をお持ちの先生方もいらっしゃったのではないかと思うのですが…。物事は灰色の方が良い場合もありますね。
そして、この年の冬に私は、大変良い経験をするチャンスが与えられました。鈴木先生の推薦をいただいて、冬休み中の五日間、高校生や大学生との国際交流プログラムに参加することができたのです。トム・ペイトン宣教師が、国際交流に興味のある人にぜひ経験をして欲しいとのことで、鈴木先生に連絡があり、私がそのチャンスを与えられました。職員会議でも異論があったかと思いますが、私が行ける事になったのです。行き先は、岩手県にある奥中山というところでした。後から分かったのですが、そこはキリスト教徒の農民が木を切り、草を刈って農地を開拓した酪農中心の共同体でした。私は1人心細い思いで参加しました。英語は好きでしたが、まだ自信はありませんでした。参加者は50人程度でした。アメリカやイギリスからの留学生が30人、日本人の大学生が20人、そこに視覚障害者の私が1人でした。プログラムについていくのが大変でした。雪の中の活動にはあまり参加しませんでしたが、クリスマスのシーズンだったので近くの教会で参加した奥中山教会の皆様とのクリスマス祝会はとても楽しかったです。とくに、岩手の方言での聖書物語は一味違っていて民話を聞いているような気持ちになりました。五日間の交流キャンプでは、様々なディスカッションをしました。テーマは「理解について」ですが「国際理解とは」、「差別とは」等が話され、私にも盲学校の話しをするようにと言われた時には感謝でした。ペイトン宣教師はこのようなことを願っていたのかと、後で気付きました。そこで出会ったのがカリフォルニアから来た、ロレッタ・ガセットという17歳の女の子でした。とても気さくに声をかけてくれ、彼女のホームステイの電話番号を教えてくれました。そして、「是非また会いたいね」と、言ってくれたのです。これが私にとっての、国際交流の第1歩でした。英語に対しても、中学生程度の英語でしたが、間違いを恐れずに話しかけたことが、新しいチャンスへと導かれたのだと思います。まずはチャレンジですね。ロレッタとはそれから2年間の間に3回会う事ができました。それについては改めて書きます。
★メモ★
栃木県立盲学校では、この年の2月10日をもって、創立記念日と改定されました。校歌・校旗も新しくなりました。またこの年から、学芸会がこれまでの1日から、土曜日の午後半日と日曜日1日となり、3年後には、二日間をかけての学校祭、15年程前から、1日だけの学校祭となりました。校長先生も前年度より木野靖史先生となりました。
弁論大会について、70年代の頃は、全国盲学校弁論大会を一堂に会して行っていましたが、その後全国を7ブロックに分けて予選会を行い10月に、ブロック代表者による全国大会となりました。栃木県立盲学校では関東地区大会では、優勝が1回ありましたが、もう1歩およばずの2位・3位への入賞が数多くありました。
国内では、1970年に、大阪で、万国博覧会が開かれました。「こんにちは、こんにちは、世界の国から」…と言う、三波春夫さんの歌で、日本は活気に満ちていました。他方、3月31日、日本赤軍派9人が、日本航空「よど号」をハイジャックして、北朝鮮へ行くという事件がありました。現在も活躍中の、日野原重明先生も同乗していました。山村政務次官が人質となり、幸い乗客は無事開放されました。
11月25日には、作家の三島由紀夫さんが、東京市ヶ谷にある自衛隊に立てこもり、自衛隊員に、憲法を改正しての軍隊と決起を促し、その後、割腹自殺をしました。ラジオを聞きながら、私は、これは、2・26の再来、クーデターが起きるのではないかと心配しました。