第13話 専攻科生後篇(1970年)




 今回は、まずロレッタさん(フレンドリーにロレッタと書かせてもらいます)との交流と、私たちの夏休みのアルバイトについて書きます。
 ロレッタとは、先にも書きましたが、70年、冬休みの岩手県奥中山での国際交流キャンプ以来、是非会いたいと思うようになりました。71年になって、1月に恐る恐る彼女のホームステイの家に電話をしました。そうしましたら、ホームステイをしていてくださっていた、小川さんというホストファミリーが、「是非我が家においでください」と、優しく招待してくださいました。そこで、増田君に声をかけて、71年2月11日(祝日)に、全盲二人で出かけることにしました。最初の打ち合わせで、東京の赤羽駅でロレッタと会うことにしました。さて当日の朝、増田君と私は宇都宮駅で、まずは合流する事ができました。ところが、東北線が走っていないのです。「こりゃー、まいったな」と、二人でため息。野崎駅付近で下り線事故のために大幅に遅れます、とのアナウンスでした。いったいどうなることやら…今から41年も前のこと、携帯電話も無いし、途方に暮れてしまいました。その時、1時間遅れの電車がホームに入るとのアナウンスがありました。その次の電車は何時になるか分からないとのこと。私達は、とにかく思いきって乗ることにしました。あの時の決断は正解でした。見送っていたらどうなるか分かりませんでした。ロレッタとの出会いはできず、それで終りだったかも知れません。二人は、やっとのことで電車に乗りこむことができました。車内は鮨詰め状態でした。電車はノロノロと走っては止まります。こうなったからには、電車に任せるしか方法はありません。でも二人なので心強いです。もつべきものは友達です。当時、普段ならば1時間半もあれば赤羽駅に到着するのですが、その日はスタートから遅刻に加えて30分遅れ、つまりロレッタとのデートの時間より1時間遅れで赤羽駅に到着することができました。それからがまた一苦労でした。私達は、駅員を探すために、うろうろしましたがやっとのことで駅員に会って事情を話し、駅員室まで行って場内アナウンスでロレッタを日本語で呼び出していただきました。日本に来てから半年以上になっていたこと、彼女が当時、恵泉短大で勉強をしていたこともあり、無事会うことができました。本当に嬉しかったこと!
 さて、それからどうしようかということになりましたが、ロレッタに頼んで、とにかく赤羽駅を出て、近くの喫茶店に行くことにしました。それからは順調な行動が始まりました。私達三人は喫茶店に入り、私が増田君をロレッタに紹介しました。私達の英語力はまだまだでしたが、それでも英語を聞く力は、鈴木先生からの「フルブライト留学仕込み」の勲等を受けていましたので、楽しい会話になりました。そこへ、喫茶店でバイトをしていた高校生の女の子が、よほど羨ましかったのでしょう!声をかけて来ました。「すみません。私も話の中に入れていただいて良いですか。ここのコーヒー代は私が払います。」との、これまた嬉しい声がかかりました。どうぞ、どうぞということになり、1時間程度自己紹介をしたり、ロレッタの日本での生活について話を聞かせてもらっての本当に楽しい一時でした。喫茶店でのコーヒーは、アルバイトの高校生に遠慮なくご馳走になりました。そのような経験は60年以上生きていますが、たった一度の忘れられない思い出でした。その後、私達はロレッタがホームステイしている家に案内してもらいました。ホストペアレンツは不在でしたが、そのお宅のお爺様が、歓迎してくださり、ラーメンをご馳走になりました。その後私達は、ロレッタに新宿まで送ってもらい、さらにもう一人の友人とも会うことができました。
 ロレッタとのその後の出会いは、5月4日に、私達が高等部放送部として、彼女の家に訪問させてもらい、インタビューを録音しました。その校内放送は今でも大切に保存してありますが、ロレッタは、当時日本で社会問題になっていた、公害・光化学スモッグに興味を示していました。その頃は、交通戦争とも言われ、自動車所有者が一千万台を超えて、死者が増加の一途を辿っていました。
 三回目にロレッタと会ったのは、私達が専攻科の2年生の夏、今度は私の弟を誘って、行く先は日光の増田君の所でした。増田君のお兄さんの運転する車に乗せていただき、いろは坂を上り中禅寺湖に行き、増田君のお兄さん運転するモーターボートで、湖を快適に観光することができました。風を切って走るモーターボート、頬にあたる風、そして体に伝わるモーターの響き・・・どれも初めての経験でした。ロレッタがいたお陰で楽しい経験をすることができました。ロレッタとは、もう一度会って、弟と私の3人で益子町まで行き、益子焼を体験してもらいました。彼女がアメリカに帰ってから、何度か文通をしましたが、お互いに忙しくなって、音信不通となりましたが、忘れられない思い出ですし、私に英語を話す自信を与えくれたことに今でも感謝しています。
 ロレッタとの出会いからのことで、71年の2月から夏までの話です。さて、ストーリーの展開上、ここから話は半年戻ります。70年の夏休みのことです。私達専攻科1年生は、あマ指師の免許を持っていたので、治療院でのアルバイトや病院での実習を認められていました。その頃、進路指導の担当の賀川先生から「阿久津君はアルバイトを希望しますか。どんな所が良いかな?」と、聞かれました。私は、「先生、涼しくて温泉のあるところをお願いします。」と言いました。その結果、群馬県の伊香保町にある「関治療院」を紹介していただきました。70年の7月22日、私は一番上の兄と2番目の兄の運転する車に乗せてもらって、日光金精峠、沼田・渋川を通って伊香保町に入りました。初めてお会いする関先生です。私は、初めての経験で緊張していました。
 この一月の経験を書くだけで大変な量になると思いますので幾つかのエピソードを書きます。まず治療院での時間帯が、温泉地でもありますので全く異なりました。起きるのは午後2時頃でした。そこでの朝ごはんが6時頃でした。マッサージの仕事は、時には午後2時頃から入ることもありますが、それは地元のお客さんです。アルバイト生はお呼びではありませんでした。とにかく、ホテルや旅館からのマッサージの電話が鳴り出すのは夜の8時前後からです。19歳の私には良く分かりませんでしたが、今思うとホテルでお風呂に入り、食事をして落ち着くのが、午後8時以後ということになるのです。それから従業員から順番に仕事が始まります。私のようなアルバイト生は、当然のことながら最後です。その年の夏休みには、茨城盲学校から二人の2年生が来ていました。その中の1人は、何と私が“サヨナラ負け”をした野球部の人がいました。おまけに、従業員の中に先輩のピッチャーもいました。夜の仕事は、だいたい午前2時頃には終わります。そこで、お疲れ様ということで、おにぎり等の軽い食事がでます。それから私達は治療院から歩いて数分の所にある、マッサージ関係の人たちがいる共同浴場に入り、1日の疲れを癒して床につくのは午前4時頃となります。夏のことですから、遠くの方で鶏の朝告げの声を聞いて眠りにつきました。そのような生活を一月経験することができました。
 伊香保町は坂道と階段の多い所です。ホテルも当時70件程度もあったかと思います。マッサージ師は、100人を超えていたと治療院の先生から聞きました。私のいた関治療院にも10人程度の従業員がいました。関先生は視覚障害者ですが、町会議員もしていらっしゃいましたし、日盲連(日本盲人連合会)の役員もしていらっしゃいました。私が、大学進学を考えていると聞いて、政治の話、野球の話などを熱っぽく話してくださいました。7月23日から30日間働かせていただき、生涯忘れられない貴重な体験をさせていただきました。特に理療科の仕事に就かなかった私には、玉手箱というべき経験です。
 その頃のマッサージ料金は、1人40分で700円でした。治療院とホテルの送迎は専門のドライバーが担当してくださいまいましたが、ホテル内は最初は先輩が教えてくれましたが、1週間たったら1人で指定された部屋まで行かなければなりませんでした。700円の内、1割の70円はホテルへの利用代となります。630円の内、30円が運転手への謝礼代となります。そして残りの600円の半分、300円を私達がいただくことになっていました。その頃は、日本列島改造論の風が吹き、日本全体好景気だったと思います。私が一月にしたマッサージのお客さんは157人でした。単純に計算すると、49100円となります。しかし、私が家に帰る時には、5万5千円程度になっていました。残金は、私がお客様からいただいたチップということになります。治療費が700円ですが、千円札で、おつりは、チップだよと、言ってくださったお客様がかなりいました。私の技術では申し訳ないほどありがたいチップでした。
 ここでは、お客様との忘れられない思い出を2、3書きたいと思います。最初の頃は、先輩に、一つひとつのことを教えていただきました。例えば、お客様のマッサージをしていて、反対側に動く時は、足のほうから回ること、できるだけ40分で終了すること、時間の配分をシッカリすることなどでした。先にも書きましたがホテルの中で迷ったことも何度かありました。通り合わせたお客様に、部屋を案内していただいたこともありました。私の場合は、5、6件のホテル内でしたが、部屋の番号を覚えるためにドアに書いてある数字を指で触ることを覚えました。1、2、3等が、ドアに木で浮彫になっていることもその時に知りました。数字のあるホテルはそれで分かるのですが、〇〇の部屋というのを憶えるのが大変なことでした。夏休み中のことでしたので、家族連れのお客様が多かったこと、また、伊香保にはゴルフ場があり、かなり有名らしくゴルフ客も多くいました。さらに週末となると、会社や仲間での旅行客が多く、マージャンで疲れたので、マッサージお願いというお客様もいました。
 そのアルバイトで、私にとって最も痛烈な思い出となったのは、北海道から来られたお客様でした。ご自分は理容師と言っていましたが、私がマッサージを中ほどまでしていると「そこは指がつぼに当たっていないぞ。もう少し力を入れろ。」等と手厳しく声をかけられました。そしてフーフー言いながらやっと治療を終えた時、「あんたはまだ若い。俺からこれで治療費をもらう気か!?」と言われました。私は、「申し訳ありませんが、一応決まりなので…」と、小さな声で答えました。そうしたら、そのお客様から「俺がやってみるからそこに寝なさい。」と言われてしまいました。そして、「頚はこうやって揉むと気持ちが良いぞ。肩はこうやって揉むと良いぞ。」と、手ほどきをしてくださいました。私のマッサージ師としてのプライドなどはゴミとなりました。しかし、そのお客様は「あんたはまだまだ若いのだから、こうやって、客から聞くことから始めるのが修行だよ。おれだって苦労をして理容師になったんだから」と、最後は励ましてくださいました。忘れられません。本当にありがたい経験でした。
 楽しい思い出では、仕事がサッパリ無い夜のことでした。やっと1人のマッサージを終えたのですが・その日は、私に仕事が回ってきそうな気配は感じられませんでした。そこで、はたと思いついて、マージャンの音が聞こえる部屋をノックしました。「あの、マッサージですが、いかがでしょうか?」と、声をかけました。「俺たち誰もマッサージを頼んで無いけど、疲れているからマッサージにかかるか。」と言って、二人の人がマッサージにかかってくださいました。これは、タイムリーヒットでした。そんな経験をしてから、時々飛び込みマッサージの声をかけましたが、3回に2回は断られたり、怒られたりしました。それでも、自分から仕事を獲らなければならないということを自ら学びました。困ったのは、芸者さんといるお客様でした。その人はお酒を飲んでいましたが、マッサージにかかりながら、私の耳元で「できるだけゆっくりやってくれ、この芸者さんしつこいからダブルでも良いから」と言うのです。一方芸者さんは、私に向かって、「マッサージさん、まだ終わらないの。随分長いのね。」と、皮肉を言われます。私はお客様の言われる通り2人分の時間をかけての治療をして、早々に退場しました。
 最後に1つ、ちょっとモテた話を書きます。それは女性社員たちの旅行でした。一部屋に6人程度いたと思うのですが、私が19歳だと分かると、皆飲んでいたせいもあったかと思いますが、2人、3人とマッサージにかかっていただきました。「こんな若いお兄ちゃんのマッサージにかかれるなんて嬉しいわね!」との、お言葉!私のおしゃべりもウケて「面白いマッサージさんだわね!」と言われました。お茶とお饅頭をご馳走にもなりました。ただ、そのお客様の中で飲み過ぎてトイレでダウンしてしまい、仲間から介抱されている姿を垣間見て、「女性の飲みすぎ」に初めて遭遇し、19歳の青年は少なからずショックを受けました。
 一月の伊香保温泉での貴い体験をさせていただき、私はひと夏の良い経験をさせていただきました。その後、次の年の春休みには、吉沢君と伊香保温泉で十日間のアルバイトをしました。後輩の中では現在でも、関治療院の従業員として働いている人もいます。お客様の声を聞いて仕事をしなさい、というアドバイスを直接お客様から教えられたことは、大切なキーポイントでした。
★メモ★
 先日関治療院に電話をしました。関先生は82歳でお元気でした。現在前橋市にある、盲老人ホームの理事長をなさっているとのことでした。



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