第14話 江曽島学園最後の年




  今回は、専攻科1年生の時でまだ書き残していることを書きたいと思います。私が高校3年生の春休みのことでした。鈴木先生からお誘いを受けて、盲学校の高校生と関西地区の高校生の交流キャンプ「盲晴れ高校生キャンプ」に参加することにしました。その頃、私は宇都宮市内にある四条町教会に、江曽島学園から礼拝に出席していました。また、前年の秋の修学旅行で、関西地方に対してとても興味をもっていたこともその理由になりました。何よりも嬉しかったのは、盲学校の高校生の交通費が全額補助されるということで、参加費は、二泊三日で5千円程度だったと思います。滋賀県の琵琶湖にある、同志社大学所有のコテージのようなところ(唐崎ハウスと言っていました)で、全国の盲学生と近畿地区の高校生、具体的には、兵庫県、京都府、大阪府の高校生との交流キャンプが行なわれました。主催は、前の3地区のキリスト教会と視覚障害者の団体は、日本盲人キリスト教伝道協議会(盲伝)と言いますが、合同でのキャンプが始まりました。私の関心事は、その頃から盲学校の中での人間関係から、同世代の高校生や大学生との交流に興味をもち始めていました。宇都宮大学点訳グループの皆さんに、受験勉強のために、問題集を読んでいただいた時に、大学の話しや彼らが考えていることなどを聞かせていただくようになって、社会への関心が深まっていったのだと思います。
 その高校生のキャンプですが、全体の参加者は60人程度でした。盲学校からの参加者は北は栃木盲学校から、生徒は私一人、先生は鈴木先生と息子さんだったと思います。他校からは、京都府立盲学校、大阪府立盲学校、兵庫県立盲学校、山口県立盲学校、熊本県立盲学校等から15人前後でした。なんと言っても関西地区の晴眼者の高校生との交流は私には楽しく、興奮する三日間でした。特に、関西弁のソフトで穏やかな雰囲気には、何ともいえない魅力がありました。京都の人たちの女性言葉は、関東の私には、フランス語を聞いているような印象さえ受けました。
 プログラムは、相互理解を目指して、というテーマでした。午前中は、聖書の話しを聞いてのグループディスカッションが三日間続きました。午後は希望を聞いての活動として、点字学習会、盲人野球、それにフォークダンスでした。このような経験は初めてのことでしたので、とても新鮮に感じましたし、夜は、12時までは男女自由に話して良いというので、それは若者達はハッスルして話しに花を咲かせました。私は2年後の大学進学へ希望をもっていたので、同じ高校三年生には勉強の仕方を聞き、大学生も何人か参加していたので、大学生活について質問をしました。当時の大学の多くは、先にも書きましたが、大学紛争で、授業がなかなかできないのが実態でした。しかし、盲学校以外の関西の女子高校生と話ができるとは…心おどる三日間でした。友達もできて何度か点字での文通もしましたし、2年後の専攻科2年の卒業の春休みにも、再び参加することができました。そのことが、大学に入学してからの市民活動の原動力となりました。
 ここまでの話しをまとめますと、1970年は、唐崎ハウスでの高校生キャンプ、専攻科1年になっての夏休みアルバイト冬休みの国際交流キャンプ、ロレッタとの出会いと言う流れになります。話の展開上、このように書かせていただきました。
 さて、この年は、私にとりましては、江曽島学園での最終年となります。満19歳になると、学園を出なければならないのでした。多くの場合は、寄宿舎で最後の年を過ごします。そこで、今回は学園での思い出をいくつか書いて学園広場の最終回としたいと思います。学園時代にお世話になった秋山先輩との出会いを書きます。秋山さんは、私より5年先輩でした。しかし、威張ることなく、いつも明るく私に声をかけてくださいました。秋山さんはユーモアナンバーワンでした。声帯模写、落語、英語が得意でした。鈴木先生のバイブルクラスに私を誘ってくださったのも、実は秋山先輩でした。晩年は、教会から離れてしまいましたが、秋山さんの明るくてユーモアにあふれていた人柄を、私は尊敬しておりました。私が中学3年生の時に、盲学校を卒業しましたが、その間に色々なことを教えていただきました。特に、落語のことについては、古典落語をたっぷりと聞かせていただきました。当時、有名な師匠たちのものまねよろしく、部屋の中でも私たちを落語で楽しませていただきました。人気番組「笑点」は、三浦文子さんの「氷点」からヒントを得たと聞いていますが、秋山さんも、謎かけ等、寸時にやってのけました。
 次に思い出されるのは、19歳の私にとって楽しかったのは、学園には短大や保育専門学校の学生さんたちが、実習として、2週間程度、次々と来ていたことでした。近くは、出来て間もない、栃木県保育専門学校の学生さん、私より1つ年上のお姉さんでした。現在は廃止されています。小学生たちにとっては、先生ですが、私にとりましては、友達のような関係でした。時間の合間には夢を語り、人生を語り合いました。盲学校の友人達との交際から、私の関心事は、その短大の女子学生に変わって行きました。
 その頃、東京から地方都市に広まって来たものに、喫茶店がありました。宇都宮の中央地に、コーヒー喫茶、純喫茶、さらに「同伴喫茶」が、次々とオープンしました。私のポケットにも、少しずつゆとりが出来て来たので、時々喫茶店にも行くようになりました。増田君とも、何度か女の子を誘って行きました。オリオン通りを入り、上野楽器の先を左に曲がると、「田園」という同伴喫茶と思われるほどの喫茶店がありました。東京に見られたような、小部屋はありませんでしたが、とても暗い喫茶店でした。静かなクラシックが流れ、大人の雰囲気を感じさせる所でした。。
店内は、とても暗く、弱視の人で、先が良く見えないほど暗いと聞きました。私には真っ暗でも何の影響もありません。通常の喫茶店でのコーヒーは、1杯250円程度でした。何時間いても、何も言われません。田園でのコーヒーは350円か400円だったかと思います。私は、一度目は、増田君と盲学校の橋本さん、その友人と田園に行った記憶があります。多分恋人たちが行く所かと思いましたが、慣れていくにつれて、まあ、男女ならば問題は無いし、男同士でも断られることは無いのかなあとも感じましたが、質問はしませんでした。さて、その「田園」に、私はある時、短大の実習生にアタックしました。実習が終わってから、「一度田園に行きたいのですが、案内していただけますか?」と、やや緊張気味に話してみましたが、その短大生は、気軽に「いいわよ。ゆっくり話しができるからいいわね!」との、嬉しいお返事でした。それをきっかけに、学園を離れる頃が近づくにつれて、親しくしていただいた保母先生との外出を試みました。邪心は無かったと思います。例えば、私の弁論の入賞を祝ってとか、そんな理由で、個人的にお誘いを受けました。
 今でも懐かしい思い出となっているのは、盲学校の先生で、小嶋千舟(こじまちくね)先生という方がいらっしゃいましたが、そのお兄様が、ギター教室を開いており、コンサートがありました。私は、クラシックのギターの生演奏が聴きたくて、私の日頃から思いを寄せている保母先生にお願いをしましたところ、快く一緒に行ってもらうことになりました。夕食後、東武電車に乗って、二人で栃木会館へ行きました。そして、ギター1本でのクラシック生演奏を90分聴きました。その音の広さ、深さに感動してしまいました。生演奏のすばらしさ!クラシックギターの美しさを全身で聴いたような気がしました。いうまでもなく、このコンサートの許可は前もってとっておきました。学園としては、その頃は、実に寛大でおおらかな対応をしていただきました。
 私が大学受験目指して、遅くまで図書室で勉強をしていると保母先生の中では、激励してくださり、コーヒーを入れていただいたり、お菓子を差し入れしていただきました。実にアットホームな施設だったと思います。時には、若い先生でしたが、「阿久津君はマッサージができるのだから、我が家に来て、母の肩こりが酷いので、してもらえるかな?」とのお誘いもあり、日曜日に喜んでお邪魔をしました。リクエストどおり、マッサージをして、お昼をご馳走になったこともありました。学園での生徒と保母先生との結婚は一例を聞いています。
 このようにして江曽島学園での13年間の生活が終わりました。まだまだ沢山の思い出がありますし、当時の保母先生の声が聞こえて来るようです。年配の先生のお宅には、卒業後も、何度かお邪魔をして、その先生の家族、主に娘さんでしたが、楽しく話しをしたり、食事をご馳走になりました。その後、先生に、思い出を語りながらマッサージと鍼治療をさせていただき、一晩泊めていただいたこともありました。やはり、マッサージの技術を持っていることが、社会や人のためになり、人間関係をより良くするものだと思いました。今では、その頃の先生たちも、天国へ旅立って10余年になります。私は、7歳から家を離れて学園でお世話になりましたが、保母先生の存在は、時には母親であり、時には姉であり、時には、心のあこがれの異性であったのかと思います。人は愛されたい、それがゆえに、人を愛するのでは無いかとも思います。学園にいた最後の年に、東京にある、白百合短大から1人の実習生が来ました。その人とはその後も友達となり、専攻科2年、大学に入ってからも交際が続きました。その話は、後日書きます。
 1971年の3月23日、私は学園を巣立って伊香保温泉での2度目のアルバイトに行くために、宇都宮発高崎行きの電車に1人で乗りました。万感がこみ上げて、涙が頬を伝っていくのを止めることができませんでした。
★メモ★
 秋山さんは卒業後、真岡市で自宅開業をしながら、地元で、アマチュア落語家として、真岡市の落語会で活躍されました。老人ホーム等での落語会を、百回講演したと聞いております。8年程先に、60代前半にお亡くなりになりました。小嶋先生も、13年先に、現職でしたが、病のためにお亡くなりになりました。真に残念です。



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