第15話 盲学校の最終年前篇(1971年)




 1971年の4月、私は宇都宮市駒生町にある寄宿舎に引越しをして、盲学校の最終年を迎えることになりました。今まで学校だけでのお付き合いの親友、増田君とも同じ屋根の下で暮らすことになりました。実は、その年は、通学生の吉沢君を除いては8人とも寄宿舎生でしたが、もう二十歳を迎える年でもあり、それぞれのライフスタイルが決まっており、寄宿舎ではお互いにあまり干渉することもなく、マイペースでの生活のリズムでした。私の部屋は4人で、専攻科生は私だけで、他の3人は理療科本科と別科の後輩でした。増田君の部屋は、私の部屋から二つ先の部屋でした。
 寄宿舎では、私は大学進学を決めており、学園での生活とはかなり異なり、受験勉強に集中しておりました。高校3年生から専攻科1年生までに準備した点字の問題集を使って、学習に専念しました。土曜日は、これまで同様、鈴木先生のお宅でのバイブルクラスに出席していました。送迎については、鈴木先生のご長女・多恵さんのパートナーであり、当時、高校の社会科の先生になっていた新井秀さんがご奉仕をしてくださいました。日曜日は、寄宿舎にいらっしゃった職員の縣(あがた)先生と、四条町教会の礼拝に一緒に出席することができて感謝でした。
 寄宿舎には、学園とシステムが異なり、高校を卒業したばかりの職員が働いていました。その若々しい先生たちは、小学生の低学年を担任していましたので、身近に話しをする機会はあまりありませんでした。青年たちは、できるだけ接触を試みたかったと思いますが、それはちょっと無理なことでした。まして、私のようなラストイヤーで、受験を目指す者にとっては、そのような時は残念ながらありませんでした。ただ、夜の8時から9時の休憩時間の時には、誰言うことなく、音楽の好きな人たちは、増田君の部屋に集合して、その頃、ヒットしていたGSの歌を、彼の巧みなギター伴奏に合わせて、声たからかに歌って楽しんでいました。9時以降になると、私は図書室に行って12時近くまで勉強にとりかかりました。普段は、理療科の学習半分、普通科、特に英語の文法と作文の勉強に力を入れました。寄宿舎の担任の高津先生は、英語の堪能な先生で、大学受験問題をテープに録音してくださり、応援をしていただきましたし、もう1人、私より二つほど年上の先生が、英語の参考書を録音してくださいました。このような支援は、寄宿舎に来て本当に感謝でした。
 寄宿には、学園の保母先生と同じような生活指導をしてくださる職員が20人近くいました。男性は1名か2名で、ほとんどが女性の先生でした。その他に、舎監と言いまして、盲学校の先生の中から10人程度の先生が、ローテーションで宿直をして、学習指導や生活指導に当たっていらっしゃいました。舎監の先生は、11時が最後の見回りの時間帯でした。私が図書館で勉強を1人でしていると励ましをしてくださり、その時に先生方の大学生活について、また人生観について聞かせていただくのが楽しい一時でした。そのひとり、前年盲学校へ転勤して来られた、小嶋千舟先生とは、色々なお話をしました。音楽の話、野球の話、落語の話、そして、先生も落語には大変精通していらっしゃいました。テレビと同時にラジオを愛していらっしゃったので共通の話題も沢山ありました。そのような話をしていたら、実は小嶋先生が、宇都宮大学学生時代に、ギター部を立ち上げて、江曽島を訪問して、演奏会をしてくださっていたことが分かりました。人の出会いの不思議さに驚きました。
 さて、専攻科2年生になって、担任が賀川友吉先生、副担任が関根玲子先生になりました。賀川先生は、私たちより13歳年上なので33歳でしたが、ざっくばらんな先生で、色々な体験談を授業の中で話してくださいました。特に、世界の共通語と言われる「エスペラント」に興味をもっており、一生懸命に勉強をしていらっしゃいました。賀川先生とは、同窓会の大先輩でもあり、こんにちも親しくさせていただいております。マラソンを始め、多彩なことにチャレンジをなさっている先生です。関根先生は家庭科の先生で、盲学校一筋、私が盲学校の教員になってからご退職になるまで、こと細やかにご指導をしていただきました。現在もお元気で、先日も電話をしましたら大変お元気な様子でした。
 専攻科2年になると、私たちは臨床室を使って、外部からの患者さんに治療をすることになりました。月曜日から金曜日の5・6時間に、マッサージと鍼の治療を主にしました。この年には、前年の1年間、東京にある筑波大学教員養成部で内地留学をしてこられた蓼沼博夫先生の提案によって、1年間の治療目的を各自が立てて、卒業するときにまとめて発表をする卒論発表会をすることが決まりました。また、治療のことについての報告と連絡などをする「カンファレンス」も行うことになりました。これは、私たちには治療と学習への良い動機付けになりました。私は、50代の女性にお願いして、1年間の目標を立てて、週1日来ていただいて、マッサージと鍼治療を行うことに了解を得ました。その人が苦しんでいた肩関節周囲炎(いわゆる五十肩)の治療を目標にして取り組みました。1人が1人に目標を立てることにより、治療の経過が良く分かりますし、お互いに信頼関係もできました。その結果、その患者さんには、私と同じような高校生の女の子がいて、受験勉強をしていることが分かりました。私はあくまでも理療科生ですから、大学受験のことは内密にしておきながら、お嬢さんの勉強振りから、私の勉強のやり方を修正することができるという「一石二鳥」の経験をすることができました。9人が9人の患者に向かい合っての治療は、とても親しくなり、私たちが卒業を迎える頃には、それぞれ喜びを分かち合い、卒業の時には、患者さんたちから、お祝いをしていただいたという大変ありがたい経験をしました。
 私自身、あん摩マッサージはどちらかといえば苦手でしたが、鍼治療には、このことを通して自身をもつことができるようになりました。何と言っても、1年前の伊香保でのお客様との経験を通して、コミュニケーションが如何に大切か、そして、話題の引き出しを沢山もつことの大切さを知りました。政治経済、スポーツ、芸能、その他社会で起きているニュースを知っていないと話が途切れてしまいます。マッサージや鍼の治療が、どうして効果があるのかを分かりやすく説明できるようにならなければならないことも認識しました。それ以上に、医学の知識、基本的な病気の原因や治療法等も知っていないと患者さんからの信頼を得ることができないこともわかりました。それでも、決して傲慢にならず、患者さんの話しを聞くことがメインであり、治療家は、患者さんのニーズに応えるだけの力をもち、備えなければならないことも、再認識させられました。ある講演会で、治療家のレベルは、技術半分、話術半分と聞きました。話術とは、患者さんの心の動きを読み取ってのすばやい反応のこと、良く聞いて、相手がどんな答えを期待しているかを読み取ることですと聞きましたが、そうなると正に心理学の知識が必要という分けです。
 理療科の話しをもう少し続けますと、治療一般という授業があり、私が弁論でお世話になった斉藤伴一郎先生が次のようなことをお話になっていました。「治療語るものは、三つのことをいつも心得なければいけません。1つ商売道具には手を出すな。二つ、近者には手を出すな。三つ、同業者には手を出すな」でした。つまり、一つ目の道具とは、斉藤先生の言葉をお借りすれば、治療家にとっての患者さんと良い仲になり過ぎてはいけないことという分けです。二つ目の近い者とは、隣近所の奥さんと仲良くなり過ぎてはだめだということ。三つ目は、同じ治療家仲間で、結婚をするのは良いけれど、同業者と深い関係になると、その社会ではやっていけない」という、実に具体的なアドバイスでした。この斉藤先生のアドバイスは今日でも有益だと思います。斉藤先生の教えを聞いたか聞かなかったか?それとも忘れてしまったか!残念な話しをいくつか聞いておりますが、視覚障害者の世界は狭いものですから、人間関係を正しく守らないと身を滅ぼすことになりかねません。それは治療家に限ったことではなく、誰にでも言えることですが、斉藤先生は、盲学校という限られた生活社会の中でのどうしても必要な教えだと感じられたのだと思います。
 夏休みがやって来ました。私は、その年は伊香保温泉でのアルバイトはやめて、自宅で受験勉強に励みました。他方、我が家の母親が、マネージャーではありませんが、近所の人たちに、息子がマッサージと鍼の治療ができることを話してくれたので、数人の人たちが週に一度マッサージをかかりに来てくださいました。時間の合間を利用して、主に暑い日中はやめて、夜の涼しい時に治療をさせてもらいました。それは大学生になってからも続けることができて、私にとりましては、貴重な臨時収入となりました。
★メモ★
 1971年の9月に、日清食品から、カップラーメンが発売されて爆発的な人気を呼んだ。
 7月30日、岩手県雫石町上空で、自衛隊練習機と全日空機が衝突し、死者は162名におよんだ大惨事となった。
 ドルショック、8月15日、ニクソン大統領による発表、円・ドルを変動相場制に変えて、1ドルをこれまでの360円から実態に応じての変動相場制とした。私の先輩の平山益太さんは、桜美林大学の3年生でしたが、この年にアメリカへ1年間留学しました。行く時は360円、72年に帰国する時は、308円だったそうです。あれから40年余、1ドルが75円になることもありますから、当時を知らない人にとりましては、信じられないことかと思います。



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