第16話 盲学校の最終年中篇(1971年)




 71年の2学期になりました。この年の秋のメインイベントは、私たちにとっては、二泊三日の東京への理療科関係の施設見学でした。10月の下旬、私たち専攻科2年生9名は、賀川先生、関根先生の引率で、東京に向かいました。
 第1日目は東洋医学で、当時、大変有名な小里先生の治療院を見学いたしました。経絡経穴を中心に治療を行う方法です。私たちは先生から治療についての説明を簡単に聞かせていただき、カーテンごしに従業員の皆さんの仕事の様子を見学しました。さすがその道では大家と言われた先生の治療院でした。沢山の患者さんたちが来ていました。すべて予約ということで、実力がものをいうことを痛感しました。
 次は、東京青山といえば、これまた東京の中心地の一角をなす所と思いますが、今井先生という所に行きました。サウナを所有し、若い女性たちが美容のために沢山来られていると聞きました。単に、私たちがしているマッサージだけでは無くて、美容マッサージを取り入れての治療法とのこと、有名芸能人や政治家の人たちが来ていることも聞いて、ビックリでした。さすが東京、治療費も、地方では信じられない値段、場合によっては1万円と聞きました。
 そして二日目は、国際鍼灸学院でした。ここの院長の先生は、九州出身の弱視の方でしたが、晴眼者対象に、鍼灸師の教育を行っておりました。そればかりではなくてペルー、ブラジルに盲学校を建てて、マッサージの指導をしていらっしゃると聞いて、これまた驚きました。
 小里先生は全盲の方、今井先生は弱視の方でした。沢山の従業員を雇用して大成功を治めていらっしゃることは、私たちには、驚異以外の何者でもありませんでした。
 さて、ここで私が最も印象を受けたことは、日本大学医学部での人体解剖学習でした。その頃、栃木県には自治医大や獨協医大もありませんでしたので、日大医学部のお世話になっていました。私たちは理療科に入学して5年間、解剖学や生理学等、医学を一通り勉強をしました。その度に人体模型を触り、豚の解剖などを学校でしました。しかし、人体解剖という体験をさせていただける程、全盲の私たちに感謝なことは、筆舌に尽くせないことです。さて、日大に到着した私たちは、白衣に着替えて、解剖室に入りました。大学の先生から、献体をなさってくださる方の行為に対しての説明があり、一同1分間の黙祷をしてから授業に入りました。献体者は、男女1名ずつでした。先生の指示にしたがって、私たちは一つひとつ手に触れて行きました。脳の中、腹部内の消化器系、そして生殖器、話に聞いたり模型によっての学習とは全く異なっていました。脳では、頭部が重いということは知っていましたが、実際に手で持ってみて、その重さを実感し、如何に微細なものであるか、感覚器の構造にしても、人間の知恵を遥かに超えて人体が作られていることを感じないではいられませんでした。胸部では、心臓から血液が送り出される大動脈弁を触れて、これまた驚きました。私の言葉で表せば、それは、太いホースのようなものでした。心臓から送り出される太い血管です。そこから全身に送り出されるのですから、その太さは考えれば想像は付きますが、その私の想像を超えるものでした。私たちが生きている限り、心臓は休むことなく動き続けている!その驚嘆すべき人体の働きにただ呆然としました。大動脈瘤破裂と聞きますが、その病気の重さ、恐ろしさを常に思い起こします。足では大腿後側の中央を走る坐骨神経です。まるで太くて頑丈な針金という感じがしました。医学書では、確か「鉛筆程度の太さ」とありましたが、やはり触れてみないと分かりませんでした。内臓では、肝臓の重さは1.2キロ程度と学習しましたが、実際、手で持たせていただき、ズシリと重い肝臓に触れてみて、その働きの大切さを実感することができました。「肝腎要」といいますが、本当に大切な働きをしていることが分かりました。人体解剖実習を受けた私たちは、知識の習得は無論のこと、献体に対する感謝の気持ちと、その期待に応えなければならないという責任と自覚をもち、学識、人格ともに優れたあん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師とならなければなりません。今日でも、献体を申し出る方、また臓器移植を申し出るニュースを聞きますが、その人の命がこの世を離れても、その人の気持ちは脈々と生きて働いていると私は信じています。
 この三日間の施術所訪問と、人体解剖の体験は、盲学校理療科で最も大切な内容の一つだと思います。
 70年代になって、性教育の重要さが強調されるようになっていました。そして、こんにちでも盲学校では、いまだに未解決の部分もありますが、いつまでもタブーにしておけない事柄だと思います。
 見える社会では、ビデオや様々なアプローチで、小学校から、性教育が行われています。盲学校では最も課題となるテーマではないでしょうか。その負の問題として、マッサージ従事者(特に失明女性)が、悲劇を体験している話を、私は数多く聞きました。そして同じ視覚障害者として、胸が締め付けられる思いを禁じえませんでした。スウェーデンでは、モデルの男女が裸体となって、盲学校の子どもたちに体を触れさせていると聞いたことがあります。また、アメリカのリハビリテーションセンターでは、男女の指導者が、全盲の生徒に、洋服の上から体を触らせているという話を聞きました。日本ではそれをするのにはまだ抵抗があると思います。やはり、家庭教育で、父親、母親が子どもに対して、正しい知識を与えて欲しいと思うのが現在の私の考えです。
 71年12月19日、私は、5年余り通っていた四条町教会で、野本牧師より洗礼を受ける決心をしました。思えば中学3年生の時から、鈴木先生のお宅でのバイブルクラスにも出席させていただき、求道の時が長かったかも知れません。聖書を読み、メッセージを聞き、キリスト教の教えが如何にすばらしいかは理解していました。しかし、我が家は代々の仏教徒なので、両親に話しても反対をされました。それでも、これは私の人生なのだから、最後に決めるのは私の決断の時と思って洗礼を受けることにしました。洗礼を受けることは、キリスト教徒になることを決断したという入学のようなことと聞いていましたが、やはり勇気が必要でした。鈴木先生のご指導と導きがあったからこそ踏み出す事ができたのだと思います。クリスチャンと言いますと、日本では、誤解されていることが多々あります。「敬虔なクリスチャン」とか、清く、正しく、美しく…等と言われますが、これは誤解です。私の理解では、自らの弱さ、力の無さを認め、その弱さ、いたらなさを神様、主イエスキリストにお任せすること。信じ、従うことだと思います。明治時代のクリスチャン、内村鑑三氏は、「私こそ罪びとの頭なり」と言われたと聞いています。このような信仰が、私たちキリスト教徒が告白することだと信じています。
 私の友人の中には、「そんなに自分のことが頼れないのか!他力本願では生きていけないぞ!」という人がいます。その考え方もひとつだと思います。しかし、日本人の多くが、新年になると、神社にお参りに行き、彼岸になると墓参りに行きます。日本人は、良く分からないけれども、何かを信じ、何かに頼って生きているのではないかと思います。占いに頼る人は、占いを信じているし、方角や暦によって生活をしている人はかなり多いと思います。宗教法人というのがあります。日本の人口は1億2千万余りですが、神社、お寺、各教派等の信者数を足してみると、2億5千万人を超えると聞いたことがあります。日本人は、信仰深い国民なのかと言わざるをえません。他方、信仰について曖昧な国民性をもっているとも言えるのではないでしょうか。
 全てのポイントは、「強力な価値観をもち合わせず、その時の雰囲気に流されている日本の政治、国民性、宗教観」からそれぞれが、自ら考えて判断する力を手に入れていかなければならないと思います。私は、その日から、欠点の多い人間であるがゆえのクリスチャンになったのでした。そして、その年の12月に私は、8ヶ月お世話になった、寄宿舎を退舎することにしました。とても残念でしたが、夜遅くまでおきての勉強には寒すぎて継続困難と判断をしました。夜の11時を過ぎると寒さがシンシンと足元から忍び寄り、点字を読むこともできなくなってしまいました。幸い私の実家、今泉新町から、駒生終点までのバスが走っていたことに気づいたのでした。
★メモ★
 内村鑑三(1861年から1930年の人)、明治・大正時代のキリスト教の指導者。札幌農学校で、クラーク博士の指導を受ける。
 1971年の日本のヒット曲、小柳ルミ子「私の城下町」,尾崎清彦「また会う日まで」(レコード大賞)。その他、京都慕情、雨の御堂筋、戦争を知らない子供たち、花嫁



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