第17話 盲学校の最終年後篇(1972年)




 年が明けて1972年になりました。先にも書きましたように、私は自宅から盲学校までバスで通学を始めました。
 1月の始めのある日、日曜日の午前中にラジオの文化放送で、みのもんたさんの「ミュージックアドベンチャー」という番組を放送していました。ふと私の耳を捉えたのが、「今回、皆さんから原稿を募集します。テーマは冒険です。太平洋を横断した堀江さんも世界の冒険家、ではあなたにとっての冒険とは何ですか?」との問いかけでした。大学受験を目の先にしての私にとっての冒険は、大学進学でしたので、それでは1つチャレンジしてみようか!大学の入学論文のつもりで書くことにしました。点字で、寒さを堪えつつ書き上げ、高校1年生の弟に活字で書き取ってもらい、文化放送に応募しました。その時の最も魅力的な一声は、最優秀賞には賞金3万円とありました。それからの十日余り、私の心は落ち着きませんでした。放送で取り上げられるかどうかが、一番気になっていたのです。そして、1月24日、いよいよ発表の時がやって来ました。私の冒険についての作文が、取り上げられて、みのさんと電話で直接話すことができて、思いがけない喜びとなりました。その詳しい内容はホームページのお便りコーナーでお聞きいただけましたら感謝です。みのさんは現在は、フリーのアナウンサーで、飛ぶ鳥を落とす程の人気アナウンサーですが、当時は27歳の文化放送の1人のアナウンサーでした。昔も今も相変わらずの、言いたい放題の楽しいアナウンサーです。その後の本を読むと、みのさんは、文化放送を辞めて、父親の経営する水道のネジの交換の仕事を数年して回り、マスコミに戻ったという苦労をしたようです。その放送の結果、最優秀賞は該当なしということで、私は3人の優秀賞の一人に選ばれて、後日1万円をいただきました。弟に3千円、日ごろお世話になっている兄嫁への感謝の気持ちで、甥に3千円、私が4千円と喜びを分かち合いました。今では、みのさんとの電話でのお話は、私にとっての「宝物」となりました。やはり、チャレンジしてみないと分からないものです。これも1つの冒険だったと思います。
 実は、文化放送の作文応募の合間に、1月15日に、私は成人の日を迎えていました。家では、酒好きの父親に祝ってもらい、スーツを買ってもらったのが、私へのお祝いでした。大学に行けるか、それとも断念して理療科の道を歩むか?岐路に立っていた私には、落ち着いて喜んでいる余裕はありませんでした。あれは確か、2月8日頃だったと思います。本当に寒い日でした。私は、母の手引きで、東京高田馬場にある、日盲連センターに一晩宿泊しました。そして、次の朝、山手線で新宿駅に出て、小田急線の急行列車に乗りました。新原町田駅で下車し、タクシーで桜美林大学へ向かいました。15分程度で大学に到着し、入学試験となりました。試験科目は、英語と国語でした。その頃には、大学受験を点訳ボランティアの協力と思いますが、点字で受験できるようになっていました。先輩方は、口頭面接試験でしたので、苦労も多かったかと思います。
 試験場に入ってドッキリしたことがありました。点字受験生は私だけだろうと思っていました。ところが、そこには他にも二人受験生がいたのです。1人ならば何とか入学できるかな?との、期待をもっていた私!試験を受ける先に、心はグラグラと揺れ始めました。洗礼を受けて良かったです。落ち着かせるために、主の祈りを、心で唱えて試験に向かいました。英語の試験問題は、長文読解が私には難しく感じました。その後の英作文は、私が2年間かけて憶えた英文例文集とほぼ同じような問題にヒットしたので、何とか答えることができました。国語は論文がメインで「自由」について論述しなさいとありました。受験先に、論文の書き方などについての勉強は皆無でしたが、弁論や作文を幾度となく書いていたのが良かったと思います。それに加えて、教会の礼拝で毎週メッセージを聞いていたのも、後になってみると、論文を書くヒントになっていました。さて、その「自由」について、私がどんなことを書いたか?今でもだいたい記憶しております。自由というと、何でも思う通りにできることが自由と思われます。その点では、視覚障害の私には自由がないと思われるかも知れません。しかし、私には自由がないとは思いません。例えば、コウモリの目は見えないと聞いていますが、超音波を自ら発して、跳ね返る音の反響で自由に飛び回ることができると聞いています。私は目が見えません。しかし、1人で歩くこともできますし、多くの人とのコミュニケーションを図ること、また読書によって、様々なことを知ることができます。自由には、行動の自由と精神の自由があると思います。例え行動の自由に多少の障害があっても、自ら考えて判断するという、大きな自由が与えられていると思います。私は、心の目を見開いて自由に生きたいと思います。といったようなことを書いたと思います。
 さて、それからの数日、私の心は今まで経験をしたことがないほど、不安の連日でした。3人の視覚障害者の受験生がいました。1人しか合格できないことは、その当時、定説となっていました。理由は視覚障害者を大学で受入れることは、非常に大変なので、受け入れ枠は1人となっていたのです。ですから、1人しか入学が許されないのです。そこに私が入れるという確証は、どこにもありませんでした。
 2月の半ばだったと思いますが、家に帰ると「合格の電報が来ているぞ」との、父親の嬉しい声が飛んで来ました。もし、不合格の時は、進学をあきらめるとの約束を父としていたのですから、一発勝負でした。神様が助けてくださったのだ!としか、私には思えない結果でした。すぐに、鈴木先生を始め、担任の賀川先生、関根先生にも報告しました。その頃、私には、風当たりが強く吹いていました。理療科の資格を取るのにどうして大学に行くのだ。大学を卒業しても何も仕事がないぞ!等という言葉を、何人かの先生方から直接言われていました。担任の先生方は応援をしてくださいましたし、誰よりも鈴木先生が、放課後補習を特別にしてくださいました。これまでの3年間に、宇都宮大学点訳グループの皆様、日本赤十字のボランティアの皆様の支援があったからのお陰だと思います。そのようなサポートがあったので、勉強を続けることが出来たのだと思います。感謝以外の何者でもありませんでした。
 そうなると、もう一つの、はり師、きゅう師の検定試験にはどうしても合格しなければなりません。数回行われた模擬試験でも、「あいつは大学受験のために理療科の勉強では手を抜いているぞ」とは、言われたくありませんでした。その当時の私の睡眠時間は4時間程度だったと思います(授業中、多少お休みをいただいたかも知れませんけど)。2月下旬の土曜日と日曜日に、私たちは盲学校で、はり師ときゅう師の検定試験を受けました。1日目が学力試験、2日目が実技試験でした。他県からも私たちのクラスメイトと同じくらいの人たちも受験に来ていました。その頃は、各都道府県単位で検定試験を実施していたので、実施日が違うと他県に行っての受験が可能でした。検定試験の結果は、1週間後には分かりました。私たち9人は、全員合格でした。そうなると、各人が卒業後の進路に向けて、一斉に走り出しました。現在の理療科は国家試験です。実施日は昔と同じですが、発表は一月も待たないと分からないのです。自己採点で見当はつきますが、やはり、発表が遅すぎると思います。
 3月の14日頃だったと思いますが、高等部では、例年のように送別会が行われました。駒生町時代では、たたみ式の50畳程度あるあん摩室で、送別会を行っていました。私たちのクラスは、増田君のエレキギターを中心に、ブルーコメッツの「雨の赤坂」を歌って、卒業を迎えることにしました。そして、確か17日だったと思いますが、卒業式を迎えました。式を終えて賀川先生からの私たちへの送る言葉は、「人生、ジャンプする先には、体を思い切って縮めなければなりません。君たちの人生でも、良いことばかりが続くばかりではありません。そんな苦しい時には、じっと体を縮めて、次のジャンプの準備をすることも必要です。」と言ったような言葉だったと思います。卒業式後、私たちのクラスは、盲学校からすぐ近くにある「みらく」で、賀川先生、関根先生をお迎えして、謝恩会を開き、乾杯の祝杯を挙げました。私の心は、これからの大学生活に向けての不安と喜びで入り混じっていました。
 先に桜美林大学に進学していた平山さんは、アメリカに留学中でした。大学で使う教科書は自分で点訳をしなければならないと聞いていました。現在のように、パソコンもありません。点訳ボランティアも、大変少ないと聞いていたので、あくまでも、自己責任で授業の準備をしなければならないのでした。正に、私に取りましては、未知の世界への冒険に船を漕ぎ出すのでした。
ただ一つ嬉しいことは、親友の増田君も、小田急線沿線の成城学園前駅から徒歩数分の所にある、針化学研究所(信愛ホーム)というところで、2年半の研修を受けることになっていたのが、心強かったことです。二人で「東京さ行くぞ」でした。さらにもう一人、橋本京子さんも東京の久我山にあるサフランホームで、就職が決まっていました。みなさん、また会いましょう!
 できれば、毎年クラス会をやりましょう!そう言って、私たちはいつまでも別れを惜しみつつ、謝恩会を閉じました。
 これで、私の盲学校の14年間の学校生活は終わりました。次はキャンパスライフの4年間です。
★メモ★
 1972年、2月3日から十日間冬季オリンピックが札幌で行われ、70メートルスキージャンプでは、日本が金・銀・銅メダルを獲得して、大変な騒ぎとなりました。テーマ曲、トアエ・モア「雪と虹のバラード」。
 当時、デュエットのデビューが増えました。「チェリッシュ、ヒデとロザンナ、トアエ・モア、ダ・カーポ(栃木県出身)」(ベッツイ&クリスは、アメリカ女性シンガーとして、日本語の上手な素敵なハーモニーでした。)
 大学入試について、その頃、点字での大学受験を認めてくれた大学は、ほとんどが私立大学でした。700余ある大学のうち、受験可能だったのは、40大学にもおよびませんでした。宇都宮大学で、受験が可能になったのは、1978年頃でしたので、私が受験してから6年後のことでした。大学受験拒否の理由は、「私たちの大学では障害を持つ方への受け入れ態勢が十分にできておりません」でした。80年代になってから、多くの大学が視覚障害者の受験を認めるようになり、90年代に入り、パソコンによる点訳が実用化されてから、国立大学や、有名私立大学でも受験を認めるようになりました。



我が人生旅日記  /  トップページへ