第18話 新天地町田市での下宿生活
いよいよ大学生!ところが私の目の前には、その前に下宿探しが待っていました。大学合格が決まり、やや安心して、先輩である平山さんの下宿していた森岡さんという方の家に電話をしました。平山さんからは、事前に「後輩が来る時にはよろしくお願いします。」と、話をしていたので、私としては何の問題もなく決まるだろうと思っていました。それが甘かったのです!森岡さんは、「阿久津さんのことは、平山さんから聞いていましたが、連絡がないので大学は無理だったのかと思っていましたよ。実はもう下宿は予約で一杯なのです。」困ったようなお返事でした。私は、ただひたすら森岡さんに頼むしかありません。「森岡さん、連絡が遅れて申し訳ありませんでした。私が合格できるかどうかハッキリしませんでしたので遅くなってしまいました。」とお詫びして嘆願するだけです。森岡さんも心を動かされて、「阿久津さん、しばらく時間をくださいね。検討してみますから。」というお返事をいただいて電話をきりました。それからの1週間は新たな不安でなかなか眠れませんでした。3月になって、改めて森岡さんの所に電話をしましたら、「阿久津さん、平山さんが、アメリカに留学中なので、平山さんの同級生で、ヘルパーをしている蜂谷さんに、隣の家にアパートがあるので移ってもらうことにしましたから、安心してください。その代わり、平山さんがアメリカから帰って来たら、半年間は6畳の部屋ですけど、二人で使ってくださいね。」との本当に温かいお言葉でした。そんなハプニングはありましたが、結局、森岡さんという所にお世話になることができました。
4月早々、私は、一番上の兄の運転するトラックで引越しをすることになりました。車に乗ること4時間、生まれて初めて東京の西にある町田市常磐町に到着しました。大学はまだ春休み中で、学生たちは誰も来ていませんでした。森岡きよさんという、おばさんが私を優しく迎えてくださいました。すでに、平山さんを2年半下宿させてくださっていたので、視覚障害者に対する不安はもってはいませんでした。兄は挨拶をして荷物をおいて、その日に帰りました。私の記憶では、母も一緒にトラックに乗っており、一晩下宿先に泊まってから帰ったと思います。その間、大学までの道を、森岡さんに案内していただき、次の日の入学式を迎えたと思います。つまり、母は入学式に出てから、家に帰ったと思います。江曽島学園生活の経験から母親が帰っても寂しいことはありませんでしたが、まずは、下宿周辺の地図を覚えるのが大変でした。下宿生活のあらましを書きますと、下宿には男性8人の下宿人でした。私を除いて、7人は経済学部の学生で、英文科は私一人でした。実はこの紹介にはひとつ誤りがあります。というのは、桜美林の学生は8人中7人で、そのほかに一人、船山さんという人がおり、彼は、町田市から小田急線に乗って、東海大学へ通学していました。しかも彼はいわゆる苦学生で、朝夕新聞配達をしながら、大学へ通っていました。その船山さんと平山さんを、大学1年の時から同級生兼ヘルパーとして、サポートしてくださっていたのが蜂谷さんです。この船山さんと蜂谷さんは、山形県にある「独立学園」というキリスト教を土台にした高校から来ていました。蜂谷さんは、本来は経済学部でしたが、平山さんのことを知って、即座に英文科に編入してくださったという方でした。正に、神様が計画してくださったという奇跡としか言えません。そのような思いやりに満ちた蜂谷さんでしたから、私の事情を森岡さんから聞いて、心優しく部屋を提供してくださったのだと思います。平山さんがアメリカから日本に帰るまでの半年が、私にとりましては自立生活の良いチャンスだったと思います。そうでなければ、平山さんに頼りっぱなしだったかと思います。
そこで下宿生活に話を戻しますと、下宿は2階建てで、下に4人、上に4人の学生が住んでいました。私の部屋は、階段を上がって右奥の6畳の部屋でした。船山さんは、私の部屋の手前の部屋の4畳半でした。彼は4年生でしたが、私が専攻科卒なので、年齢は一つ年上でした。蜂谷さんも4年生でした。この二人には、平山さんが留守中には、私が大変お世話になりました。他の下宿の学生たちとは、食事の時に顔をあわせるだけで、コンタクトはほとんどありませんでした。下宿との契約では、月曜日から土曜日までの朝食と夕食は、おばさんが用意してくださいます。平日の昼食、そして日曜日と祝日は食事はなし。お風呂も家庭用の風呂でしたが、日曜日と祝日はお風呂もなしでした。下宿代は月額3万円だったと思います。ですから、毎日の昼食と日曜・祝日の食事をどうやってやり過ごすかが大きな問題でした。下宿から5分くらい歩くと、八王子街道が目の前に走っており、その通りを渡ると、すぐ目の前に「岩下商店」があり、大抵の食べ物はありました。果物、菓子類、レトルト食品が下宿での私の食事の中心となりました。この「岩下商店」が、私の下宿での食生活を助けてくれました。八王子街道とは、町田から八王子へ通じる道路ですが、トラックが猛スピードで走っているので、道路を渡るのは命がけでした。信号機はありませんでした。全身を耳にして、車の来ない時に手を挙げ、杖を高く上げての横断です。岩下商店から帰る時は、店のおじさん夫婦と高校生の恵美ちゃんが安全を確認して渡してくれました。
次は、大学までどうやって一人で行くかということでした。当初は、蜂谷さんが何度か案内をしてくださいました。また、渡辺セツ子さん(現在は石田さん)という人が慣れるまでは大学まで一緒に行ってくれました。下宿は大学まで歩いて8分程度の所にありました。幸いなことは、あの恐ろしい八王子街道を横断せずに、比較的車の通らない道を歩いて通学できたことは感謝なことでした。雨や風で天気が悪くても傘をさして、白杖を右手に教科書を背負っての通学でした。大学に入学する時に、私には思いがけない出会いがありました。それは渡辺セツ子さんとの出会いでした。渡辺さんは、栃木県立盲学校の中学部を卒業してから、千葉県立盲学校の高等部普通科に進学して、桜美林大学に入学した弱視の女性でした。栃木盲学校時代は、さほど交流はありませんでしたが、二人とも桜美林大学で同級生となりました。彼女が普通科からの進学、私が理療科からの進学なので、年齢は二つ違いますが、同級生となりました。そういえば、大学のクラスメイトは、ほとんど全員が私より二つ年下の人たちでした。年の差は感じませんでしたが、私が大学生活に適応するためには、それまで経験したことが必要だったのではないかと今では思い起こしております。
渡辺さんは、大学に併設してある女子寮に入り、時間の合間には、私の最も困る教科書点訳に大変協力をしてもらいました。大学の入学式の日、私達1年生は同じ敷地にある桜美林高校のブラスバンドに迎えられての入場でした。これには、私はとても感激しました。14年間盲学校にいた私には、想像もつかなかったからです。入学式の内容についてはほとんど覚えていませんが、聖書朗読と祈祷、そして清水安三(しみずやすぞう)学長のお話は覚えています。「やはり、ここはキリスト教の大学なのだな!」と思うだけで心が穏やかになったことを覚えています。入学式が終わってからの1週間は、オリエンテーションの連続でした。桜美林大学には、文学部として英文科、正確には英語・英米文学科ですが、もう一つ中文科がありました。そのほかに経済学部、商学部の4学部で、合わせて1学年千人、4学年でも4千人程度の比較的小規模の大学でした。また、ここには女子を対象にした短大があり、英文科、家政科がありました。桜美林学園は、幼稚園、中学校、高校、短大、大学があり、何故か小学校はありませんでした。それは今日も同じですが、学部名が大幅に変わり、大学院まで設置されるようになっています。
私の入学した英文科は、一クラス50人で、4クラスからなっていました。私は1年Bクラスの1番でした。阿久津なので50音順に決められていました。そして、渡辺さんも同じBクラスでした。教科書の点訳の時は下宿のおばさんにことわって、渡辺さんに来てもらって、点訳のために教科書を読んでもらい、私がひたすら点訳に集中しました。大学内では、全くの別行動でした。それは、誤解を受けないために、お互いにキャンパスライフを充実させるためのことでした。大学の授業に入る前に、私にはさっぱり分からなかったのが、単位履修についてでした。必修科目と選択科目があり、クラスとしての必修科目が優先されなければなりません。また、教職の免許を取るためには、1・2年生ではこの科目、3年・4年ではこの科目というのがあり、自分で時間割を組み立てなければなりませんでした。この時には渡辺さんと英語関係の教科については、相談をして履修科目を決めました。その他、時間割を決める時には、平山さんと2年間共に勉強をした蜂谷先輩のアドバイスにしたがって時間割を組むことができて本当に感謝でした。私は渡辺さんに協力してもらって、入学式の数日後から、点訳の作業に入りました。毎日午前中2時間、午後2時間の点訳です。大学では、5月の連休までは、各教科ともオリエンテーションのようなもので、授業に入ってもスロースタートだったので、一月で追いつき、追い越すことができました。それは英語の教科書だけのことで、一般教科にはとても手がまわりませんでした。授業を聞いてのノート、そして後日見つけた友達にテープに教科書を録音してもらっての実に不安定な学習環境でした。ついでに書きますと、9月以降の教科書の点訳については、各先生方に前もって新しく使う教科書を聞いて手に入れ、7月の夏休み中に、渡辺さんに読んでいただいて点訳に没頭する7月でした。問題なのは第2外国語でした。私はドイツ語を選択することは決めておりました。理由は簡単です。点字の辞書は仏和辞典はありませんでしたし、販売されていたのは独和辞典だけだったのです。渡辺さんも、ドイツ語は初めてですから、読むといっても至難の業です。そんな時、桜美林にいる視覚障害者の先輩から、有料で点訳をしてくださる方の存在を知って、お願いすることができました。この情報は、私にとりましては、本当にありがたい朗報でした。後日分かったのですが、小林隆平様という方で、ご高齢の方でしたが、斉藤百合さんという方が、失明女子のために、教育と生活訓練を目指して開いた「陽光会」の創設の時に、小林様が尽力された方だということが分かりました。お亡くなりになってから知りましたが、そのような立派な方にドイツ語の点訳、卒論のための点訳等では大変お世話になりました。
★メモ★
この年、平山さん、小森先生ともアメリカへ留学中でした。小森先生は、栃木県立盲学校の大先輩です。ジョンミルトンの博士号を取るために、カリフォルニアにある大学に留学中で、その年の秋に帰国されました。小森先生は、80年に、桜美林短大の助教授になり、88年に同短大の教授になりました。さらに97年に、大学文学部の教授になりました。2009年に大学をご退職になりましたが、2010年に、72歳で昇天されました。真に残念でなりません。
文中に出てくる先輩とは、菊地親子(ちかこ)さんという方で、私より学年は1年先輩でしたが、中学校を卒業後筑波大学附属盲学校高等部から桜美林大学に進学しており、私が1年生の時には4年生でした。
平山さんは、入学当初は、菊地さんと同学年でしたが、アメリカに留学のため、卒業は1年遅れとなりました。いわば、栃木盲学校小同窓会ができそうな年でした。