第19話 大学生活のスタート



 大学生活がスタートして、苦しかったのが4月から7月までの4ヶ月だったと思います。まずは、大学校内を自由に歩けるように覚えなければなりませんでした。大学そのものが、山を切り開いての土地にありました。ですから、いたる所に階段があり、坂道がありました。そのような所にある建物の配置を覚えるのが一苦労でした。また授業が変わるたびに、教室の移動がありますので、時間割と教室割り当てを絶えず気にしなければなりませんでした。ある時、決められた時間割にしたがって、教室に行ってみると誰もいません。自分が教室を間違えたのかと不安になってきました。あちこちと教室の授業様子に耳を傾けても、私の受けるべき授業の気配は感じられませんでした。そこで、英文科の教務課におそるおそる授業のことで聞きに行きました。すると、教務課の先生が、「阿久津君、今日はその授業は先生の都合で休講なのよ。」とのお言葉! 急行列車の急行は聞いたことはありましたが、休講という言葉を知りませんでした。大学では、先生が急遽お休みのときは、盲学校の授業のように、振り替え授業等はなく、休講なのでした。これは大学ならではの言葉ではないかと思います。私はそれ以来、教室に入って誰もいないときは、教務課に直行して聞くようになりました。見える人たちには、掲示板を見れば一目瞭然なのですが、私には情報が全く入りませんでした。私のように、下宿が近い人はまだ帰れるからいいのですが、横浜や八王子からせっかく来た学生にとっては、残念だと言う人もいれば、「ラッキー」と言って友達同士で近くの友人のアパートへ遊びに言ったり、喫茶店でコーヒーを飲んだり、図書館で時間を過ごしている人もいました。1クラス90分でしたので、2クラス続けて休講もありましたので、そんな時は午前中が空いてしまうこともありました。ですから、私は教務課の事務のお姉さんと親しくなり、休講があるかどうかについては、当初、神経質になっていました。教室に誰もいなければイコール休講でした。
 4月は、クラスの中でも友達ができなくて本当に苦労をしました。挨拶ぐらいはしましたが、名前も分からず、アイコンタクトのできない私は孤独でした。クラスメイトも、遠巻きに私を見ているように感じました。そうなると、勉強で使う教科書のこと等次々と不安が重なり、夜も眠れなくなりました。自分が大学に来たこと自体、間違えていたのではないかと思うようになったのです。そんな4月のある日、私達英文科の1年生が交流会ということで、近くの公園に歩いて行くということを連絡されました。これは困りました。渡辺さんに頼む訳には行きません。みんなから誤解をされてしまいます。そうかと言って、欠席すると、私がドロップアウトしてしまうと感じました。私は真剣に悩み考えた結果、1年Bクラスの中で、授業中とても真面目で優しそうな石井君に、交流会の手引きを頼む決心をしました。翌日心臓ドキドキ、口から今にも飛び出すのではないかと思うほどでしたが、石井君の所に行って、「石井君、一つ頼みたいことがあるんだけど、今度の学年交流会の時に、僕の手引きをして、一緒に歩いてもらえると助かるんだけど。」と蚊の泣くような声で頼みました。すると石井君、「ああいいよ。気にしなくても大丈夫だよ。」と、気楽に応えてくれました。ああその時のホッとしたこと!断られたら欠席するつもりでいましたが、道は開かれました。神様が助けてくれたのだと実感せずにはいられませんでした。
 授業を受ける時、私はいつも1番前に座りました。点字板、渡辺さんに読んでもらって点訳した英語の教科書を置くためには、広いスペースが必要でした。点字を直接机の上で書くと、教室中に音が響くので、アメリカから送られる分厚い点字の雑誌の上に、点字板を乗せ、薄い用紙であまり音がしないように工夫をしました。2列目からは、大抵女子学生で、男子学生は真ん中から後ろの席に座りました。授業に対して積極的なのは、圧倒的に女子学生でした。ですから、石井君のような人を見つけることは私には本当に難しかったのです。名前と声を覚えるのが大変な時期でしたし、性格も全く分かりませんでした。しかし、その交流会に顔を出したことがひとつの突破口になったような気がします。次の日から、私は、授業の始まる10分前には教室に行って、一番前に座り、教室のドアが開くと、後ろを向いて「おはよう!」と声をかけるようになりました。すると、「おはよう!」との声が返って来たので「あの名前を教えてくれる?実家はどこなの?」などと話題を見つけることができました。その挨拶から、50人いるクラスメイトの名前と声を覚えるようになりました。私のすぐ後ろの女子学生数名とはそれからすぐに友達になることができました。昼休みとかの時間にはなかなか仲間には入れませんでしたが、英語の必修授業で話したり、分からない所を教えてもらうのには大きな勇気が与えられました。
 授業の中で困るのは、出席順に名前を呼ばれて返事をする時は良いのですが、授業によっては、四角に切った紙が配られます。出席カードでした。授業や日にちによって色が変わるのです。青・黄色・ピンクのカードで、それに自分の出席番号を記入することによって、授業の出欠を確認するというものです。視力のある人にとってはどうということはありませんが、私にとっては、憂鬱の一つでした。1年Bクラスの時は、いつも同じような席に同じような人たちが座るので、「わるいけど出席番号を書いてくれる?」と、頼めば「阿久津君は1番だよね」と、大抵の場合覚えてもらいました。それが毎日となると、自然に、「出席番号書いておいたよ。」となっていきました。はたまた困るのは、経済学部などと一緒に大教室で受ける合同授業です。今日は誰に出席カードを頼もうかと悩まなければなりませんでした。4月・5月は憂鬱の種でしたが、6月になると、だれかれかまわず頼めるようになりました。大教室で、カードを配らない先生も中にはいらっしゃいました。300人いる学生の名前を一人ずつ読み上げるのです。私が聞いていると、一人が5人の役割を演じる声優がいるのです。時には高い声、時には低い声、また時には枯れた声なのですが、教授は意に介しません。「私ならば見破るのになあ…」と思うのですが、密告するわけにはいきません。「代返」という言葉をその時に知りました。先生たちは、もっと良く学生たちの顔と声を覚えなければと思った学生時代でした。
 授業を受けていて困ったことはまだあります。授業の中で、突然その日の授業で使うプリントを配布されることでした。これにはお手上げです。盲学校ではこんな時には、点字と活字のプリントが用意されます。しかし大学では無関係にいたるところで、レジュメなるプリントが配られました。多くは一般教科でしたが、時には英語の授業でもありました。Bクラスの授業では、私は振り向いてクラスメイトに声を出して読んでもらいました。しかし、その場で答えるようなプリントの時は、時間が過ぎるのをじっとやり過ごすだけでした。
 もう一つは、先生たちの講義の中で、黒板を使っての板書でした。また、「これがこちらに来て、こうなります…」等は全く分かりませんでした。英語の文型や文法もグラフ化して書かれることもありましたので、そのような時は授業の後で、クラスメイトに教えてもらうようにしました。
 私が大学生になって盲学校とは違うことの一つに話題の違いがありました。今から40年も前のことですが、女子学生の主な話題は、洋服の話、食べ物の話、彼氏の話、そして芸能人の話でした。例えば、「今日の洋服素敵ね!高かったでしょ?」、「うーん、これ千円よ。安かったんだ。」、「夕べ彼氏とデートだったの?……」。私は聞こうと思わなくても、前の方に座っているので、聞きたくなくても聞こえて来るのです。なるほど、女子学生たちは、食べ物、彼氏、洋服、それから芸能界なのだなという、話題のランキングを知りました。他方、男子学生の話題は、車の話、アルバイトの話、旅行の話、それから野球、釣り、その他のスポーツへと話題が広がって行きました。男女共通の話題は音楽でした。クルマを所有し、ギターの弾ける男性はもてたと思います。
 さて、ここで大学1年生の授業の中で、私が最も興味を惹かれた授業について、書きたいと思います。それは英語会話と英文講読でした。英語会話は、週90分の1回でしたが、担当の先生は Mrs. Platでした。アメリカ人の先生でしたが、初回の授業で「Mr. Akutsu, …」と呼ばれた時に、堂々と「Yes, sir」と答えました。盲学校での英語の先生はすべて男性でしたので「Yes, Sir」だったのです。プラット先生は「I am not a man, please say Yes, Ma'am. 」との答えでした。ma'am(madam)から来ていますが、恥ずかしながら全く知りませんでした。最近の英会話では、女性の先生の例文もあるし、映画でもこの単語は良く聞きますが、忘れられない失敗でした。英語会話は楽しかったです。一部の学生を除いて英語会話を苦手にしている学生は数多くいました。
 もうひとつの授業は矢野先生の英語講読の時間でした。矢野先生は、桜美林高校に所属していらっしゃいましたが、私たちのクラスの授業を担当してくださいました。教材は、アメリカ南部の作家「アースキン・コールドウェル」の短編を取り上げてくださり、先生ご自身も、アメリカに長年留学され、ジョージア州での体験を話してくださいました。南部では黒人への差別も根深く、日本人への差別もあり、矢野先生も幾度か差別的待遇を経験されたと話してくださいました。授業では、「イチゴの季節」、「昇る太陽にひざまづけ」、「ジョージアボーイ」の作品を講読しました。私はコールドウェルが好きになり、それまではサマセット・モームを卒論にしようと思っていましたが、3年後には点字の教材が少ないことも考えて、マイナーと言われるコールドウェルを卒論の対象に決めて、1年生から3年生にかけてコールドウェルの本を日本点字図書館から借りて読み、また、2年生になってから、英語の原本を探し始めて、点訳に着手しました。矢野先生とは1年生の時だけ教えていただきましたが、2年生になっても桜美林高校の職員室に面会に伺いました。確か愛媛県出身の先生で、その話し方には四国地方と思われるアクセントが私には新鮮に感じました。
 大学に入って私が気づいたことのひとつに自分には点字の教科書はないし、彼らと勉強を共にしてみて、学力の差を痛感させられました。圧倒的に私の読むスピードは遅かったのです。彼らは全体を一度に眼を通すことができますが、私は指で点字を追うのですから、どうしても遅れてしまうことが良く分かりました。そこで、私は次のような3ヵ年の目標を立てました。1年生で彼らに追いつく、2年生で肩を並べる、3年生で先頭集団に入りたいということでした。
 今回の最後に増田君との再会について書きたいと思います。私が悪戦苦闘をしている最中、5月4日から5日にゴールデンウイークを利用して、小田急線「成城学園前」の近くの、鍼科学研究所で研修をしている増田君が私の下宿に一晩泊まりに来てくれました。その夜は食事がないので、私は電気炊飯器でご飯を炊きましたが、保温の状態で炊いたので生米になってしまいました。岩下商店から買ってきたボンカレーで何とか腹を満たしましたが、まずいのはこの上ありませんでした。腹を壊さないように、ゆっくり、ゆっくりと噛み締めて食べてもらいました。そして、私の悩みを聞いてもらいました。近くに親友がいたことは、大きな慰めでした。今ならば携帯電話でもっと気軽に話せますが、実際に会って話すこともとても大切です。
 かくして、私の最も苦しい4月から7月までの時が流れました。
★メモ★
 町田市は東京の西に位置し、小田急線とJR横浜線が走っています。言葉の最後に「じゃん」を付ける「浜言葉」が楽しかったです。いいじゃん、そうじゃん、分かるじゃん等です。この我が人生も「楽しいじゃん」となれば、「嬉しいじゃん」です。
 増田君からのコメント、さて大学は僕の知らない世界なので、大変興味深く読みました。中でも積極的な阿久津君でも最初は苦労したことを知り、僕には出来ないことだったと思います。本当に自力で目的を達成したことになりますね。女子学生を後に控えて毎日勉強ができて、それは励みになったでしょう。やはりそこには目標が確かであれば、そのパワーは強くなりますね。最初、挫折しそうになりながらも神様が守ってくれましたね。



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