第20話 桜美林学園



 今回は、桜美林学園について紹介をいたします。桜美林学園は、学長清水安三(しみずやすぞう)先生が、1946年に当時のキリスト教のリーダーである賀川豊彦先生の仲介で米軍から土地を分けていただいたのが、そもそもの始まりと聞いております。詳しくは、インターネットで調べていただければ分かるかと思いますが、短大、大学と1960年代にオープンしたと思われます。戦後、まもなくは幼稚園や高校からのスタートでした。清水先生は、1921年から1944年頃まで、中国において女子の教育のために学校を開いていらっしゃいました。戦争と共に学校は没収され、帰国の途につくことを余儀なくされました。それから、先に書きましたように桜美林学園を開いたということになります。清水先生は同志社大学神学部出身ですが、大学時代から野球が大好きで、野球部に入っていたと聞きました。桜美林教会の礼拝の中でもしばしば聞きました。学業に関しては、後ろから数えた方が早かったとおっしゃっていました。そして、「人間は勉強ができるかどうかではない、信仰とビジョンがあるかどうかです」と、しばしばメッセージでお話になっていました。戦後、裸同然で帰国した時、町田の現在の桜美林の森の中に一人行き、「ここで若い人たちに教育をしたいのです。神様、ここに広い土地を与えてください」と、毎朝、祈り続けたそうです。そして東京の神田にある本屋さんで賀川先生に遭遇し、清水先生が願いを語ったところ、米軍の使った寮が与えられたと聞きました。私が大学に入学した当時、3人の学生がテントを張って、学費値上げ反対でハンガーストライキに入りました。清水学長は、その学生のいるテントに行き、「みんな大丈夫か?体に気をつけなさいよ」とお祈りをしたそうです。やる気でいた学生たちは、それがきっかけで、ストライキを止めてしまったと聞きました。また、明治時代に同志社大学でも紛争が起こった時、創設者、新島襄先生は、学生たちを講堂に集めて、鞭を取り出し、先生の右手で左手を打ちながら、「諸君、私をゆるして欲しい」と、血が出るほど打ち据えたそうです。たまりかねた学生たちが、「先生やめてください。私たちが悪かったのです」という話になったそうです。その話は桜美林教会の礼拝で清水先生からうかがいました。来年のNHK大河ドラマでは新島襄の妻の物語が取り上げられますが、どのようになるか楽しみです。
 さて、話は下宿に戻ります。私たちの朝食は、朝7時になっていましたが、食堂に顔を出すのは、船山さんと私の二人だけでした。他の6人は、寝るのが遅く朝食はほとんど食べていませんでした。下宿のおばさんは、それでも毎朝、一人ひとりのドアをノックして「朝ご飯ですよ」と連絡しましたが、みなさん起きてきません。おばさんは、「朝ごはんの準備をしているのに、みんな起きないからしょうがないわねえ」と、よく言っていました。彼らは、部活動に夜遅くまで起きていて大学には行っていたのでしょうか?私からは聞く訳には行きませんでしたが、卒業はした様ですから、何とかなったのでしょうね。夕食も、私と船山さんは6時に食べていましたが、他の6人は7時過ぎでした。少林寺拳法部の活動に力を入れ、夜はマージャンの音や吉田拓郎の歌が、1階からかなり大きく流れていました。こちらは、土曜日・日曜日は点訳に明け暮れた4月から7月なのに、彼らには余裕綽々といったところでした。私は、月に1度は下宿のおばさんに、マッサージと鍼の治療を感謝を込めてさせていただきました。腰が痛いと聞けば、土曜日の夜にさらに治療を行って喜ばれました。そのようなわけで、おばさんとは人生について、おばさんの苦労話も沢山聞かせていただきました。滋賀県出身の方で、京都とは違う言葉でした。そういえば清水学長も、滋賀県の出身でした。「わしは近江商人の出身やからな、商売はうんと儲けて献金をすればよいのやで」が先生の口癖でした。
 私が桜美林教会に出席すると「よう来たな」と言って出席の度に握手をしていただきました。当時、90歳に近いお年でしたが矍鑠としていらっしゃいました。中国での苦労話、桜美林を開くときのお祈りと苦労の話は何度も聞かせていただきました。それらは私の貴い宝物になりました。どんなに望みが尽きても、希望がある。希望があれば道が開かれる。ビジョンが大切なのです。それが先生の体験に基づいた信仰のメッセージでした。
 6月のある夜、私は、先輩の菊地親子さんのお誘いをいただいて、船山さんと、菊地さんのアパートに夕ご飯をご馳走になりに出かけました。食事のない日曜日の夜だったと思います。そこに行くと、菊地さんが大学1年生の時からクラスメイト兼ヘルパーとして、4年間絶えず協力してくださっていた、栄子さんという方がいました。私達4人は、菊地さんの手料理をご馳走になりながら楽しい話に盛り上がりました。それが不思議な出会いとなって、船山さんと栄子さんは翌年大学を卒業してから、二人の交際が続き、5年後には、めでたくご結婚となりました。この4人が出会ってなければ、船山さんと栄子さんの出会いもなかったし、菊池さんと栄子さんの出会いがなければ、結婚もなかったわけです。まさに人と人との出会いは妙技です。仏教ならば「縁」と言いますし、キリスト教ならば、神の摂理とでもいうべきことでしょうか。
 また、7月の頃かと思いますが、今度は増田君の研修している鍼科学研究所に私が遊びに行きました。午前10時から、研修生全員が礼拝をしていました。また第3土曜日の午後には、鍼の研修会も開かれており、私はその中に加えていただく幸せを体験することができました。創設者が平方龍男先生といいまして、茨城県出身の全盲の先生ですが、リンパの治療を中心に、鍼治療の達人として、当時は大変有名な先生でした。私には鍼の詳しい治療は分かりませんが、礼拝の中で、平方先生から直接、聖書の話を聞くことができることは、私にとりましては、本当に感謝な時でした。増田君たちは、20期生だったと思いますが、20名程度の視覚障害者が研修に来ていました。基本的には2年半の研修期間ですが、その後も職員として残っている人もいました。平方先生が、特に何回もおっしゃっておられたことは、『鍼の治療をする前に、患者さんのために祈りなさい。自らの実力によるのではなくて、神様の御力をいただいて、鍼の治療をするのです。患者さんの健康、癒しのために祈ることが先です。それから心を込めて治療をすることです」という言葉は、私の心に深く残りました。治療は仕事というよりも、患者さんの心と体の痛みを共有することですとのお話でした。これこそ、治療の真髄だと学ぶことができて感謝でした。何よりも、平方先生は、茨城県立盲学校の理療科の先生を退職されて、盲学校の卒業生のために、自費で施設を立ち上げたその信仰に、ただただ驚き、敬服いたしました。鍼科学研究所は今日も後継者が与えられて続いております。鍼科学研究所の皆さんは、音楽的センスがバツグンで、男性4人でダークダックスの声と引けを取らないほどのハーモニーで、讃美歌を歌っていました。ギターを弾くことは、鍼の治療には良くないと言われていましたが、増田君は密かに弾いていたようです。私は、1年に2回程度礼拝に出席させていただき、増田君の友達とも親しくさせていただきました。主に九州、関西方面からの人たちが沢山来ていました。私が大学を卒業してからも、クリスチャンの集まりで、何人かの人たちと再会することとなり、神様の不思議な導きを感じないではいられませんでした。
 さて、夏休みを目の前にしたある日、私は大変お世話になった蜂谷先輩を、新宿にある末広亭に招待させていただきました。というよりも、本音は、私が生の落語を聞きたいと長い年月願っていたことでした。蜂谷さんは、喜んで私をガイドしてくださいました。新原町田から小田急線で新宿駅へ急行で約40分、新宿駅から歩いて10分の伊勢丹というデパートの近くに末広亭はありました。午後の部は12時から4時半までとたっぷり楽しむことができました。最初は、若手の落語家です。プログラムが進むにつれて、落語家の名人たちが次々と出てきました。古今亭志ん生、三遊亭圓生、その二人が何と言っても当時の大看板でした。漫才では、「地下鉄の電車って、どこから入れたんでしょうね。考えると、また寝らんなくなっちゃう」という「地下鉄漫才」で人気沸騰の春日三球・照代、奇術では、海老一染之助・染太郎の奇術も出てきました。おまけに柳家小さんも聞いたと思います。私と蜂谷さんは、前列に座りました。目には見えなくても、ストーリーを知っているので、しぐさもだいたい検討がつきました。染之助・染太郎さんの奇術の時に、私も拍手をしました。すると蜂谷さんが驚いて、「阿久津君は奇術が見えないのに、どうして拍手をするのだ」ときかれました。私は、「みなさんがしているから、さぞかしうまいのだろうなと思って拍手をしました」と答えました。すると蜂谷さんは、「目が見えないのにそこまで気を使うのか!君はえらいなあ」とほめていただきました。私は、なるほど見える人たちはそのように感じるものなのだなあ!と改めて視覚障害者と健常者の感じ方の違いを教えられました。蜂谷さんとの寄席見学は一度だけでしたが、それがやみつきになり、大学4年間に、8回新宿末広亭に行くことができました。そのたびに、友人を誘っての楽しい一時でした。ある時は女性を誘い、ある時は日本に長くいるアメリカ人の男性でした。落語は古典・新作を問わず楽しいものです。4時間半笑いにタップリと浸ることができます。人生の辛く苦しい時、一度楽しい世界に浸ることができますし、当時の名人の落語を聞くことができて本当に幸せでした。
★メモ★
 落語には、前座・二つ目、真打とあります。真打になりますと、独演会などを開くことができます。
★増田君からの感想★
 阿久津君は礼拝に来たときの平方先生のお言葉をよく覚えていましたね。それは神様を信じて、ありがたいお言葉として捉えたので、身になって、今尚忘れがたいこととして思い出されることなのですね。自分などはそのようなありがたいお言葉を毎日聞いていながら、ほとんど覚えていないということは、真剣味に欠けていたことを知らされました。真剣に勝ち取る人間と粗末にやり過ごす人間との違いであると思います。それにしても携帯電話のない頃に、よく待ち合わせをしたものですね。どのように連絡を取り合ったのか思い出せません。当時も携帯電話が存在していたら、もっともっと友達やボランティアとも簡単に出会えるし、パソコンがあったなら、点訳の苦労もそれほどにはなかったように思います。でも簡単に勝ち取ったものと、苦労して勝ち取ったものとは重みが違うと思います。だからこそ辛いこともあったでしょうが、英語教師として勤め上げることが出来たのだろうと思います。
★解説★
 私は友達との連絡は下宿から歩いて数分の所にある公衆電話に沢山の10円玉をポケットに詰めて通い、多くの人たちとお話をしました。あのころは100円玉は、まだ使えなかったような気もします。後日100円玉を使えるようになって便利でした。増田君からは下宿に電話をもらい、おばさんが「阿久津さん電話ですよ。よく電話がかかるわね」と、言われていました。そんなこともあり、マッサージの治療も感謝を込めて治療をさせていただきました。
 清水学長の願いのひとつに、桜美林高校が甲子園の野球に出場することでした。1976年の夏、甲子園夏の大会で、何と優勝をしてしまいました。祈りと願いは聞かれるものです。
 校歌の中で、「イエス・イエス・イエス・イエス・イエス」と、叫ぼうよとあります。清水先生は、「他の人たちから、「さすがキリスト教主義の学校ですね」と、いわれるけれど、わしの作詞の気持ちはイエス・キリストのイエスではなくて、ほんまは、はい、はいと、はっきりと元気よく返事をしようよという意味を込めての歌なんやけど、まあ、そう言われれば、イエス様の力やから、イエス様やなとも、NHKの人生読本でもお話になっていました。



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