第21話 それぞれの新天地(橋本京子さん)



 7月のある日のこと、私は渡辺さんと一緒に盲学校時代のクラスメイト、橋本京子さんの働いている東京サフランホームに行きました。サフランホームは、東京の荻窪の近くの杉並区宮前にありました。その施設は、失明女性が安心して鍼灸マッサージの仕事ができること、また、日常生活の訓練も受けられる所でした。キリスト教を土台として建てられた施設で、バイブルメッセージもあったと思います。最も安心なことは、サフランホームの中で治療をすることができました。しかし、出張治療もかなりあった様です。橋本さんとは、3ヶ月ぶりに再会をしました。サフランホームの所長は高田富美野さんという全盲の方ですが、大変優秀な方で、戦後、間もなく短大を卒業していらっしゃったと思います。限られた時間でしたので、思いの全てを話すことはできませんでしたが、東京で再会し、お互いに励ましあうことができて、とても嬉しく思って下宿に帰りました。渡辺さんと橋本さんは、盲学校時代に寄宿舎での生活をしていたので、今でも姉妹のように楽しくお付き合いを続けています。今回、この原稿のために橋本さんにサフランホームでの思い出を書いていただきましたので、以下に掲載します。
 ≪ 私は、理療科を好きになれず、当時、新職業として電話交換手を目指ていました。卒業後に大阪ライトハウスと所沢にある国立リハビりテーションセンターの生活訓練、職業訓練ができる施設に入所を申し込みました。しかし、当時、人気のある施設でしたので、私はあぶれてしまい、卒業後のことを悩んでいました。そんな時、多分、阿久津君が鈴木彪平先生に話していてくれたのだと思います。そしたら、東京のサフランホームを勧めていただき、ライトハウスに入所するまでの準備段階として、サフランホームに行くことにしました。4月にワクワクで入所しました。そこはクリスチャンの先生を中心とした女性ばかり約10人程が、一緒に生活している所でした。治療院入所生8名と、生活の全般をお手伝いしていただく、おばさんの構成家族でした。キリスト教の治療院なので、毎週日曜日に教会に行くこと、毎週水曜日の午後の礼拝には必ず出席することなど、規定がありました。私は生徒の時に鈴木先生のお宅でのバイブルクラスに参加したこともありましたので、サフランホームでは、あまり抵抗もなく聖書の勉強をすることができました。問題だったのは出張治療でした。昼は歩きで出張、夜は危険ということで車による出張でした。出張の際、昼は道が分からない人には、おばさんが道を覚えるまで私たちに付き添い、夜は、バイトで大学生の男の子が車の運転にくるので、それが年頃の私たちにとって、胸ドキドキの唯一の楽しみでした。入所生は全国から来ていたので、学生時代のこと、おしゃれのこと、食べ物のこと、彼氏の話など、仕事が終わり消灯になってからのおしゃべりの時間が楽しかったです。食事は当番制でおばさんと一緒に作りました。初めて作る食事も慣れるまで辛かったです。でも一番辛かったことは、昼の一人歩きの出張でした。道が覚えられず、何度も間違えて、予約の時間に着くことができずに、当時は携帯もなく、公衆電話を探しておばさんに来てもらうのですが、自分のいる道さえ説明できずに泣いてばかりで、やっとお客さんの家に着いたと思いきや、時間が遅いからと断られたり、慰められたり、出張は、ほんと辛いばかりでした。入所して3ヶ月くらい経った頃でしょうか、東京の大学に進学した阿久津君、渡辺さん、菊地さんたちが会いに来てくれて、ありがたく嬉しかったことを覚えています。そのとき、阿久津君たちが妙に新鮮に感じ羨ましかったなーなんて思い出します。日々の生活にも慣れた頃、やはり女性ばかりの職場特有の陰険さ、特に入所してから、私のことをかわいがってくれていた先生との人間関係が難しくなり、ますますホームムシックが強くなり、気の弱い私は入所して4ヶ月目で、結局、宇都宮に戻り治療の良さを再認識して、宇都宮の整形外科に就職して、マッサージ師として、楽しく、元気に働きました。回り道をした様ですが、あの経験は貴重な体験でした。東京での生活は、東京の空気を感じることができました。≫
 さて、私の方は、大学1年の夏休みになりました。この年の夏に、「ひとつの会」というキャンプが、東京八王子市にある青年の家で二泊三日でありました。これは盲人と晴眼者の交流キャンプでした。実は、そのキャンプは2、3年前から開かれていました。以前書いた、琵琶湖湖畔での同志社大学唐崎ハウスでの盲晴高校生交流キャンプの卒業生や、大人たちによる関東地区の交流キャンプといったところでした。私は、そこで平山さんと3年ぶりに再会しました。平山さんとは、江曽島学園で10年程一緒に生活したのですが、同じ部屋での生活はありませんでした。また、私は19歳で学園をやめてから寄宿舎に行きましたが、平山さんは、卒業1年半程前に鈴木先生と劇的な出会いにより、人生観が変わり、大学進学へと大きく進路変更を決心したのでした。そのために学園をやめてから鈴木先生のお宅の隣に1年間下宿して、英語の手ほどき、信仰の導きをしていただき、四条町教会で洗礼を受けてから桜美林大学に進学しましたので、私との接点はあまりなかったのでした。
 ところで、八王子で開かれたキャンプで3年ぶりに再会した私は、平山さんの変容ぶりに圧倒されました。1年間、アメリカのインディアナ・リハビリテーションセンター、ニューヨークライトハウスでの研修をしてきた平山さんの英語は、日本でかつて聞いたことのない英語でした。英語よりも日本語の方が不自然でした。つまり、アメリカにいた時は、英語で考えてコミュニケーションをしていたので、日本語の言葉を忘れかけていたと言っても良いくらいかと思いました。日本語で話すときに、「ええ、あああ」としばらく言ってから日本語になっていました。その体験は私には衝撃的でした。私の英語は英文法から入りましたので、日本語で考えてから、記憶した英作文の例文集に当てはめての会話なので、どこか不自然で時間がかかりました。多分、私の英語に平山さんはそうとうイライラしたのではないかと思います(現在は、私も英語で考えて話すことができるようになりました。その私の日本での学習法は、後日書かせていただきます)。
 そこでのキャンプは青年たちらしく、当時の世相を反映しての話し合いが多く出されました。ベトナム戦争反対、70年日米安保反対のデモに参加した学生の話なども多く出されました。牧師の中にも、横田基地が近くにあることもあって、反米的な発言も飛び交いました。私には、何故かそのキャンプがしっくり感じられませんでした。そこに来ていたのがトム・ペイトン宣教師でした。私が専攻科2年の時に、岩手県奥中山の国際交流キャンプに推薦してくださり、平山さんの留学のためにご尽力くださった先生でした。多分、35歳くらいの宣教師だったと思いますが、私たちがペイトン先生と呼びますと、「あなたたちと私は友だちになりたいので、先生と呼ばないでペイトンさんと呼んでください」と言われました。ペイトンさんは、アメリカのオハイオ州から日本キリスト教団に派遣された宣教師でした。ペイトンさんとの出会いは、平山さんと私に大変な精神的影響を与えていただきました。一例を挙げますと、「みんなはこんな風に考えています。日本の盲人は…」と話しますと、「啓司、あなたの考えはどうなの。人の考えを言わないで、あなたの考えを私は聞きたいのです…」と、どこまでもきくのです。今までは、恩師鈴木先生のアドバイスにしたがって、私の信仰と生き方は問題ないだろうと考えていました。それは間違いとは思わないのですが、ペイトンさんは、「でも、あなたの人生はあなたが考えるのです」という信仰、信念でした。
 そのキャンプでのペイトンさんとの出会いがきっかけとなって、視覚障害者が自ら考え行動しようという動きが芽生えました。9月以降、数人の人たちが集まり、盲人と晴眼者による市民活動を日本に広げて行き、視覚障害者が正しく理解されるための活動を始めようということになりました。ペイトンさんはあくまでも協力者であり、私たちが主導権をにぎるべきであるとの考えでした。ひと月に一度会議を開き、市民活動とは何かを話し合い、私たちができることは何かを、夜を徹して話し合いました。ここでは、その活動の一つとして、平山さんがアメリカから持ち帰ったボウリングガイドについて紹介致します。これは盲人も一緒にボウリングを楽しめる器具で日本にはありませんでした。簡単に説明しますと、折りたたみ式のパイプで袋に入れて持ち運びができます。それを一般のボウリング場に持ち込み、長さ3メートル程度のパイプのレールを組み立てます。レールには前後に脚がついていて腰の高さになります。その脚の先には、ボウリングのボールが入れられるようになっていて、前後の脚の先にボールを2個ずつ入れて、4個の重いボールで全体を固定します。これをボールを投げる助走路の片側に設置し、盲人はレールに片手をかけ助走をして、ボールをピンに向かって投げるのです。日本でこれを普及しようということになりました。まずは、平山さんのボウリングガイドを、特許権をもつアメリカのマーラーさんから許可をいただき、神奈川県相模原市にある「アガペー」という障害者の施設に20組製作していただくようにお願いしました。そのために募金活動を行い、高田馬場から歩いて10分程度のボウリング場「シチズンボウル」と交渉をしました。大阪には視覚障害者が施設の中でボウリングを楽しむところがありましたが、このように一般のボウリング場に持ち込んで、一般のボウリング施設で共にボウリングを楽しむことができるようになったのは、平山さんがアメリカから一組のボウリングガイドを持ち帰ったことから始まりました。その後、ボウリングガイドをシチズンボウルに保管していただき、いつでも誰でもできるようにしました。その結果、筑波大学の盲学校の生徒の皆さんや、教員養成部の皆さんもボウリング場に足繁く通うようになりました。このために筑波大学附属盲学校の体育の伊藤先生には大変お世話になりました。翌年、1973年にはシチズンボールにスポンサーとなっていただき、第1回日本盲人ボウリング大会を開くことができました。こうして30名ほどの視覚障害者と晴眼者による新しいグループができ、名前を「盲晴市民活動会」と命名して、初代の会長に私が推薦されました。
 さて、夏休みが終わり、大学の前期試験になりました。私がどのようにして、10科目を超える教科のテストを受けたかですが、だいたい以下の3つの方法をしていただきました。
 1.教務課に行って、英語の試験問題を読んでいただき、私が点字タイプライターで点訳してから解答を書きました。答えは英文タイプライターとカナタイプライターで書きました。
 2.先生のご好意により、前もって研究室に伺い、先生自ら試験の問題を読んで下さり、解答は先の方法と同じです。
 3.レポート提出によるテストは、カセットテープに私が録音をして提出しました。
 4年間を通して、私が受けた試験の方法はほぼ同じだったと思います。現在ならば、ノートパソコンで答えを書けますが、その当時は、大学の教務の先生や授業の担当の先生方に親切に面倒をみていただけたので、単位修得ができたのだと思います。実は、体育の授業も1年の時にありました。ソフトボール、バスケットボール等からひとつ選ぶことになっていました。私は、担当の先生から特別免除をいただいて、レポートで、優・良・可の中から可の成績をいただきました。
 大学生活も半年が過ぎると、心にゆとりをもつことができるようになりました。平山さんもアメリカから帰国し、下宿生活も一緒になり、アメリカでの1年間の生活を、時間を見つけては聞かせていただきました。私たちが盲学校にいた時には、現在のような、自立活動、その前の養護訓練の授業もなかったので、歩行訓練も皆無でした。私は平山さんから、白杖の使い方や単独歩行の仕方を直接教えていただき、一人で歩くことに対して自信をもつことができるようになりました。そして、これからの日本の盲人はどのように生きていけばよいか、視覚障害者の文化の向上、意識のレベルを上げるためにはどうしたらよいか等について、コーヒーを飲みながら朝まで語り合った時も何度かありました。平山さんは大学の3年の後期からの授業で、点訳のことから苦しまなければなりませんでしたが、下宿をしていた船山さんが、蜂谷さんに代わって残された1年半の大学生活の教科書作成に協力をしてもらうことができました。人の出会いとは何と不思議なことかと思います。また船山さんは数学が専門のこともあり、点字に対して興味を示し、点字を覚えて、橋本さんと点字での文通をするようになりました。私の方では渡辺さんに教科書を読んでもらっての点訳が後期も続きましたが、夏休み中に大半を終了することができ、随分と余裕を得ることができました。
 10月のある日のこと、私は1人の女子学生から点字のことをきかれました。奥田さんという人でした。「自分も点字を覚えて、阿久津君の役に立ちたいんだ」との優しい声をかけられました。そして彼女は間もなく英語の点字を覚えて、先生が板書をした文を、フルスペルではありましたが、点訳してもらえるようになりました。何とありがたいことか!親しくなるにつれて、いろいろな話しをしたところ、彼女の叔母様が中途から失明されたので、自分も視覚障害者を助けたいとの強い気持ちをもっていたのでした。奥田さんは、1年Aクラスでしたが、2年生の時には英語に関する授業の選択をできる限りでしたが、一緒に選択してくれました。そればかりではありませんでした。彼女は、高校が聖心女子学院の出身でしたが、聖心女子大はカトリックの大学で、卒業生の皆様の中から「御心会(みこころかい)」という点訳ボランティアグループを組織して、盲大学生のために点訳をサポートしているという、ニュースも提供していただきました。そのような神様の導きによって、大学2年生からは、御心会の点訳グループの方からもサポートをしていただけるようになりました。御心会の皆様は、パーキンスタイプライターで点訳をしてくださいましたが、その英語点訳は実にすばらしいものでした。2級点字をパーフェクトにマスターしていらっしゃいました。
★メモ★
 平山さんの歩行訓練のお陰で、私は下宿から新原町田駅までバス、それから小田急線で新宿駅、そして池袋、赤羽駅、宇都宮から自宅まで、自信をもって単独歩行が可能となりました。そればかりか、知らない所にも勇気をもって行くことができるようになりました。
 平山さんが持ち帰ったボウリングガイドワンセットは、栃木盲学校の寄宿舎に昨年寄贈されました。大いに活用して欲しいと願っております。
 現在の大学での視覚障害者に対する環境ですが、教科書は、点訳ボランティアの皆様が総力を上げて、教科書の点訳をパソコンによってバックアップしていただいております。また、大学でも、多少差はありますが、視覚障害者のために教室が与えられ、パソコンもあり、点字プリンターのある大学も増えてきて、点字で試験問題をもらえる大学もあると聞いています。他方、盲大学生の中では遊び過ぎているのではないかとの風の噂を聞いております。ほんの一部の人たちだと思います。大変優秀な学生も現われ、すばらしい働きをしている視覚障害者が多くいることを付記しておきます。



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