第22話 特集号 平山益太さん
トレーニング



 今回は、たびたび私の原稿に出てきていただいている平山益太さんに、アメリカでの体験記を書いていただきました。お楽しみください。
 このような機会を与えていただいたことに感謝しつつ、私の大学生活と英語学習法について、書いて見たいと思う。
 私は、盲学校の専攻科の時、成績がわるかったので将来に絶望していた。そのような時に鈴木彪平先生から、大学で勉強すれば将来必ず道が開けると聞いて、その可能性に賭けてみたいと思うようになった。鈴木先生の英語の授業で私の興味を引いたのは、英語とは関係のない話だった。「アメリカの盲人は生き生きとしていて、いろいろな職業についているんだぜ。君たちのように生きた屍のようではないんだぜ」という言葉だった。私は何とかしてアメリカへ行って、本当にアメリカの盲人が希望をもっているか、また、もし希望をもっているとしたら、その秘密は何なのか、是非自分で見てみたいと思うようになった。
 1969年、何とか桜美林大学に入学させてもらった私は、教科書点訳という最大の問題に突き当たった。点訳というのは、ヘルパーに教科書を読んでもらい、聞き書きで点字タイプライターを使って点字にしていく作業をいう。単語を聞いたら、瞬時にスペルを頭に浮べて、二級英語でタイプしなければならない。私は、佐藤和興(さとうかずおき)先生の「二級英語点字の解説」を横に置いて、この単語にはこの略字を使っていいかどうかを確かめながら、スローペースで毎日教科書の点訳をしていた。点訳は勉強ではなく労働で、私は直ぐ肩こりに悩まされるようになった。それでも歯を食いしばって頑張ったが、肩こりを何とかしなければまいってしまうと思うようになった。そこで私は、ふと盲学校の陸上競技を思い出した。そうだ、肩こりを直すには血液の循環を良くしなければならない。それには運動すること、特に走ることが一番効果があるのではないだろうか、そう思った私は父に電話をして、盲学校の円周走に使う鉄の杭について説明し、何とかそれを作ってくれるように頼んだ。私の父は早速親戚の自動車修理工場へ行き、車のシャフトを50センチぐらいに切り、一方の先を電動ヤスリで尖らせ、もう一方の端に溶接で鉄の輪を付け、円周走の鉄杭を作って送ってくれた。私は、物干し綱を3本買ってきて結び合わせ、16メートルぐらいの長い綱を作り、鉄の輪に結び付け、杭の周りを回って走ることが出来る円周走の道具を完成した。次の日の朝5時に起きて、円周走の道具、ハンマー、そしてラジオを持って校庭に行った。入口の金網にラジオを吊るし、NHKの放送を流し、ちゃんと元の場所に戻れることを確認してからハンマーで鉄杭を地面に打ち込んだ。思い切り30分走った。それから雨の日を除いて、走るのが私の日課となった。そうしたら肩こりは嘘のように治って、点訳は少しずつ捗るようになった。そのころから私は英会話の特訓を開始した。アメリカへ行けるという保証はなかったが、英会話ができなければアメリカの盲人に会って、彼等の生活の様子を聞くことはできないからだ。
 私は、NHKラジオ第2放送の松本亨先生の英会話に取り組むことにした。テープレコーダーで録音しながら、英会話に集注した。英会話の番組の流れは次のようであった。
 1.1週間の会話の内容をドラマのように効果音入りで聞かせる(月曜日と土曜日だけ)。
 2.今日の会話を、松本先生とアメリカ人ゲストが読む。
 3.松本先生が日本語で意味を説明する。
 4.アメリカ人のゲストが間を取って、私が真似をして正しく発音出来るように読む。
 5.AとBに分かれて会話をする。アメリカ人ゲストがAなら、聞き手の私がBになって会話をする。
 6.最後に今日の会話を読む。
 私は点字のテキストを使わないで、聞こえてくる通りに発音の真似をし、AとBの会話では、答えられなくても、取りあえずイエスかノーだけでも、間のあるところで何とか食らいついて声を出すようにした。間違っていてもかまわない。自分にはこう聞こえるのだから、聞こえた通りに真似をし会話をする。
 次に、録音テープを再生しながら同じことを繰り返す。それからテープレコーダーを2台使って、日本語の部分をすべて抜き取り、英語だけのテープを編集する。大学の勉強や点訳以外の時間はそのテープを再生し、英語を聞き、口真似をし、会話をするように努力した。好きな音楽も、深夜放送も、ニュースも何も聞かないで、英語の環境に自分を放り込むようにした。それは、英語の学習というよりは訓練といった方がよいのかもしれない。飽きもしないで、単純な作業を何十回となく何百回となく繰り返した。どうしてそのようなことができたかというと、もちろんアメリカへ行きたかったことは大きな理由だったが、松本英会話には、単純な繰り返しでも飽きない、内容の豊富さと密度の濃さがあって、私はその魅力に取り付かれたのだと思う。英会話は四つのシリーズから成り立っていて、第1週から第4週まで異なる物語を聞くことが出来た。4週を通じて、単に会話の技術を身につけるのではなく、アメリカの学生生活、文化、キリスト教、政治経済、有名な大統領の演説、アメリカではやっている歌など、とにかく次の日の放送が待ち遠しいのである。私は、一応点字のテキストは買っていたが、テキストによる予習も復習もしなかった。英語で考え、英語で言われたら英語で反応するように訓練した。こうして1年が過ぎるころには、かなり自由に会話が出来るようになっていた。そのころから、やはり録音しながら、米軍放送(FEN)のドラマ、短波ラジオでアメリカのVOA、イギリスのBBC等を聞き始めた。こうして2年半が過ぎ、2台のテープレコーダーが修理不可能なポンコツになったころ、私のアメリカ行きが決定した。
 1971年の8月末、私はICYE(国際キリスト教青年交換)の学生としてアメリカに渡った。9月からインディアナ州のエルクハート・リハビリテーション・センターで、歩行と生活訓練を受けた。私が望んでいた通りの環境で、たくさんの盲人の訓練生とともに訓練を受けながら、盲学校だけでなく、統合教育で学んだことのある人たちと話すことができた。センターのスタッフの一人、メアリー・ワークマンさんは、私のためにできるだけ多くの職業についている盲人に会って話ができるような機会を与えてくれた。
 1972年2月から4月末まで、私は、ニューヨーク・ライトハウスで同じような訓練を受けながら、自由に多くの人に会い、盲人のための施設や団体を訪ね、そこで働く職員と話をした。アメリカ人は、どんな役職に就いている人でも、ちゃんと予約を取れば、貧弱な英語しか喋れない日本から来た学生、何の資格も持たない私に会ってくれ、親切に応対してくれた。
 エルクハート・リハビリテーション・センターに戻った私は、帰国するまで実習生として、中途失明の人に点字を教えたり、高校生に算盤を教えたりした。このような経験を通して私は、アメリカの社会の盲人に対する態度とそのアメリカで生きる盲人を見ることができた。鈴木先生が言われたように、アメリカの盲人は生き生きしていて、いろいろな職業についていた。そして自信に満ち溢れていた。優秀な盲人は高い教育を受け、能力を発揮し、専門的な職業についていた。1972年、アメリカには200人の盲人弁護士がいた。私は、インディアナ州にあるノートルダム大学で比較文学を教える全盲の教授、ロジャースさんに会って大変驚いた。たくさんの本を読まなければ比較文学なんて教えられないからだ。そのころ、点字でニュースを読む全盲のアナウンサーの誕生が話題になっていた。優秀な盲人は、晴眼者の中で堂々と生きていた。全米盲人協会の雑誌に、「盲人は車の運転以外は何でもできる」と書いてあった。一方、能力がないと評価された盲人は、障害者のための保護工場で単純作業に従事し、少ない給料で働いていた。私も2週間、保護工場で働かせてもらったが、血豆ができて酷い目に遭った。
 アメリカの盲人はいろいろな職業についているが、常に晴眼者との厳しい競争に晒されている。ニューヨークで会った全盲のピアノ調律師は、「日本のマッサージ師がうらやましい。アメリカには盲人のための職業がない。もう疲れた」と言っていた。
 それにしても、アメリカ人の積極的な発想には驚かされた。彼らには不可能という文字はないのかもしれない。不可能に見えることでも、それを可能にする方法を考えるのだ。ある時私は、広い学校の校庭に連れて行かれた。そこで見せられたものは、盲人が晴眼者と同じ野球を楽しむことができる「ビープボール」というものだった。大きさはソフトボールと同じ、堅いボールで、その中には、バッテリー、アンプ、スピーカーが内蔵されていて、スイッチを入れると、「ピー ピー ピー」と音がし始めた。晴眼者の職員は、私をバッターボックスに立たせボールを投げた。私は、音を聞きながらおもいっきりバットを振ったが残念、三球三振。次に、グローブをはめて、飛んでくるボールを掴もうと走ったが、ボールはグローブにかすりもしないで飛んで行ってしまった。それでも私は、この野球に大変興奮させられた。地面を転がるボールではなく、飛んでいるボールを狙うことができたからだ。アメリカの社会は、盲人に大変な努力を要求し、ゴールを高く設定する。目標が達成できた時には大いに称賛する。「こんなことは盲人にはできるはずがない」とは決して言わない。挑戦する人にはチャンスを与え、全力でサポートする。それがアメリカの社会なのだ。
 教育についてだが、盲学校で教育を受けた方がよいという意見と、統合教育を受けるべきだという意見があった。ロジャース教授はパーキンス盲学校の出身で、「統合教育を受けた人は、なんとなく自信がないように見えるのに対して、盲学校で教育を受けた人の方が自信をもっていて堂々としているようだ」と言っていた。統合教育支持者は、「統合教育の方が友達がたくさんできるし、盲学校より幅広い勉強が出来る」と言っていた。ある日私は、統合教育をしている学校の授業を見学させてもらった。そのあと、遅れがちな点字や、ついていけない科目の復習をしている盲学生の教室も見学させてもらった。統合教育を行う学校には、リソース・ティーチャーという先生がいて、遅れがちな科目をサポートしている。このリソース・ティーチャーは、その地域の5校ぐらいの学校を掛け持ちで巡回し、そこに通う盲学生を教え、晴眼者の教室で御客様にならないようにしている。
 私は、アメリカでいろいろな経験をし、訓練を受けてきたが、今でも私を支えているのは歩行訓練である。訓練士の言葉は今でも思い出すことができる。杖を使った歩行は自立の第一歩である。盲導犬を使った歩行はすばらしいが、基本となるのは杖を使った歩行である。盲人は出来ることは何でも自分でやるべきだ。それが自立なのだ。杖の長さはその人の身長によって決まる。杖を正しく使えば、安全に速く歩くことができる。不思議なことだが、私は135センチの杖を持つと自信が湧いてきて速足で歩きたくなる。アメリカへ行く前には、このような感覚はなかった。私は、日本の大学の博士課程に、アメリカのような盲人歩行や生活訓練の専門のコースがないのを残念に思う。私に杖の使い方を教えてくれたロー・バンダビアさんは、元小学校の先生だった。私に英文タイプとレクリエーションの指導をしてくれたロイス・ブラウンさんは、元小学校の校長だった。
 私は、アメリカの福祉がよくて日本のそれがわるいと言っているのではない。外国から技術や制度を取り入れる場合、表面的なものだけではなく、基礎的な事柄や歴史的背景などをよく見る必要があるということを言いたいのである。
 以上、今回私も、阿久津君の「我が人生旅日記」を読んで触発されて書きました。



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