第23話 盲晴活動市民会の働きについて
今回は、大学生活とは少し離れて、私が大学2年から4年までの3年間、最も活発に関わったことについて書きます。前回書きました「盲晴活動市民会」(以下、市民会と記す)がどんな活動をしたかについて、まとめて書くことにします。
1.シチズンボウルにおけるボウリング大会の実施
これは、先にも書きましたが、1973年から月に一度、第2土曜日の午後に、市民会のメンバーを中心に行いました。その話が広がり、11月3日に第1回全国盲人ボウリング大会が行われ、70人を超える人たちが参加しました。第1位になった人は筑波大学理療科教員養成部の学生で、190点と驚くばかりのスコアでした。因みに私のこれまでの最高点は110点で、たいていの場合は70点か80点程度が良い方でした。この定期的なボウリングには、増田君のいる「鍼科学研究所」から、数名の参加者があり、トム・ペイトンさんとも親しく交流を深めるよい時となりました。その時、鍼科学研究所に、全盲・全聾の方と初めてお会いして、指点字で意思の伝達を図ることを知りました。これは点字タイプライターを打つ要領で相手の指や手のひらに自分の指を触れるのです。指の使い方はパーキンス・タイプライターの方式です。私は何度か試みましたが、とても難しかったです。増田君が、この指点字で通訳をしてくれたので助かりました。
2.クッキングキャンプ
1973年の3月に、千葉県稲毛町にあるその当時使われなくなった船を利用しての調理体験をしました。30人の人たちがわいわいガヤガヤと集まりながらのクッキングキャンプでした。私などは、日曜日ご飯を炊いてさばの缶詰やふりかけ、ラーメン、そしてボンカレーと言ったメニューでしたので、カレーライスとは言ってもタマネギの剥き方、人参やジャガイモの切り方など、ほとんど経験がありませんでしたので、良い経験になりましたし。その夜のオールナイトの話し合いが楽しく朝を迎えました。
3.アイススケートの実施
今では珍しいことではありませんが、当時は稀なことだったと思います。シチズンボウルの1階には、アイススケートリンクがありましたので、冬の期間にアイススケートを行いました。増田君をリーダーに、スケートにも鍼科学研究所からも参加してもらいました。増田君は日光出身なので、スケートはすでに経験済みで、スイスイと滑っていましたが、九州からの人たちにとっては、とてもよい経験だったと思います。宇都宮から盲学校の理療科の先生方も3名来てくださいました。その後かと思いますが、栃木盲学校でも宇都宮や今市市で、スケートリンクを貸し切りで楽しむようになりました。
4.映画「May I help you?」の日本語版の制作
これは、平山さんがアメリカから持ち帰った、視覚障害理解のための16ミリ映画「May I help you?」を、何とか日本語で吹込み、日本の社会に理解の輪を広げようとなりました。制作したのはウエスト・ミシガン大学でした。まずは映画で話されている英語を原稿に書き取りました。これには、平山さん、鈴木先生のご長男の鈴木脩平さん、そして阿久津が関わりました。鈴木さんには、私たちの下宿に何度も足を運んでいただき、粘り強く取り組みました。英語を書き取ったら、次は日本語訳です。そのまま日本語にすると、不自然な表現法になってしまいますので、日本の社会の実態を書き加えての文として、一部修正を加えました。そして、最後にその録音です。これはプロの方にお世話にならなければなりませんでしたが、キリスト教視聴覚センター(アバコ)の特別のご理解とご協力をいただいて、ほぼ無料で録音をしていただきました。こうしてできあがった日本語版「May I help you?」は、視覚障害啓発プロジェクトで会員の関係するところ、大学祭、幼稚園の保護者会、教会、日本点字図書館、幾つかの盲学校での上映会を実施しました。そこには視覚障害者が必ず出席して、意見交換の時を持ちました。最近では、各盲学校において、学校理解のためのビデオが作成されていると思いますが、このような企画は、当時はほとんどありませんでした。その頃、統合教育が日本のあちこちで始まりましたので、このプロジェクトは大変好評を得ました。視覚障害者を受け入れたけど、どのように接したら良いか分からないとの声が多く聞かれました。たとえば桜美林学園でも、幼稚園と中学校に視覚障害者が入学していたので、この映画はいろいろな時に活用されていました。鈴木脩平さんは当時成城学園に住んでいらっしゃいました。お仕事は、CIEE(国際教育交換協議会)といって、日本から海外へ、海外から日本へ留学・研修に来る学生たちのケアをする仕事をしていらっしゃいました。
5.オープンハウスの実施
これはペイトンさんの提案から始まりました。ペイトンさんのお宅では月2回だったかと思いますが、土曜日の夜「オープンハウス」と言って毎回20人程度の人たちが出入りしていました。私は「ペイトンさんは宣教師なので、礼拝をするのかな?」と思って出席しました。しかしそうではなくて、そこに初めて出席した人、常連の人もいるので、自己紹介をして、どんなことに興味があり、どんなことに疑問を感じているか等について、話し合うインフォーマルな集まりでした。日本では家庭を開放するとなると、掃除のことや食事のこと等、主婦はまず心配しますが、ペイトンさんのところは、ポテトチップと水でした。お話と分かち合いが主な目的でした。それから派生して、会員のお宅でも、年に2回程度オープンハウスを行うようになりました。私のような学生には本当に楽しい時でした。千葉県八街に住んでいる鈴木順さんの家庭、千葉県柏市の上田夏江さんのお宅、東京国分寺市の高松和子さんのお宅、そして成城学園にアパートを借りていた鈴木脩平さんと、賀波沢伸さん等のお宅でにぎやかに楽しく過ごしたオープンハウスでした。20人近くの人たちが泊りがけで押し寄せたので、ご家族の皆様には、さぞかしご迷惑をおかけしたことと思います。特に 成城学園のアパートでは、ついつい声が大きくなり、すき焼きパーティーでは、異論反論が風発し、大家さんからお叱りを受けてしまい、申し訳ないと反省しました。
6.タンデムサイクリングの始まり
市民会では、ペイトンさんの提案によって、明治神宮外苑でのタンデムサイクリングを1974年から始めました。タンデムとは二人乗りの自転車のことで、前に晴眼者が乗り、後ろに視覚障害者が乗って走ります。アメリカでは広く普及しているとのことでした。ペイトンさんは、東京江東区にある、サイクリング協会の北川四郎さんと連絡を取ってくださり、江東区のサイクリング協会の全面的な協力をとりつけました。その頃から歩行者天国といって日曜日と祝日には車を入れない所が東京のあちこちに設けられました。明治神宮外苑もその一つでした。私たち市民会は大喜び、私も生まれてから一度も自転車に乗る、しかも後ろに乗ってペダルを踏むことなど考えてもみませんでした。主に日曜日と祝日の日に午前10時に東京信濃町駅に集合し、日本青年館前でタンデムサイクリングの開始です。私は、北川会長の後ろに乗り、おそるおそるペダルに足を乗せました。自転車は、風を切って走り出しました。頬にあたる風が何と気持ちよいか、まるで自分が一人で自転車に乗っていると錯覚する程でした。明治神宮外苑は1周1.8キロだったと思いますが、平坦な道路なので、ぐんぐんとこいで、5周位は続けて乗りました。タンデムは5台程度しかなかったので、参加者が増えるにつれて交替する頻度も多くなりました。筑波大附属盲学校の小学生、中学生、そしてニュースを聞きつけた、中途失明者の方たちも参加するようになりました。私たちは、サイクリング協会の皆様と親しくなり、時には、酒宴を催しての交流会もありました。私は、大学を卒業するまでの3年間は、ほとんど毎回出席したかと思いますが、就職してからは欠席することが多くなりました。しかし北川さんとの交流は年賀状を通して卒業後20年は続いたと思います。市民会の同窓会の時には、北川さんたちも出席してくださり、とても楽しい再会の時をもつこともできました。タンデムはその後、各地に広がり、例えば宇都宮市の森林公園にも設置されるようになりました。埼玉県にある武蔵丘陵森林公園では、1周15キロもあったかと思いますが、私は疲れてしまい、いつしか運転は前の人に任せて、自転車をこがないでコックリと船をこいだ記憶があります。
7.日米友好スタディーツアー
1974年7月1日から23日間、市民会を代表して、アメリカの市民活動、視覚障害者と社会の関係を勉強しようということで、私を含めての5人が、アメリカを訪問しました。詳しくは3年生の時に項目を改めて書きたいと思います。
かくして、盲晴活動市民会は1973年から10年間、楽しく有意義な社会市民活動として活発に活動を展開しました。しかし各自の就職、結婚と共に、その活動はそれぞれの地域における活動へと変化して行きました。1980年代から90年代にかけては、鈴木順さん(盲学校の同窓生のひとり)、平山さん、阿久津が日本盲人キリスト教伝道協議会(盲伝)の青年部の役員として、交わりをもちました。そして、平山さん、賀波沢さん、半田さん、鈴木脩平先生(現在は日本聖書新学校の教授と牧師)、そして阿久津等は1990年以降、盲伝の国際交流部に所属して、いわば市民会の働きの継続をすることができました。
★増田君からの一言★
タンデム自転車という二人乗りの自転車は、視覚障害者に取って、非現実を晴眼者の有難い行為により、現実化した画期的な乗り物と思います。視覚障害者でも、広場ならば自転車に乗ることは可能ですが、平らな道路を安心して楽しめるタンデムカーは、スポーツという意味でも大変素晴らしいものと思います。これを一般道でも乗れるように運動したこともあるようですが、危険度という観点から現実化されておりません。そこで自転車の性質上、ある程度のスピードがないとふらついたり、それを立て直すためにやむなくハンドルを動かさなければなりません。ところが、4輪車にすればゆっくりでも倒れることがないので、これを交通法で認めてもらえると良いと思います。4輪車は、重いので電動アシストにすれば問題はないと思います。阿久津君がこのようにいろいろな面で活動してきたその原動力は、なんなのだろうかと思わずにはいられません。
★市民会の一会員からの一言★
人生旅日記もだいぶ進んできましたね。私は寄宿舎生活を経験したことがなかったので、寮に入ってみたいなあと思ったりしましたが、それはそれで大変だったんだなと思いました。昔は、やはり千葉と同じなんだなと思いましたよ。千葉県は、あいこう学園と言いましたけど、琵琶湖での盲晴キャンプとか、市民会の活動の話になって、やっと私もご一緒だったなあとなつかしく読ませていただいています。それにしても、よくその時代のことを覚えていらっしゃるなあと、いつも感心しながら聞かせていただいています。ペイトン先生やタンデム、クッキングキャンプ、楽しかったことを思い出しています。あの頃は、私は病院に勤めていました。また弱視だったので、それほど行動には困らなかったので、楽しかったことばかり思い出されます。今は視力はゼロになってしまい、昔、盲学校で全盲だった友達、みんなすばらしいなと思います。阿久津さんの旅日記に併せて、自分の人生も振り返らせていただいております。これからも、いろいろご苦労されてこられたかと思いますが、一緒に振り返らせていただきたく思います。