第25話 社会福祉研究会の活動



  今回は、大学2年生になってのキャンパスライフの一端を書きます。2年生の6月頃、クラスや学内でも私に声をかけてくれる人が増えてきました。栃木県大田原から桜美林に入ったのよ、という英文科の先輩もいれば、クラスメイトの中にも宇都宮から二人来ていることが分かりました。山梨県から4時間かけて電車で通学している中文科の先輩もいました。視覚障害者がちゃんと話ができると分かると声をかける人が多いのだなと感じました。また、クラスメイトの中に「私の兄が障害者なのです」という青森県から来ていた女性もいました。事実、目の見えない人は何もできないと思い込んでいる人が多いのも本当の話なのです。現在でも、少なくはなりましたが、視覚障害者は何もできない、と考えるタイプと、視覚障害者は何でもできるという、まるでスーパーマンのように考えている人もいます。全盲・全聾で東大の教授をしている福島智さんのテレビ番組をみたりするとみんなそう思ってしまうのでしょうね。そうかと思うと、視覚障害者の中に英語を話す人がいると、視覚障害者はみんな英語が自由に話せると思い込む人、視覚障害者は全員マッサージができると思い込む人もいます。最近は少なくなりましたが、町を歩いていると、マッサージさんマッサージをしてもらえるかい、と声をかけられたことが何度かありました。
 さて、2年生のある日、英文科の2年Dクラスの女性から、「阿久津君に頼みたいことがあるんだけど。実は、私たちは社会福祉研究会といクラブ活動をしているのだけど、協力してもらえないかな?」とのお誘いがありました。学生生活にも慣れてきましたので、4時半から5時半までの1時間ならばということで、社会福祉研究会(社福研)に入ることにしました。大学に部活動があることは知っていましたが、市民会の方で、はりきっていた私に、もうひとつの場が与えられました。部室のある建物に足を踏み入れて驚きました。落研(落語研究会)あり、フォークソングあり、体育系では空手、アメフト、桜美林が強い少林寺拳法等沢山ありました。社福研の部室は6畳くらいの広さで、7〜8人が来ていました。2年生からはDクラスの女の子が二人いました。その他経済学部、短大からも可愛い女の子が数名来ていました。私にはとても新鮮で楽しい空間となりました。何も分からない私なので、どんな活動をしているかということを聞きましたが「ここはバラバラなのだよ。それぞれ好きなことをして、興味のある人たちが集まってやれば良いのだよ」とのことでした。例えば、世田谷区の生田にある知的障害者の施設に、一月に一度訪問をしてのボランティアがありました。近くの神奈川県相模原市にある米軍基地に対して、ベトナム戦争反対のビラを配ったり、ベトナム戦争反対のデモに出かけている人もいました。その中で、私に声がかかったのは、社福研で点字の勉強をして、阿久津君たちのために役に立つことがないだろうかと、Dクラスの二人の女子学生が提案をして、私に声がかかったということでした。その他に私に大学生活をしていて何か困ることはないかな、との嬉しい問いかけがありました。そこで私が一番困っているのは、大学の教室を探すときに、ドアを一つ一つ確認して入ること、時には隣の教室に入ってしまうことを話し、できれば教室のドアに点字を貼ってほしいということを提案しました。すると社福研の皆さん賛成してくれて、大学の学生部に交渉を始めてくれました。そして間もなく認められ、アッという間に、タックペーパーを使って大学本館の全ての教室のドアに点字ラベルが貼られました。一人の力は弱いけど、部活としての力のすばらしさを知りました。1週に1回か2回でしたが、私は授業が終わると足取り軽く社福研の部室に向かいました。一つ驚いたのは、大学8年生の女性の先輩がいたことです。理由をきくと、ベトナム戦争反対をはじめ社会派の先輩でした。授業にはほとんど出ないで、朝から夕方まで、部室にいて討論をする社福研の姉御でした。気さくな方で、とても楽しいのですが、点字はほどほどに取り組んでくれましたが、冗談を言いながらの楽しい先輩でした。加藤登紀子さん的な雰囲気を感じました。その先輩、どこかの施設に就職したと、私が4年生の頃、風の便りで聞きました。また私たちの先輩には、本田路津子さんがいて、フォーク歌手としてヒット曲を出していました。私が卒業してから、NHK朝のドラマ「愛より青く」のテーマソング「耳をすましてごらん」が有名になりました。
 経済学部の男子学生たちとも楽しい話をしました。経済学部は、1学年200人程度いましたが、男女比は7対3程度ではなかったかと思います。そのため、彼らは英文科の女子学生や短大の女の子がお目当てではなかったかと思います。実際、社福研では聞きませんでしたが、経済学部の学生たちは積極的に、英文科、短大の女子学生にアタックして、結婚をしたという話を聞きました。私のいた下宿の経済学部の人たちも、例にもれず男女交際をしていました。社福研の障害者問題では、車椅子の人もいたので段差を無くすように交渉をしていましたが、いかんせん山を切り開いての大学なので、これはなかなか改善されませんでした。とにかく、大学内での移動は、点字の表記が付いて、私は迷うことなく歩けるようになりました。それ以前には間違えて女子トイレに入り込んでしまって、あわてて逃げ出すようなこともありましたが、それもなくなりました。最も私が視覚障害者なので、女子学生の中では「間違いですよ」と、優しく声をかけてくれた人もいました。
 さて、点字の学習ですが、私の願いとしては、一般教科の点訳の手伝いをして欲しかったのですが、それは無理なことでした。当時話題になっていた、サンテジュグペリの「星の王子様」を、みんなで手分けして点訳を1年間かけて書き終えて、製本をしました。みなさん完成したことにとても喜んでくれました。社福研に入って分かったことですが、同じ英文科のDクラスの人には三宅島から来ている人、北海道から来ている人、全国各地から来ていることがよく分かりました。
 ここで私の社福研でのひとつの試みについて書きたいと思います。それは大学のすぐ後ろに町田市老人福祉ホームがありました。私も、何か貢献できないかと思って、その老人福祉センターに電話をして、ひと月に1回、土曜日の午後、希望者にマッサージをしたいと電話をしました。係りの方は、喜んで受け入れてくださいました。私は、「これが社会福祉だ」とばかりに勇んで福祉センターに出かけました。1日目、5人の方にマッサージをして、大変喜ばれました。それは5回程続いたと思いますが、市民会活動とぶつかったりして、いつの間にか足が遠のいてしまいました。その経験を通して、自分がやってやるぞということが、実に傲慢であったことを深く反省させられました。ボランティアは思い付きでは続かないことがよく分かりました。ボランティアは、人のためにするのではなくて、結局自分のためにすることなのです。人のためにしようと思ったら長続きはしないし、自己満足で終わってしまうことが、その老人福祉センターでの体験から教えられました。そう思い起こしますと、私が大学受験をする時に、リーディングサービスに来てくださった赤十字ボランティアの皆様、宇都宮大学点訳グループの皆様の心からのサポートに感謝の気持ちで一杯になりましたし、聖心女子大OBの点訳奉仕の皆様への感謝の気持ちが改めて強くなりました。
 社福研では他にも忘れられない思い出があります。私が2年生の11月頃かと思います。部活を終えて、私は一人下宿に帰ろうとしていました。下宿に戻る時には、バス停が近くにあるので、通学する学生たちはそこを通るのです。「阿久津先輩!」、社福研に来ている短大の可愛い女の子が私を呼び止めました。私は何事かなと、少し胸が高鳴りました。「先輩に折り入ってお話を聞いて欲しいのです」との深刻そうな声でした。早合点の私、もしかして「愛の告白かな?」と思って心臓がドキドキ。「どんなことかな?」、私は冷静を装うために懸命でした。私は22歳、彼女は19歳か20歳だったと思います。「実は、社福研にいる、経済学部の○○君のことが好きなんですけど、どうしたらいいでしょうか、教えてください。」。思いがけない相談に、私の心はガックリしました。余りにもかけ離れた思い違いでした。実は私も、その短大生にあこがれていたものですから。そこで私が何を答えたか、もう覚えておりません。多分、「勇気をもって手紙を書いたら…」くらいだったと思います。そしてその後、彼女と経済学部の○○君とどうなったかは全く分かりませんでしたが、冷静になってみると、私に相談をしてくれた彼女の素直な気持ちに、今でも感謝しています。幸せになっていてほしいと願うばかりです。
 社福研では大学祭の時に、その年にアメリカから帰国した、短大助教授の小森先生にお願いをして、盲導犬のデモンストレーションとアメリカでの体験を話していただいた思い出があります。そしてもう一つ、社福研で知り合った経済学部の男子と親しくなり、私が大学を卒業してから10年くらい、手紙のやりとりもありましたし、我が家にも2度ほど会いに来てくれました。三重県に住んでいて、当時両親と花屋を開いていました。三宅島から来ていた女性はどうなったか。三宅島が火山噴火して島民が脱出した時に心配をしましたが、連絡方法も分からずじまいでした。このように、社福研での活動は、市民会と共に、私に学生時代の思い出を膨らませてもらうことができました。
 下宿では後輩も入って来たので、私のためにも、書類を読んでもらったり、手紙の住所を書いてもらったりして、1年生の時よりはずっと心が穏やかに、人間関係もスムーズになれました。下宿内でも、慣れてくると、みんな安心して声をかけてくれるようになり、頼むと快く助けてもらえるようになりました。

★メモ★
 1973年には、高校野球では、栃木県作新学院の江川卓選手の時代でした。春の選抜高校野球では準決勝で敗れ、夏の甲子園では2回戦で銚子商業高校に延長12回、雨の中0対1でさよなら負けでした。優勝候補と前評判が高かっただけに、残念でした。野球は一人では勝てないことが実感された年でした。江川卓著「たかが江川、されど江川」という本があります。
 またこの年から、吉田拓郎さんが大ブレーク、私たちの大学祭にも来てもらいました。「襟裳岬」がレコード大賞をとりました。作曲が吉田拓郎さんでした。さらに花の中3トリオ、森昌子さん(栃木県宇都宮出身)の「先生」、山口百恵さん、桜田淳子さんがデビューして十代の歌手が珍しくなくなりました。



我が人生旅日記  /  トップページへ