第26話 英文学と恩師の思い出



 大学2年生から3年生にかけて忘れられない思い出があります。それは2年生の秋の頃だと思いますが、英語の講読の担当をされていた山本文之助先生との出会いでした。山本先生は、日本大学文学部を退職されてから桜美林に来られた先生で、英文学科の学科長をなさっていました。私のクラスの授業でもとても気さくにお話をされていました。70才を超えて、80才に近いお年だったと思います。英語の授業中に、私が一番前に座って勉強をしていると、年に2回くらいだったと思いますが、山本先生は秋田県の出身の先生でしたが、私が使っている点字の教科書を持ち上げて、次のように言うのです。「いいか君たち、阿久津君は目が不自由なのに点字でこんなに一生懸命に勉強しているんだぞ。君たちは五体満足なのだから、もっと努力して勉強しなければ申し訳ないぞ。」。先生は、学生たちの学習への意欲を高めようとのお気持ちだと思いますが、教材にされている私の心は何ともいえない気持ち。小柄な体をさらに縮めて、そのときが過ぎるのをただ待つしかありませんでした。私は、他の学生のためにしているのではなく、英語が好きで勉強をしているのです。しかし、山本先生にとりましては、視覚障害者の私が大学に入り、英語の勉強をしていること自体に感動感激してくださっていたのでした。大変ありがたいことですが、他の学生にそれを強調されてしまうと、私の立場がなくなって「穴があったら入りたい」心境でした。
 それは別にして、山本先生は、池袋の方から通勤されていて、高年齢のこともあって、ある時「私は坐骨神経痛があるので授業をしていても立っていられないのです」とお話になりました。それを聞いた私は、早速山本先生の研究室に鍼の準備をして出向きました。そして、午後の空き時間に、先生の腰や大腿部に鍼の治療をしましたところ、大変喜んでくださいました。「阿久津君、よかったら私の家にも来てくれないか。家内も痛い所があるので、是非頼みたいのだけど」とのお話がありました。11月の頃かと思いますが、歩行に関しては一流の平山さんに声をかけて、二人で山本先生のお宅に伺うことにしました。町田から新宿、池袋と乗り換えて、西武池袋線の東長崎駅だったと思います。二人でお宅を訪問して、平山さんが、山本先生の奥様にマッサージをして、私が山本先生にマッサージと鍼の治療をして大変喜んでいただきました。奥様の秋田県の手料理をご馳走になって、とても幸せな一日でした。この時ほど、私たちが理療科の資格を取っていて本当によかったと実感したことはありませんでした。
 翌年、平山さんが大学を卒業しましたので、次は、6月に増田君に頼んで、二人で再び山本先生のお宅に伺いました。二人で治療をしましたが、増田君が、鍼の治療の専門的研修をしていると聞いて、奥様が鍼治療のことを色々と聞いていました。実は、奥様は昔看護師をなさっていたとのことで、山本先生に鍼の治療を考えていました。早速増田君に頼んで鍼を注文していました。お宅にうかがったのはそれが最後だったと思いますが、私が山本先生の研究室に伺ったのは、大学3年生になってからも4〜5回程度はあったかと思います。盲学校で理療科を勉強してから大学に入ったことで、こんなよい経験ができるとは夢にも考えていませんでした。下宿のおばさんへのマッサージと鍼の治療は4年間続けて治療をさせていただきましたが、人のために喜んでもらえることの幸せを体験することができて感謝でした。先生のお宅で意外に感じたのは、「僕たちはこんな歌が好きなんだよ」とおっしゃって、私たちが子どもの頃に聞いた、昔懐かしい「唱歌」を、嬉しそうにステレオで聴いていらっしゃいました。平山さんからの一言。その頃の山本先生は、視力が弱くなり、文字を読むのが困難になっておられました。それで先生は、先生のすべての本を出版社に依頼して拡大印刷をしてもらったそうです。先生一人しか使わない英和辞典が10万円でした。その辞書は点字用紙ぐらいの大きさでした。現在の10万円ではないのです。学食のてんぷらうどんが45円、カレーライスが80円でしたから、大変なお金でした。私は、感動で胸がいっぱいになってしばらくその辞書をなでていました。「人間は一生勉強」なんて軽々しく言ってはいけないと、あのときのことを思い出して感じました。お金のためだったら、いくら働いても赤字です。学生に、学問のすばらしさを何としても伝えたいという強い熱意がなければ、とてもできることではないと、今では思うのですが、あのときだって私の心をあんなに強く打ったのですから、たぶん先生のテレパシーのようなものが伝わってきたんだと思います。本当に私たちはすばらしい先生方に教えていただいたんだと改めて思いました。研究者たる者の生き様を感じたのが山本先生で、先生は生涯の学問研究者だったのだと思います。
 さて、私はその山本先生からは「比較文学という授業を教えていただきました。山本先生の専門は、イギリスの19世紀の作家、トーマス・ハーディーでした。代表作は「テス」という作品です。その本を授業で講読しながら新たなことを学習することができました。特に、日本の作家と英文学とは関係が深いということでした。その例としては、トーマス・ハーディーの「テス」が、谷崎潤一郎の「春琴抄」という小説に大きな影響を与えているということでした。全く違うように表面的に思えても、そこに流れるものは共通しているというのです。ハーディーの「テス」という小説は、テスという一人の少女が、奉公先で雇い主の息子から暴行を受け、実家に戻り子どもを産みますが、すぐに死にます。その後テスは放浪の末に、最後は自分を犯した男を殺害して、処刑される物語です。一方、谷崎潤一郎の「春琴抄」は、幼少時に目が見えなくなった春琴という美貌の三味線師匠に仕える丁稚の佐助が、春琴への愛を貫くために、最後は自分の目をくり貫いて、一生彼女に仕えるという話です。これらは愛情の表現法が異なりますが、心に流れるものは、比較文学では非常に興味があるということを知りました。山本先生から、比較文学という観点から新たな読書の味わい方について深く教えていただき感謝でした。その際、日本文学も勉強することができました。例えば、志賀直哉や芥川龍之介等では、小説における論理性が重んじられているのに対して、谷崎の流れを汲む小説は、ストーリーが興味深くなければ意味をなさない、そして読者を楽しませなければならないという流れがあるということも、大学において学ぶことができました。英文学においても、バージニア・ウルフの「灯台へ」のように、心理描写を延々と書き連ねる本もあれば、ストーリー性がとても興味深い本があることを知りました。
 更に、英文学について思い出されるのは、池谷先生から以下のようなことを教えていただいたことです。文学の世界では、ロマン主義、自然主義、リアリズムの違いがあるということでした。先生によると、ロマン主義とは、憧れの文学であります。さらに具体的に言いますと、地理的憧れ、時間的憧れ、空間的憧れ、そして男女の愛への憧れがあります。地理的憧れとは、外国へ行きたい、そこでの経験などが分かりやすい小説となります。時間的憧れとは、タイムトラベルして、過去や未来に旅行をしての物語になりますし、歴史を越えての憧れがあります。空間の憧れとは、心の流れを飛び越えての小説があげられるかと思います。意識の流れや心理の流れをテーマにしたものです。男女の愛は、文学の世界では、永遠のテーマになると思います。自然主義文学とは、ジャガイモを掘り出した時に、土の付いたジャガイモを読者に見せることと言えます。島崎藤村の「破壊」等がその代表かと思います。これに対してリアリズム文学は、畑からジャガイモを掘り出して土を取り除き、ナイフで二つ、時には三つにして読者に見せるという小説です。これは20世紀から特に多く見られるようになりました。渡辺淳一さんの本は、まさにリアリズムでエロースの世界を書いており、読者の中には、好き嫌いがハッキリしていると思います。
 大学3年生の時に興味をもったのは、堤稔子先生の英文学史でした。先生の講義は90分が流れるように、あっと言う間に過ぎていきました。私は盲学校で8年間英語を勉強してきたわけですが、英語の歴史については全く知りませんでした。最もそれを学習するのが大学だといえばその通りかも知れませんね。英語には、Old English、 Middle English、Modern Englishがあるというのです。英語と言ってもイギリスそのものから自然発生したのではなくて、外国からの影響の大きいのです。ゲルマン語に属しますから、Old Englishは5世紀から12世紀頃までの英語で、私たちが読んでも、英語とは思えない程の英語です。古期英語とも言いますが、代表作に「ベオルーフ」というのがあります。竜が登場する話ですが、ほとんど忘れてしまいました。Middle Englishとは、中世に使われていた英語で、英語と言うよりもフランス語を読んでいるような感じです。1150年から1500年頃までと言われています。代表作に、チョーサーの「カンタベリー物語」があります。Modern Englishは私たちが学校で学習している英語の基礎となるもので、16世紀から17世紀に確立した英語です。シェイクスピアとかジョン・ミルトン等の英語に始まると聞きました。近代英語も、初期の英語と後期の英語ではかなり異なります。ですから、シェイクスピアの英語は「源氏物語」を読むようなもので、ネイティブな人たちも苦手な人が多いと聞いています。私たちの古典文学に近いものを感じます。堤先生の授業は、静かな話し方でしたが、私は身を乗り出して聴き、次の授業が楽しみでした。テストの時は大きな教室でしたので、私は、隣の個室に1時間早めに行き、堤先生に試験問題を読んでいただき、解答は、カナタイプと英文タイプで書き上げました。1974年の夏に、私は市民会でアメリカに行きましたが、そのレポートを試験で書くことができました。その頃、アメリカでは、ニクソン大統領のウォーターゲート事件といいまして、大統領が選挙にからんで、盗聴事件を指示し、大統領を弾劾裁判にかけるかどうかで揺れていました。私たちはその最中にアメリカに行きましたので、その話をレポートに書いて、英文学史で、ポイントを上げることができました。
 さて、今回の最後の話は下宿生活に戻ります。私が大学3年生になる年には、平山さんは卒業して、栃木県にオープンした、栃木県身体障害者福祉会館(現在栃木県視聴覚障害情報センター)に就職しました。その職場で平山さんは、点訳ボランティアの養成、とりわけ英語点訳のボランティアの養成と、録音関係で朗読ボランティアの養成の仕事をすることになりました。私は下宿での3年目になり、英文科の学生は誰もいませんでしたが、経済学部の学生が親切に助けてくれました。その頃、私には新たに親友ができました。細谷君といいます。彼は岩手県の短大から桜美林に編入して来ましたので、学年は一つ上ですが、単位取得上、私とかなりの部分で一緒に授業を受けていました。細谷君は、山形県天童市の出身、クリスチャンでしたので、話がよくあって、私の下宿によく立ち寄り、勉強の手助けをしてもらいました。彼とは忘れられない一つの思い出があります。私たちの下宿のお風呂は家庭用のユニットバスでした。そのユニットバスに学生8人と、森岡さんの家族4人、合わせて12人が入るのですから、1人当たりの時間は15分程度、しかもお湯を汚さない、使い過ぎないようにとの注意事項がありました。細谷君の住んでいたのは一戸建ての風呂付住宅でした。私は親しくなってから、彼に「ひとつお願いがあるんだ。細谷君の家のお風呂に、一度入らせてもらえないかな?」と、頼み込みました。すると、快く引き受けてくれました。何度お世話になったか分かりませんが、下宿からバスに乗って彼の住まいに遊びに行き、1時間くらいゆっくりとお風呂に入れてもらったことは忘れられません。日曜日の夕方には、彼の手料理をご馳走になったり、おまけにズボンにアイロンまでかけてもらった思い出があります。彼は、私が4年生になる時に卒業をしましたが、その後、神学校に進んだこともあり、友情は続き、私の結婚式に来ていただき、彼の結婚式にもお祝いに妻と共に出席しました。
 振返ると、大学に進学したから、これらの様々な道が開かれたのだと感謝せずにはいられません。



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