第27話 第1回盲晴市民会海外研修会@
〜 アメリカスタディーツアー 見たまま、聞いたまま 〜



 1974年、私たちの盲晴市民会では5人のチームを作り、アメリカの教育・福祉・レクリエーションの実態を学び、日本の文化を紹介したいとの目的で、23日間のアメリカへのスタディーツアーを企画しました。7月1日から23日までの期間で、参加者は以下の通りです。20代女性(晴眼者・専門学生)、20代女性(晴眼者・幼稚園教諭)、60代女性(晴眼者・音訳ボランティア)、20代男性(全盲・大学生)、20代男性(全盲・大学生)。この5人で各自が学ぶべき課題をもってアメリカへの旅に出発しました。その時のレポートをもとに、2回に分けて書きたいと思います。最初は日程と訪問場所、2回目が私が感じたことや、出会いで学んだことなどです。なお、この旅行のためには宣教師のペイトンさんの絶大なご協力とサポートのあったこと、そして、多くの皆様から多額の支援をいただいたことを書き添えておきます。
≪アメリカ旅行の主な日程≫
 7月1日。羽田空港より出発、ボーイング747型機に乗って、アンカレッジを経由して、16時間かけてニューヨークのケネディー空港に、現地時間の7月1日12時に到着しました。時差は13時間でした。空港での私の感動は、私がうろうろしていた時に、May I help you?との声がかかったことでした。「ああ、ついにアメリカに来た!ここがアメリカだ!そして私の勉強してきた英語だ、分かったぞ!」。これは当然過ぎる事なのですが、現地に行って始めて聞いた英語の言葉でした。単純すぎる英語、でもこれを私は追い求めていたのでした。私はその夜、興奮し過ぎて一睡も眠れませんでした。
 7月2日。ニューヨーク・ライトハウス見学。夏休みのために沢山の視覚障害者が生活訓練を受けに来ていました。ボウリング場、プール等があり、建物は広く、スタッフは千人を超えると聞いて、驚きの一言でした。その他、視覚障害者関係の点字図書館等の二つの施設を、猛暑の中を見学しました。夜は、アメリカの方に、スキヤキ料理店での招待をうけました。当時1ドルは290円程度で、とても高い料理だったと思います。
 7月3日。16時20分発のアメリカ大陸をインディアナ州に向かって走る長距離バスに乗りました。
 7月4日。12時20分に長距離バスはインディアナ州エルクハートに到着。その間、フィラデルフィア、ペンシルバニア等聞いたことのある場所を通過して、生きた地理の勉強になりました。休憩はあったものの、18時間におよぶロングドライブでした。エルクハートは、平山さんが1年間留学した所で、お世話になったロナルド・ワークマンご夫妻が今回も私たちのエルクハートでの8日間の全日程の計画を立て、調整をしてくださいました。5人のホームステイ先も、ワークマンさんのお宅でした。その日、着いて間も無く、私たちは浴衣を着て失明女性のお宅を訪問して、彼女が料理など家庭生活を難なくこなしている姿を知ることができました。中途失明ですが、リハビリテーション・センターで生活技術を習得したことを強調していらっしゃいました。定期的に、リハビリセンターに集まり、話し合い、手芸の訓練を継続しているとのことでした。その夜はワークマンご夫妻の主催によるパーティーがありました。庭に20人以上の人たちが集まり、楽しいひと時でした。広い庭には、蛍が飛び交っていたとの説明がありました。7月4日はアメリカ独立記念日でもありましたから、あちこちであがる花火の音を聞きました。
 7月5日。午前中休憩、午後は地元新聞記者のインタビューで、全員日本から持っていった浴衣を着用。今回の旅行の目的やアメリカの印象について聞かれました。
 7月6日。この日は土曜日で、朝4時に、メアリー・ワークマンさんの運転する車に、私達5人とワークマン夫妻が乗って、シカゴを目指して出発。目的はペイトンさん推薦のPUSHという集会で、黒人教会での集会でした。PUSHとは「People united to save humanity」の略称です。2千人、3千人とも思われる集会で、黒人の差別を撤廃しての人間性を高らかに歌い上げる礼拝で、エレキギターとコーラス、ダンスの入る礼拝でした。後に、民主党大統領候補になったジェシー・ジャクソンさんともここでお会いすることができました。このPUSHでの体験は、帰国後に参加した大学英語スピーチコンテストの題材として、私は大いに活用しました。
 7月7日。ワークマンさんたちが出席している、ゴーシャン教会の礼拝に浴衣を着ての出席。礼拝後は日本から用意してきたスライドショーを行いました。日本の教育・福祉の現状、市民会の活動について説明をしました。
 7月8日。エルクハート・リハビリテーションセンターで研修、訓練の様子を見学し、それぞれのテーマについて、職員と話し合いの時をもつことができました。夕方は、私たち日本人が買い物をして、ワークマンさんの庭でのパーティーを催しました。20人程の人たちが集まりました。メニューは、鳥の唐揚げ、人参の天ぷら、酢の物、茶碗蒸し、ビーフン入り肉炒め、フルーツポンチ、日本茶等でした。そこで、興味のある人には、アメリカの人名に漢字を当てて、その漢字の意味を説明して遊んだり、茶道を披露したり、日本の歌を歌ったりの楽しい夕べでした。おまけに歓迎のためか、大粒の雨も後半には降り始めました。これは、恵みの雨というべきでしょうか。
 7月9日。早朝、朝食抜きでインディアナポリスのリハビリテーション大会に向かい、車で6時間も乗ったかと思います。まず最初にインディアナ州立盲学校を見学。夏休みのために生徒はいませんでしたが、教職員との話し合いをしました。もうすでに、統合教育が進み、盲学校の生徒の多くは重複障害者が多数を占めていました。スポーツは、キックボールというソフトボールを蹴って走る野球のようなものです。かつては、日本の盲学校でもしていました。夜はホテルでのリハビリテーション会議に出席しました。400人以上の参加の会議で、私たちは話しについて行けませんでした。豪華な料理、大きな鶏肉のかたまりに、私は手を出すことができませんでした。鶏肉の山にご対面は、この時が初めてで最後でした。一晩ホテルに泊まり、翌日エルクハートに戻りました。
 7月10日。インディアナポリスから帰り、エルクハードのリハビリテーションセンターで研修をしました。私たちも、歩行訓練、タイプライター、全盲の人たちもアルファベットの書き方の指導を受けました。アメリカでは、サインが必須です。
 7月11日。晴眼者は、町に出ての歩行訓練、視覚障害者の二人は調理の研修をしました。そして、その日の4時5分、大変お世話になったワークマンさんご夫妻に別れを惜しみつつ、長距離バスに乗り込みました。行く先はオハイオ州のクリーブランド。7時間のドライブでクリーブランドに到着、そこからさらに1時間ドライブして、ハイブロックロッジというキャンプ場に着きまいた。ここで、サマーキャンプに参加するのです。
 7月12日〜17日。サマーキャンプに参加。大人、高齢の視覚障害者対象のキャンプでしたが、これに参加しました。12日は土産物店の見学、夜は生演奏によるダンスパーティー。13日は地元の博物館見学、夜はヘイライド。これは干し草をトラクターに積んで20人程が、ギターをバックに歌を歌いながら農場を走り回る楽しいプログラムでした。14日には、ペイトンさんの所属するケント教会の礼拝に出席しました。礼拝後は楽しい交流会となりました。浴衣を着て行き、昼食は、外でのサンドイッチのランチでした。この時、一つのアクシデントが起きました。私が小さなテープレコーダーを使って講壇の上から音を流していた時に、それを落としてしまいました。礼拝後、皆さん何かしているなと思いましたら、壊れたテープレコーダーをなおしてくださいと、有志がカンパをしてくださいました。1万5千円もいただき、恐縮してしまいました。行動力のすばやさに驚いてしまいました。これがアメリカの教会であるという、一場面を見たような気がしました。
 7月15日、私たちは、日本食でのパーティーを催すために、車で1時間のクリーブランドへ向かいました。そして午後から夕方にかけて、70人分の食事作りに取り掛かりました。メニューはスキヤキ。日本からはるばる運んだ、インスタントラーメン、酢の物、のり、ライス等、人数が多いので多くの時間がかかりました。その夜は「バンクエット」と称して、野外で日本風のパーティーと歌で大いに盛り上がりました。
 7月17日〜18日。私たちは、キャンプのディレクターである、ダイヤモンドさんのお宅でのホームステイとなりました。5人のうち、私達視覚障害者は、ダイヤモンドさんの家、女性3人は隣の家に住む視覚障害者の若い夫婦の家にホームステイをしました。2才になる女の子と2頭の盲導犬がいました。
 7月18日、オハイオ州にある、サイトセンターを訪問しました。視覚障害者と弱視に関する支援センターでした。相談と研修を個人のニーズに応えてもらえるとのこと、長期の夏休みがここでも有効活用されていると感じられました。同時にレクリエーションの交流の場ともなっており、いわば視覚障害者の社会教育も兼ねている様子を知ることができました。
 7月19日〜21日。今度はファミリーキャンプに参加しました。視覚障害をもつ家族が参加するキャンプです。内容は前のキャンプとほぼ同様ですが、午前中は水泳やボウリング、日陰で新聞を聞いたり、ハンドクラフト等を選ぶことができました。午後は、施設見学、ボート漕ぎ、魚釣り、近くの観光等を選ぶことができました。私がひとつ驚いたのは、観光旅行でアーミッシュを訪れることができたことです。彼らは、キリスト教原理を重んじて電気の文明を否定して、車も使いません。テレビも持ちません。それらは人間の心に罪悪をもたらすと考えています。彼らは牛を育てて収益を得ます。村全体がアーミッシュなので、青年たちもその中で結婚をします。こうした生活を否定する若者は村を離れて大都市に行くそうです。ドイツ系の人たちが多くいるように感じました。その人たちと話をしましたら、世界は文明というが、滅びる方に向かうばかりだ。戦争をするのが文明の最悪の行為であると言っていました。
≪参加した専門学校生の声≫
 アメリカの女性は生活訓練を充分に受けて、仕事や結婚も日本より可能性が多いように感じられた。日本では、何でも盲学校にさせているのではないか。誰にでも本格的な生活訓練を受ける場が提供されるべきではないか。
≪メモ≫
 アメリカでのラジオのこと。アメリカにいて驚いたのは、ラジオ放送の充実です。AM、FMとも、数え切れないほどの放送局がありました。英語・スペイン語が主でした。特に、FM放送は、40から50局の放送が流れ、音楽では、クラシック・ロック等、ジャンル別、時代別、作曲家別の音楽も流れており、1日中聞いてもあきませんでした。これでは有線放送はいらないなと感じました。
 ニューヨークで天気予報を聞いていたら、hot, hazy, humid などの単語が耳に飛び込んできて、今でも忘れられません。猛暑のこと、熱い曇ってもやがかかること、蒸し暑いことをこのように言うのですね。夏が来ると思い出します。
 ウォーターゲート事件。1972年ニクソン大統領の支持の下、民主党に盗聴が仕掛けられそうになり、発覚しました。1974年頃、大統領を弾劾裁判にかけるかどうかおおもめでした。私が会った人たちの多くは、悪いことは悪いのだから大統領は早々に辞任すべきとの声を多く聞きました。結局、大統領は弾劾裁判にまでいたらずに辞任をしました。
 ワークマン夫妻は、その後、2度に渡り来日して市民会の人たち、特に平山さん・アメリカでお世話になった私たちが2度会うことができて親しく交流の時を持ちました。
 カラオケについて、1970年になってから「カラオケ」という言葉が一般的に広まった。1973年に発売された、南こうせつとかぐや姫の「神田川」が大ヒットしてから、カラオケが本格的に日本に普及しました。それからカラオケハウス、カラオケボックスが全国に広がりました。それまでは歌の無い歌謡曲」としてラジオでは放送されていました。



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