第28話 第1回盲晴市民会海外研修会A
〜 アメリカスタディーツアー 見たまま、聞いたまま 〜



 今回はアメリカにおける視覚障害者の職業とレクリエーション、生活について書きたいと思います。前回と一部重複しているところもあるかと思います。
 視覚障害者のレクリエーションと職業について書くのですが、いかんせん広大なアメリカのこと、州によっては法律も異なるので、私たちが聞いた範囲内ということでご理解をいただきたいと思います。「アメリカはどうですか」とアメリカ人に聞いても、答えられない人も多いと思います。インディアナ・リハビリテーション・センターで聞いたことですが、そこでは生活訓練の基礎を教えていて、職業訓練は行っていないとのことでした。高等教育を受けた人は、様々な職種への可能性がありますが、就職が困難な視覚障害者は、センターから近くにあるワークショップで箒作りをして働いていると聞きました。盲学校を見学して驚いたのは、ローラースケートやランニングのために、体育館のギャラリーを利用して、1周50メートル程の手すりつきの場所があり、走ったり滑ったりできるようにしてあって羨ましく感じました。オハイオ州でのキャンプを始め、夏休みを利用してのキャンプは、アメリカならではと思われる楽しみ方を感じました。80代と思われる全盲の女性が生き生きと水泳を楽しそうにしていたのには驚きました。オハイオ州のサイトセンターでは機械工・塗装の指導がなされていました。またハンドクラフトの指導が盛んで、たくさんの人形が作られていました。サイトセンターでは、ソーシャルクラブといって、趣味に合わせて資格の有無によらず、楽しい趣味の活動、コーラス、クラフトが盛んでありました。
 さて、私個人の体験からの感想を書かせていただきます。限られた期間で結論を出すことは極めて危険だと感じています。そこで、私が出会った人々から学んだことを書かせていただきたいと思います。私はこの研修旅行で出会った二人の視覚障害者から学んだことを書きたいと思います。
 最初はロナルド、ワークマンさんとの出会いです。ワークマンさんから独立心について教えられました。彼は当時62歳でした。13年前に事故が原因で完全失明。その後、妻とは死別、しかし数年前に、教会で知り合った、メアリーさんと再婚しました。メアリーはエルクハート・リハビリテーション・センターの職員として仕事をしていました。ワークマンさんは、3人の秘書を雇って、生命保険の勧誘をする仕事をしていました。ワークマンさんの最も強調していたことは「自立心」でありました。彼にはメアリーという晴眼者の奥さんがいました。しかし、彼はいつでも、どこへでもロングケイン(長い直杖)を持ち歩きました。そして、私に絶えず、杖を持っているかと聞き続けました。それは、私は盲人である、だから杖を持つということを、社会に啓発し続ける姿勢だと感じました。それと共に、ワークマンさんは、社会貢献を意識してライオンズクラブにも所属しており、平山さんを留学生として受け入れる時にも、ライオンズクラブに支援を訴えたようです。妻には極力頼らない。社会においてできることは率先して参加すべきであるというのが、ワークマンさんの理念であり、信仰でもありました。彼は家庭においても、いつもメアリーを助けました。食事の準備、それに伴う買い物。買うときには商品の手触りや匂いを嗅いで決めると言うのです。車を買うときにはエンジン音を聞いて、良し悪しを見分けることができると得意になっていました。むしろ、家庭においてしないことを見つけ出すことが難しいことを知りました。私ならば、たちまちグロッキーになってしまうと、60歳を超えた今でも思います。彼がしないことは、新聞を読むこと、車の運転をすることぐらいかも知れません。現在ならばインターネットを使っていることでしょう。ワークマンさんのような中途失明者で活躍している人は、アメリカでも数は少ないかと思いますが、日本よりは多いことだけは確かだと思います。日本では、晴眼者と結婚をすると、奥さんに頼りすぎていると思われる人が沢山います。それは個人の問題ではないかと思われますが「あの人は奥さんがいないと何にもできないのね!」と、言われてしまうのは寂しく残念なことです。他方、病院に一人で行くと、日本の社会的通念では、「奥さんはご一緒ではないのですかと、聞かれることが多いのも現実です。また、ガイドヘルパーをお願いすると、奥さんですか?」と、聞かれることもあります。日本の制度が進むにつれて、ワークマンさんの生き方を、もう一度思い直しております。
 次に全盲夫婦のルイスとシェリーとの出会いです。この出会いから、視覚障害者についての「自己確信」を学びました。私がこの家庭を訪問したのは、7月17日のことでした。オハイオ州・クリーブランドです。ルイスは26歳で全盲の税理士です。シェリーは28歳で同じく全盲です。彼らには2歳になる女の子と2頭の盲導犬がいました。私たちが彼らの家を訪問すると、2歳の女の子、クリスといいますが、興奮して歓迎してくれました。歓迎の表現として彼女の宝物のおもちゃを手当たり次第に投げつけ始めました。最初のうちはクリスに口頭で注意をしていたルイスでしたが、いつまでもおとなしくならないクリスを膝下に呼んで次のように言いました。「おまえはパパが何度も注意をしているのに分からないのかい。ものを投げるのはよいことだと思うのかい。もう投げないとパパに約束するかい。」。そういわれたクリス、しばらく沈黙していました。ノー アンサーでした。すると、ルイスは続けてこう言いました。「いいかいクリス、お父さんの目を見るんだ。真っ直ぐに見るんだよ。いいね。約束だよ。」。私はこのできごとに感動しました。これがアメリカの盲人の姿なのだと感じました。今では、日本の視覚障害者の若い夫婦でも、このような会話があるかも知れません。しかし、1974年の頃には、聞いたことはありませんでした。目の見えないことを誇りに思っているのです。当時の私には、このような場面は考えられない、信じられない光景でした。当時の盲学校教育で教えられたのは、愛される盲人、嫌われない盲人になることでした。「すみません。ごめんなさい」の人生と言う人もいます。こう言えば、日本の社会では生きていけるのです。卑屈というよりも、謙虚に生きることが日本人にとっての最良の方法であります。視覚障害者に限らず、日本人の徳とも言われています。何十年たっても変わらないような気がします。しかし、現在の日本人の中には勇気をもって「ノー」と言うべきと言う人も出て来ました。確かに言わなければならない時は、勇気をもつべきだと思います。また、グローバル化の進む社会の中で、グローバルな人材が求められているのも事実です。そして、グローバル社会で生き抜く日本人を育成するためにも、中学校・高校では、Noという英語の時間を多く作る必要があると感じます。アメリカは何でもナンバーワンというところがないわけではありませんが、多民族国家でサラダバーと言われるアメリカでは、自分の考えをハッキリと表明することをしないで、沈黙をしていると、会議では「イエス」となります。日本の会議でも、提案がされて黙っていれば、それは異議なしとされています。ペイトンさんが、私たちに伝えたかったことは、このことだと教えられました。視覚障害者は少数者です。黙っていては理解してもらえませんし、状況はますます不利益をもたらすことになっていくことでしょう。格差社会の広がる現在、これは障害者だけの問題ではなくなりました。日本の外交を見ていると、言うべきことをハッキリ言わないで、アメリカに妥協の連続の歴史ではないかと思います。沖縄での米軍基地の問題がそうですし、原発についても、江戸時代でもないのに、「しらしむべからず、よらしむべからず」でメルトダウンも隠蔽し続けて、2ヶ月ほどしてから、情報を小出しにしました。アメリカの放送では、3月13日には、原発地から50キロ以上離れるようにと放送をしていました。第2次世界大戦終了についても、軍部のリーダーたちは8月10日以降知っていたのに、国民には15日までは知らせなかったため、逃げ遅れてシベリア抑留をされた国民が35万人におよぶと聞いています。こんにち、10パーセントの経済的裕福な人、高級官僚によって動かされる日本社会。38年前のアメリカ旅行を振返りながら、日本の社会は技術の発展はありましたが、社会環境は一進一退、改善されたことは多いが、国民が幸せになっているのだろうかと、思わずにはいられません。
 さて、このアメリカ旅行のフィナーレは、帰国後に私が参加した大学におけるスピーチコンテストでした。1974年の11月に「デイリー毎日」がスポンサーになって、英語のスピーチコンテストが桜美林大学でおこなわれました。私は英語会話の担当の、ポール・プラット先生からのお勧めをいただいて、このスピーチコンテストに出ることにしました。私のスピーチの演題は「Visiting PUSH」でした。PUSHとは、前回も書きましたシカゴの黒人教会の集会のテーマで、「People united to save humanity」の略称です。ここでリタニーと言って、司会者が唱える言葉を会衆が唱和する形で、自分たちが信じ、確信していることをみんなで叫んで励まし合ったのでした。私は、そのことを中心に、市民活動の体験からアメリカに行って、シカゴでのPUSHを訪れて「私は価値がある」ということを学んだことを語りました。たとえ目が見えなくても、貧しくても、社会的弱者でも、一人一人には人権があり、神様の前には平等であり、価値がある。そして、「私は価値があります。そしてあなたも価値があるのです」というようなことをスピーチにまとめての内容でした。応募者38名、予選突破は7大学から15名でした。その最終結果として、幸運にも、私は1位になることができました。これは私を応援してくださった、トム・ペイトンさんのお陰です。そして感謝の気持ちでした。「私は価値がある」を英語では「I am somebody」といいます。今こそ、失いつつある自信や勇気をもって生きていきたいと自らを励ましています。これは、傲慢からではなくて、自らの存在を認め受け入れてゆく宣言だと私は信じています。そして、これは障害を持つ人、差別に苦しむ人たち、全ての人へのメッセージでもあります。「あなたは高価で尊い。」(聖書)
★メモ★ 
 平山さんからの一言、アメリカの食事といっても難しい。アメリカは、人種のるつぼといわれるようにたくさんの国からの移民がいるので、もちろん日系人もいるから、当然日本食もある。しかし、一般的にいうと、朝は、オレンジジュース・コーンフレークに牛乳と砂糖をかけて、その上にバナナ・イチゴなどの果物をのせて食べる。それに小さいロールパンか、トーストを1枚の半分ぐらい食べる。お昼は、サンドイッチかハンバーガーで、それにセロリなんかを食べる。夕食は、ディナーの時は、スープ・ローストビーフ・マッシュポテト・サラダ・小さいパン・デザートにアップルパイ・アイスクリーム・ケーキがどれか一つ出るので、食べ過ぎないようにデザートのために少し控え目に食べておいてデザートも楽しむ方がいい。サパーの時は、サンドイッチ・サラダ等を食べる。アメリカ人は、食事の時も、休み時間もよくコーヒーを飲む。



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